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第59話

──少しだけ、昔の話をしよう。 そう、あれは冬の気配が近づく、ちょうど今くらいの寒い季節。何日も雨が続いた、十年前のある日の事──。 孤児院の慰問の帰り道、王妃と小さな王子を乗せた馬車は立ち往生していた。 数日降り続いた雨で、舗装されていない道がぬかるみ、車輪がその轍から抜け出せなくなってしまったのだ。 代わりの馬車を手配してはいるが、同じように立ち往生する馬車が多発し、到着が遅れていると侍従が話していた。 夕刻に出立した為、既に外は暗く見通しも悪い。歩いて帰ろうとしたら、護衛や侍従から「お立場を考えて下さい」とやんわりと窘められ、しかたなく、大人しく馬車の中で待っている。 雨の日に外を歩き回れる、またとない機会だったのに、とアリアは残念に思った。 さっきまで楽しくお喋りしていた息子は、アリアの膝に頭を乗せて、すやすやと寝息を立てている。 孤児院で、同世代の子供達と遊んで疲れたのだろう。頬をつついても起きる気配はなかった。 「どんな環境でも眠れるって才能よねぇ」 息子の頭を撫で、アリアは微笑んだ。 指の間をすり抜ける金色の髪は偽物で、マルドゥーク家を象徴する艶やかな黒髪をその中に隠している。 自分の立場を幼いながらに理解しているのだろう。息子はカツラを嫌がりもせず、言いつけを守って人前では絶対に外さない。 「神経が図太いのは母親譲りなのでしょう」 目の前に座るメイドが、皮肉げに口の端を釣り上げた。 致命傷を受けて死にかけていた彼女は、数年前にアリアが拾った。 怪我が治ったらてっきり出ていくのだとばかり思っていた彼女は、アリアの何を気に入ったのか、メイドとしてマルドゥーク家に留まり、アリアの世話をしてくれている。 世話、と言ってもアリアは身の回りの事はほとんど自分でやるので、彼女の仕事は主に護衛と話し相手、それからアリアが暴走しないようお目付役もしている。 「繊細で壊れてしまうよりはずっと良いわ、メアリー」 にっこり微笑めば、メアリーと呼ばれたメイドは鼻で笑った。 メアリーは、アリアが付けた名前だ。本名は知らないが、特に困っていないので気にしていない。 「それはおおいに結構ですが、貴女は身体が貧弱なのと、それからお二人の立場を都合良く忘れるのは辞めてくださいね」 メアリーはそう言って肩を竦めた。 アリアが先程歩いて帰ろうとしたのを怒っているのだろう。 言い方や仕草は皮肉交じりだが、メアリーは素直ではないので、彼女なりに心配してくれているのがわかり、アリアは顔を綻ばせた。 「ホント、なんて窮屈な身分よねぇ?」 寝ている息子から返事はないが、同意を求めるように頭を撫でながら溜息を()いた。 春に息子は七歳の誕生日を迎え、王族としての名前が与えられた。 「アルト」という少年は「アルフォルト」として、今後王子という立場を背負って生きていかねばならない。 厄介なものを背負わせてしまった、とアリアは申し訳なく思うが、自分を愛してくれた人が一国の王だったのだから、どうしようもない。 「アリア様、外では『アルフォルト様』と正式なお名前でお呼び下さい」 再びメイドに諫められるが、アリアは首を傾げてイタズラな笑みを浮かべる。 「あら、ここは馬車の中だからではないのよ?それに貴女と私しかいないのだし大目にみて下さらない?」 「······この減らず口」 メアリーは、それはそれは深く溜息を吐いたが、その表情は何処と無く楽しそうだ。メアリーがいると退屈しなくて良い、とアリアは思う。 「······ん~」 モゾモゾと膝の上で身じろぐ気配がし、視線を向けるとアルフォルトが目を擦っていた。 「あら、うるさかったかしら?ごめんねぇアルト」 背中をトントンと優しく叩くと、アルフォルトは目が覚めたのか、ゆっくりと起き上がった。 ぼんやりした表情は、ここが何処か考えているのだろう。馬車の中を見渡して、アリアとメアリーを見つけると、花が綻ぶように、ふわりと微笑んだ。 「おはようございます。かあさま、メアリー」 「おはようございます、アルフォルト様」 ぺこりと頭を下げた後にアルフォルトはふぁあ、と欠伸をした。寝起きで少し舌っ足らずな話し方にあどけないその仕草は、親の欲目抜きにしても、恐ろしい程に愛らしい。 先日も息子を拐かそうと変質者が侵入した事を思い出した。幸いマルドゥーク家の護衛は優秀で事なきを得たが、油断は禁物だ。アリアは歩いて帰らなくて正解だと改めて思った。 「おはようアルト。でも、まだ寝ていても大丈夫ですよ?」 アルフォルトの身体を抱き上げ、膝の上に乗せると、何かを探しているのかキョロキョロと視線を彷徨わせる。 「どうしたの?」 尋ねれば、アルフォルトは不安そうな表情で窓の外を指さした。 「誰かが、泣いてる」 アリアとメアリーは顔を見合わせた。耳をすましたが、人の泣き声は聞こえなかった。 夢でも見たのだろう、と小さな頭を撫でると、アルフォルトはアリアの腕をすり抜け、馬車のドアを開けた。 繊細な見た目からは想像もつかない程、アルフォルトは機敏に動けるし活動的だ。 そんな所まで母親に似なくていいのに、とメアリーから事ある毎に言われていた。 「アルフォルト様!?」 「助けなきゃ」 そう言って馬車の外に飛び出したアルフォルトをメアリーは慌てて追いかける。 あらあらと頬に手を当てて立ち上がろうとしたアリアを睨み、メアリーはその体を馬車に押し止めた。 「アリア様!!絶対に馬車から出ないで下さい。アルフォルト様は私が追いかけますので」 そう言って馬車のドアを閉め、外で待機していた護衛に何やら話しているのが窓から見える。 おそらく、アリアが外に出ないように見張ってるよう指示したのだろう。 「そこまでお転婆じゃないのに······多分」 アリアは独りごちると、アルフォルトを追いかけて走りだすメアリーを窓から眺めた。 ♢♢♢ ──夢を見ていた。 冷たい水の中、必死に腕を伸ばす夢。 でも、どんなに伸ばしても身体はどんどん沈んでいって、水面から遠ざかってゆく。 泣いても叫んでも、誰も助けてくれない。 ──そうだ、自分は要らない子だった。 だから誰もこの手を掴んではくれないのだ。 諦めて、伸ばしていた手から力を抜いて。 迫り来る暗闇に身を委ね、目を閉じようとしたら、誰かに手を掴まれた。 それは小さな白い手で、頼りない。 それでも絶対に離さないと言わんばかりに必死に掴んでくる手は温かく、微かに光って見えた。 でも、このままならその手ごと闇に沈んでしまう。それだけは嫌だ、と思った。 もう、いいよ。と口を開こうとし──目が覚めた。 「······っ」 心臓が、早鐘を打っていた。 呼吸も荒く、身体が鉛のように重い。 指先すら動かすのが億劫だ。 (──ここは、どこだ?) 視線の先は見知らぬ天井。 うまく動かない頭で、必死に状況を理解しようとする。 確か、母上の仕向けた賊に襲われて──このままでは命が危ない、と従者や護衛と城を出たのが朝。 その後──。 (そうだ、追っ手に見つかって······) 皆、自分を逃がす為に応戦し、命を散らした。最後まで一緒にいた従者も殺され、自分も矢を受けて、川へ沈んだ。 てっきり、自分も死んだものだとばかり思っていたのだが──。 (生きてる?) 死んだにしては、やけに重い身体。頭も痛い。 それに。 右手に温もりを感じ、視線を向ける。 先程まで見ていた夢で、自分の手を必死に掴んでいた小さな白い手。 それが、夢と同じようように自分の手を握りしめていた。 その手の持ち主を見て、ハッとする。 ──やはり、自分は死んだのかもしれない。 艶やかな金髪。白い肌、薔薇色の頬。 絵画の中でみた小さな天使が、自分の手を握りしめて、すやすやと寝息を立てていた。 ベッドに頬を預けて眠る姿は、触れれば壊れてしまいそうな繊細さで、思わず息を飲む程に浮世離れしている。 動かない身体をどうしたものかと、ぼんやりと天使を眺めていると、ずっと自分の手を握りしめていた小さな手が、ピクリと動いた。 「ん······」 長い睫毛を震わせ、開かれた紫水晶の瞳と視線がかち合う。 しばらくぼんやりと自分を見つめていた天使はハッとして、見た目からは想像も出来ない機敏さで起き上がった。 「目!覚めた!」 大きな瞳が嬉しそうに瞬きし、パタパタとドアへ駆けて行く。 「男の子が起きたよー!!」 ドアを開けて天使が大きな声で呼びかける。すぐに、メイドが一人部屋へと入ってきて、落ち着きなく動き回る天使を抱き上げると、自分の横たわるベッドの方へと近づいて来た。 茶色の髪に整った顔立ちのメイドだが、隙のない雰囲気で品定めでもするかのように見つめられ、居心地が悪い。 「ご自分の状況は理解していますか?」 声も硬く、警戒されているのがわかる。 どう答えたものかと考えていると──。 「あらあら、そんなに威圧したら怖くて言いたいことも言えないわよ、メアリー」 柔らかな絹のような声と共に、人形のような女性が部屋へ入って来た。 「母様!男の子が起きたよ」 天使がメイドの腕を離れて女性に駆け寄り、嬉しそうに話す。それをニコニコしながら聞く女性は、とても子供がいるとは思えない程作り物めいているが、天使と女性の顔はそっくりだった。 違うのは、瞳の色と髪の色くらいだ。 「アルト、嬉しいのはわかりますが落ち着きなさいねぇ······まったく、誰に似たのかしら」 天使の名前はどうやら「アルト」というらしい。纏う雰囲気や容姿によく似合う名前だ、と場違いにも関心した。 頬に手を当てて溜息をつく女性の後ろで「間違いなくアリア様の血筋です」とメイドが呟くのが聞こえる。 アリアと呼ばれた女性はメイドの言葉を聞かなかった事にして、息子を抱き上げるとこちらへ視線を寄越した。 「目が覚めて良かったわ。貴方、肩に矢が刺さって川辺で死にかけていたのよ。覚えていらっしゃる?」 問いかけられ、声を出そうとし──喉から出たのは、空気が抜けた音のような掠れた呼吸音だけだった。 かわりに頷く。 「ごめなさい、無理に話さなくて大丈夫よ。一週間ずっと眠っていらっしゃったんですもの」 ──ああ、そうなのか。 状況は、理解した。 (自分は死に損なったのか······) 肩に受けた矢は、致命傷にはならなかったらしい。 おそらく、川辺に打ち上げられていた自分を、この貴族と思われる人達が親切にも拾って助けてくれたのだろう。 (······余計な事を。あのまま、死なせてくれたら良かったのに) メイドに支えられ、身体をどうにか起こす。全身が軋んだように重く、相変わらず頭は痛い。 水の入ったグラスを手渡され、受け取った。どうやら飲めという事らしい。もしかしたら毒入りかもしれない、なんて考えながらそれでもいいと、口を付けた。 喉が渇いていたのだろう。一気に飲み干すと、すかさずメイドがグラスに水を注いでくれる。それをも飲み干すと、頭が少しだけ、クリアになった。 ──もう死んでもいい、と思っていたのに。 身体は水分を欲し、心とは裏腹に生きようと藻掻いているのが、堪らなく煩わしがった。 「······ここは、何処ですか?」 一週間ぶりに喉を出た声は、自分の物とは思えないほど酷く嗄れていていた。 「ここは、うちの病院の一室······ええと、東棟の二階の特別室よ。窓から庭園が見えて素敵でしょう?」 「アリア様、多分そういう事ではないと思います──少年、ここはエルンストというライデン王国の首都。マルドゥーク家の経営する病院の一室にいます」 「······ライデン王国」 それは、自分が亡命する予定の隣国の名前だった。 なんとも言えない気持ちで、窓の外を見る。 きっと、護衛の騎士も従者も。もう生きてはいないのだろう。彼らの望み通り、隣国へと辿り着いたが、自分は本当にひとりぼっちになってしまった。 「もう少ししたら、お医者様がいらっしゃるので診てもらいましょうね。貴方、お名前は?」 人並み外れた美貌が、小首をかしげて問いかける。その腕の中で同じ顔の少年は目をキラキラさせてこちらを見ていた。 紫水晶の瞳。自分を守って死んだ従者と同じ色。 「······ライノア」 思わず、従者の名前が口を出た。 「『ライノア』ね。貴方と出会ったのも何かの縁。一先ずは身体を治す事に努めましょう」 ニッコリ微笑まれると、嘘の名前を言ってしまった事にチクリと罪悪感を覚える。 しかし、自分が隣国ディオハルトの王子だと素直に名乗れば、国に還されてしまうかもしれない。 そうしたら、今度こそ確実に殺されるだろう。 生きる事に執着はないが、自分の為に命を散らした従者達の事を思えば、易々と死ぬのは憚られた。 不意に、右手に柔らかい物が触れる。 見ればそれは小さな白い手で、自分の手を握って、アルトと呼ばれた小さな少年は微笑んだ。 「ライノア、僕はアルトです」 「······正式には『アルフォルト様』です」 メイドがすかさず訂正する。 アルト、は愛称だろうか。 アルフォルトなんて、いかにも貴族らしい名前。愛されて、何の苦労も知らずに育っただろう能天気さが、無性に腹ただしかった。 ──その日、帝国の哀れな王子は死んだ。 河底へ、エルディオスという名前と共に沈んだ。 かわりに、少年はただの「ライノア」として生きる事にした。 それは自分を守って死んだ従者の名前で、近いうち返すのでそれまでは許して欲しいと思った。 (俺が死んだら返すよ、ライノア)

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