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第56話

ヴィラから戻った後、アルフォルトは熱を出した。 冷たい雨に打たれたのが良くなかったのか、はたまた精神的なものなのか。 原因はどちらにせよ──あるいは、その両方か、アルフォルトは三日間高熱に魘され、ようやく起き上がれるようになったのは熱が下がってから二日後だった。 「貴方の従者を、辞めようと思います」 ライノアの言葉を理解するまでに時間がかかったのは、脳が理解するのを拒否しているからだろうか。 すぐに反応出来ないでいるアルフォルトを抱きしめたまま、ライノアは言葉を続けた。 「既に、ベラディオ様と宰相にはお伝えして──二人からは了承を得ております」 「······だから、僕をヴィラに来させたのか」 おかしいと思ったのだ。 忙しくて城から出られないはずのアルフォルトを、態々時間のかかるヴィラへと出向かせて休息を取らせるなんて、と。 ライノアと落ち着いて話をさせる為に、ベラディオが配慮したのだろう。 頷きはしなかったが、無言は肯定を意味していた。 「······聞いてもいい?」 動揺で声が震える。 「はい」 淡々としたライノアの声から、感情は読み取れなかった。背中を向けているから、今どんな表情なのかもわからない。 「従者を辞める事と、ライノアが秘密にしている事は──関係ある?」 アルフォルトの問に、ライノアの身動ぐ気配がした。 「やはり、私が秘密を抱えている事に気づいていたのですね」 お互いに気づかないふりをしていた。 何も知らないままなら、ずっと一緒にいられると思っていたから。 「あのさぁ、何年一緒にいると思ってるの?」 思わず苦笑いするアルフォルトに、ライノアは「十年は一緒にいますね」と呟いた。 ──そう。 父よりも、亡くなってしまった母よりも。 誰よりも長い時間を共に過ごしている。 「······どこから話せばいいのか」 ため息と共に、腹部に回された手に少し力が込められた。 項にライノアの額が触れる。 「全部、話して」 アルフォルトは暖炉の火を見つめたまま、ライノアの言葉に耳を傾けた。 「──十年前の雨の日、私は母から逃げて来ました」 ライノアが語ったのは、小さな子供の悲劇だった。 産まれた時から実母に疎まれていた事。 その母に命を狙われて、十歳の誕生日に殺されかけた事。 従者共々亡命しようとしたが、どこからか情報が漏れて追跡者の襲撃を受けた事。 「結局私は逃げきれず、追跡者の矢を受けて川に落ち──その後はご存知のとおり、貴方とアリア様に拾われて今に至ります」 ライノアの話は、十歳の子供が辿る運命にしてはあまりに過酷で、それなのに淡々と語る声にアルフォルトは堪えきれず涙を零した。 身体を反転させ、ライノアの身体にしがみつくように抱きついた。 そんなアルフォルトに苦笑いし、ライノアは赤くなった目元を優しく拭ってくれる。 「この間、私が宰相のせいで書庫に閉じ込められていたでしょう?」 急に話が変わり、アルフォルトは訝しんだがライノアは構わず続けた。 「あの時、アルフォルトの元を尋ねて来たエルドレッド王子は──私の兄です」 思わぬ告白に、アルフォルトは目を見開いた。ついでに、驚きで涙も止まった。 エルドレッドは、自らをディオハルト帝国の第一王子だと名乗った。 ディオハルト帝国は先日、大国を統べる女帝が崩御したのを思い出す。 「まだあの時、母は存命だったので──閉じ込められたのは、帝国の人間と鉢合わせないようにという宰相の配慮でした」 「え、つまりライノアは」 「隣国ディオハルト帝国第二王子、エルディオス·リー·ディオハルト。これが、私の本当の名前です」 「······じゃあ、ライノアは」 アルフォルトは、震える手でライノアの頬に触れる。 十年間、アルフォルトが呼び続けた名前は。 呼ばれると、嬉しそうにしていたその名前は。 「ええ、『ライノア』は私を守って死んだ従者の名前です。──ずっと、騙していてすみません」 何かが、アルフォルトの中で崩れた。 ♢♢♢ その後、どうやって帰って来たのかよく覚えていない。 勿論、乾かした衣類を纏って馬で戻ったのだろう。 でも、その間にライノアとどんな会話をしたのか、そもそも話すらしなかったのか。 頭がぼんやりとして、何も思い出せなかった。 そうして、夜には激しい頭痛に襲われ──そのまま、熱を出して寝込んだのだ。 「──ほんと、嫌になる」 精神も肉体も。己の弱さに嫌気が差す。 熱で魘されている間、アルフォルトの看病をしてくれたのはおそらくライノアだ。 しかし、熱が引いて起き上がれるようになると、パタリと姿を見せなくなった。 ライノアの事をメリアンヌに聞いても、曖昧に笑うだけで答えてはくれなかったが、ライノアの隠し事については聞いたのだろう。 それから、従者を辞める話も。 「今までいっぱい殴って来たから、不敬罪で捕らえられちゃったらどうしましょ」と、頬に手を当てて困ったフリをする侍女に、思わず笑が零れた。 熱が下がってすぐに、ベラディオも見舞いに来てくれた。 そしてライノアの事を話しはじめた。 ライノアが隣国の王子なのは初めから知っていたらしい。 元々、ライノアの兄──エルドレッドから、折を見て弟を預かって欲しい、と打診を受けていたようで、まさか自分の息子がその王子を拾って来るとは思わなかった、と苦笑いしていた。 そういえば、とアルフォルトは思い出す。 エルドレッドに会った時、誰かに似ていると思ったが、よく考えたらライノアに似ていたのだ。 どうりで人見知りしなかった訳だ、とアルフォルトは一人で納得した。 ベラディオから、ライノアが帝国の王子である事を秘密にしていたのは、アルフォルトを守る為だったとも言われた。 万が一、ライノアが生きていると帝国の女帝に知られても、事情を知らなければ守る(すべ)があるからだ、と。 ライノアが王子だという事は、ベラディオと宰相、それからアランとアリアのみの秘密だったようだ。 戦争の火種になりかねない危険因子を十年も抱えていたのかと思うと、国として大丈夫かと心配になる。 それとなく聞けば、ベラディオは「その分扱き使ったからな」と事も無げに笑った。 更に二日後。 アルフォルトはようやく全快した。 重かった身体はいつも通りだが、運動不足なのは否めない。 ベッドから起き上がると、寝室のドアが静かに開いた。 「──おはようございます、アルフォルト」 「おはよう、ライノア」 アルフォルトの肩にカーディガンをかけて、ライノアは持ってきた紅茶を手渡した。 ティーカップから、茶葉の良い香りが漂う。 「今日は朝食の後、成人の儀に参列する際の衣装合わせをして頂きます。それから──」 淡々とスケジュールを確認するライノアを手で制した。 紅茶をサイドテーブルに置き、ライノアをじっと見つめる。 「ここ数日、全然僕の所に来なかったよね?なんで?」 アルフォルトの問に、ライノアは気まずそうに視線を逸らした。 「従者を辞めるから、僕の事はもうどうでもいいと?」 「それは違います!」 思ったよりも大きな声に、アルフォルトも、声を出したライノア自身も驚いた。 「······じゃあ、なんで?」 視線を逸らしたままのライノアを見つめ続けると、いよいよ根負けしたのだろう。 ボソボソと、歯切れの悪い話し方でライノアは白状した。 「······私も風邪を、ひいたので」 「はぇ?」 予め考えていた原因のどれにもあてはまらず、アルフォルトはつい間抜けな声を出した。 そんなアルフォルトにかまわず、ライノアは顔を手で覆い、話を続けた。 「あまりにも高熱が下がらないので、気休めでも、と貴方に薬を飲ませたんですよ」 「薬?飲んだ記憶がないけど」 アルフォルトは毒に耐性がある為、普通の薬が効きにくい。それでも、何もしないよりは良いだろう、と毎回薬を飲むのだが──今回は、熱に魘されて、全く飲んだ記憶がない。 アルフォルトの頭に疑問符が浮いているのに気づき、ライノアは視線を逸らしたまま答えた。 「それはそうでしょう。意識がほぼ無い貴方に口移しで飲ませたので」 「はい!?」 「薬も、水も。熱で魘される貴方は自力で飲む事が出来なかったので、毎回私が飲ませました」 「それは──大変ご迷惑をおかげしました?」 語尾が疑問形になるのは仕方がないと思って貰いたい。 意識が朦朧とする人間に飲ませるのは大変だっただろう。 少し申し訳なく思い、窺うようにじっと見つめれば、ライノアはいよいよ降参したのか、深く深くため息をついた。 「風邪をひいた人間に深く口付けしたようなものですから──貴方から風邪を貰ってしまい、私も寝込んでいたんです」 白状したライノアの耳が赤い。 「まぁ、その前に私も雨で身体を冷やしてましたし」 思ってもみなかった答えに、アルフォルトは思わず安堵のため息をついた。 「なぁんだ、良かった······」 「何も良くないです」 それから、ジワジワと笑いが込み上げて来る。肩を震わせたアルフォルトを不審に思い、ライノアが肩に手を添えて──声もなく笑うアルフォルトに、ライノアもつられて笑いだした。 「はははっ、風邪ひきに口移しって!そりゃあ風邪貰っちゃうよね」 「ふふっ、仕方がないじゃないですか。苦しそうな貴方を見ていられなくて······飲ませた後に『あ、まずい』と気づきました」 「気づくの遅いよ!馬鹿だなぁ」 ケタケタとベッドの上で笑い転げるアルフォルトに、ライノアも肩を震わせて笑う。 「メリアンヌにも同じこと言われましたよ」 一頻り笑い、アルフォルトはライノアをじっと見つめた。 「······てっきり、もう国へ帰ったのかと心配した」 ライノアに手を伸ばすと、腕を掴まれて起こされる。 「言ったでしょう?シャルワール様の成人の儀が終わるまでって」 蒼い瞳にアルフォルトを映し、ライノアは微笑んだ。 「お前、本当は大国の王子なのに······僕みたいなのに拾われて()き使われてさ、可哀想」 意地悪く笑って見せれば、ライノアは優しく微笑んだ。 「そうですね。貴方に捕まって──私はこんなに幸せだ」 あまりに優しく笑うから、思わず泣きそうになり、アルフォルトは慌てて視線を逸らした。 本当は、言ってやりたかった。 いずれ離れるなら、なんで「好きだ」なんて言ったのか、とか。 なんでこの気持ちに気付かせたのか、とか。 いつかいなくなるなら、知らないままの方が──。 (いや、多分時間の問題か) きっと、遅かれ早かれこの気持ちには気付いた事だろう。 それなら、せめて。 「ねぇ、ライノア」 十年間呼び続けた、偽物の名前。 もう、本当の名前で呼んだ方がいいのはわかっている。 でも、あの日アルフォルトが拾ったのだ。偽の名前でもなんでもいい。十年の時を過ごしたのは、確かに「ライノア」なのだから。 「はい、アルフォルト」 ライノアは、躊躇わずに返事をした。 「辞める前に──最後に一つだけ、僕の願いを聞いてくれる?」 「なんですか?」 ライノアの問いに、アルフォルトは微笑んだ。 「まだ、内緒。最後の日に言う」 「わかりました。国に戻らなくてはいけないので『死ね』以外ならなんでもいいですよ」 「そーいう冗談言う?······まったく、情緒も何もないねぇお前は」 クスクスと笑うと、ライノアは眩しい物をみるように目を細めた。蒼い目が、アルフォルトを捉えて離さない。 「あと一ヶ月と、少し。めいいっぱい()き使ってやるから、覚悟して」 シャルワールの成人の儀までに、弟を殺そうとした犯人を捕まえる。 それから、安心してライノアが国に帰れるように──。 (いや、今はまだ考えないようにしよう) そっとライノアの頬を撫でると、その指を捕らえられて、アルフォルトの爪に口付けた。 「アルフォルトの仰せのままに。私は貴方の従者(しもべ)ですから」 従者は、優雅に微笑んだ。

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