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第60話

王子の名前を捨て、ライノアと名乗って二週間が経った。 「ねぇライノアはどこから来たの?」 自分の膝元から、大きな紫の瞳が見上げてくる。 ふわふわの金髪を揺らし、天使のような見た目の少年──アルフォルトは、小首を傾げた。 肩の矢傷の抜糸が済み、安静にしていれば多少動いても良いと言われ、三日前に病院からマルドゥーク家の一室へと移動した。 する事も特になければ何かをする気力もなく、ぼんやりと窓の外を眺めていたら──連日、隙あらばこの小さな子供が自分の所へ来るようになってしまった。 最初の頃はメイドや護衛が付いていたが、手負いのライノアには何も出来ないと判断したのだろう。ついには野放しにされてしまった。 (それだけ、この屋敷はだという事か) もしライノアが何かしようとしても、一瞬で制圧できるだけの警備態勢が整っているのだろう。 勿論何かするつもりなど無いが。 現に、部屋にはアルフォルトとライノアしかいないが、開かれたままのドアの向こうには、気配を消した赤髪の背の高い男が控えている。ぼんやり立っているようにも見えるが、ライノアが男に気付くと目を見開いた。 (気づかないと思ったんだろうな) ライノアは小さな頃から命を狙われ続けた所為で、人の気配には敏感になっていた。 (それにしても──) 「おーい、ライノア?聞こえてる?」 顔の前で手を振られ、ライノアは溜息を吐いた。 (──鬱陶しい) 四六時中という訳では無いが、暇さえあればライノアの元へ来ては聞いてもない話をして質問をしてくるアルフォルトに、ライノアは心底うんざりしていた。 「聞こえている。どこから来たか覚えていない」 どんなにつっけんどんに言い返しても、アルフォルトは気分を害した様子もなく「そっかぁ」とただ微笑むだけだった。 大した返事もないのに何が楽しいのか、ライノアのベッドに乗り上げ、膝元に寝そべって話しかけてくる。 最初の頃は体調が悪いからと追い返していたが、何度も繰り返す内に面倒になった。 それにしても、とライノアは思う。 (コイツも王子か) なんの因果か、ライノアを拾ったのは隣国ライデンの第一王子と王妃だった。 まさか亡命先の王族に命を助けられるとは思わず、ライノアは今後どう動くべきか慎重にならざるを得ない。 亡命先だったとはいえ、素直にディオハルトの王子だと名乗れば、おそらく国に還されてしまうだろう。 そもそも、王子の身分を証明できる物は何一つ持ち合わせていない為、信じて貰えるかどうかも怪しい。最悪王族を騙った罪に問われかねない。 ライノアに残された物は従者の名前と、その従者の形見のペンダントだけだった。 それなら、怪我をしたショックで記憶が混乱しているフリをしている方が都合が良い。 幸いな事に自分は子供で、手負いの子供に根掘り葉掘り聞くのは憚られるのだろう。 記憶が曖昧、思い出したくない、と俯いて見せたら、誰も無理に聞き出そうとはしなかった。 ライノアの話し方や最初に纏っていた衣服から、医者達は貴族の子供が野党にでも襲われたのだろうと勝手に納得し、それ以上は追求してこなかった。 考え事をしていると、不意に頬に柔らかいものが触れ──途中でそれが指先だと気づき、ライノアは思わず身を引いた。 「触るなっ」 パシっと軽い音と共に、頬に触れていた小さな手が払われる。 アルフォルトは手を払われ、驚きに目を見開いた。 外にいた赤い髪の男が何事かと部屋に入って来るのが見え、やってしまった、とライノアは舌打ちする。 子供とはいえ、一国の王子を叩いてしまったのだ。助けてもらった身でまずかったと反省していると──赤髪の男がアルフォルトを抱き上げて、そのままおでこを軽く叩いた。 「アルフォルト王子、人に許可なく触れてはいけません」 「だって······。えと、ライノアのほっぺ、柔らかそうだったから」 アルフォルトがモゴモゴと言い訳すると(なんだその理由は、と思わなくもないが)男はアルフォルトをベッドに降ろし、そのまま脇腹をくすぐり始めた。 「あははっ、やめっ、やめて!リアンっ······く、くすぐったいよっ」 「柔らかそうだからって触っていいなら、王子のお腹も柔らかそうだから触っていいって事ですよね?」 バタバタとアルフォルトが暴れるせいで、同じベッドにいるライノアの身体もガタガタと揺れる。 振動が傷に響く。正直他所でやれと思う。 「やっ、おなかはっだめっ、ひゃ、あはは······ごめ、なさっ······」 ようやく手を止めて貰った頃には、アルフォルトは涙目で息も絶え絶えだった。 リアンと呼ばれた男はしゃがむとアルフォルトと目線を合わせた。 「王子も、今は俺が触ったから笑ってますけど、知らない大きな人やおじさんがベタベタ触って来たら怖いでしょう?」 リアンの問いに、何かを思い出したのかアルフォルトは少し顔色を悪くし、コクンと頷いた。 「怪我をしてる時に知らない場所で、よく知らない人に触られたら······アルフォルト王子はどう思いますか?」 「怖い、と思う」 「じゃあ、ライノアに何て言うんです?」 リアンに問われ、アルフォルトはライノアに向き合うと、頭を下げた。 「勝手に触ってごめんなさい」 まさか、王子に頭を下げられるとは思わず戸惑ったが、リアンから痛いほどの視線を感じ、ライノアは口を開いた。 「······こっちこそ手、叩いてごめん」 ライノアの返答に、アルフォルトは顔を上げると、ニッコリ微笑んだ。 「これからは触る前に『触るね』って言う」 「······は?」 「それから、僕がライノアにとって『知らない人』なら、これからもっと知ってもらえば──知ってる人なら、触っても良いって事だよね?」 「あちゃー、そう解釈しますか」 思ってもみないアルフォルトの返事に、リアンは頭をかいた。 おそらく、遠回しにライノアから引き離そうとしたのだろうが、アルフォルトは自分に都合良く解釈したのだろう。 思わず無言で睨めば、リアンは肩を竦めた。 「うちの王子は、お前が余程気に入ったのだろうね──ここにいる間は、助けて貰った恩返しだと思って、諦めて仲良くしてあげてくれないか」 「助けて貰った」を強調されると、ライノアは何も言えない。 仕方がなく頷くと、リアンは「王子、ライノアが遊んでくれるそうですよ」と言い残し、そのまま部屋を出ていってしまった。 これは、(てい)よく子守りを押し付けられたのではないだろうか。 ライノアは深く溜息を()くと、上機嫌なアルフォルトを見下ろした。 天使のような、小さな子供。 見た目の繊細さからは想像出来ない程天真爛漫で、よく喋るし動く。 身体は普通の七歳の子供より小さいが、話し方や考え方は年齢以上にしっかりしていて、所作も美しい。 王族の教育の厳しさはライノアにも覚えがあり、どこの国も同じなんだな、とぼんやりと思った。 ♢♢♢ 怪我の治療費などはどうしたらいいのだろう。 そう尋ねたら、診察してくれた医者は「いらない」と答えた。 念の為、アリアにも確認した。怪我が治ったら働いて返す旨を伝えたら「子供は難しい事を考えなくて宜しいのですよ」と言われた。 マルドゥーク家は、病院経営の他に孤児院も運営しているから、ライノアのように怪我をしたり病気の子供を助ける事は多々あるのだ、と。 そんなのは建前で、怪我が治ったらどうせ強制労働か何処かへ売られるのだろう。 それも致し方がないと考えていたが、医者もマルドゥーク家の人間も、どこまでも優しかった。 子供だから、という理由だけで人に優しくされた事が無いライノアは、酷く戸惑っていた。 そして、マルドゥーク家に来て三週間が経ち、ライノアは相変わらずぼんやりと、窓の外を眺めて過ごす日々を送っていた。 怪我は順調に回復しつつある。身体も少しずつ体力を取り戻してはいるが、何もする気が起きない。 動く事も考える事も億劫で、心が空っぽになったかのように思考が停止している。 人形にでもなった気分だ。 自分のせいで死んでいった騎士や従者は、恨んでいるだろうか。 命懸けで守った王子が人形のようにただ日々を送っている事に、失望しているかもしれない。 それでもやはり、何かをする気力はなく、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。 あれだけしつこく自分の元に来ていたアルフォルトも二、三日見かけていない。 当然だろう。話しかけられても生返事しかしないから、きっと飽きたに違いない。 そろそろ追い出されるかも、なんて頭の片隅で考えているうちに、夜になった。 ここ数日碌に寝ていないが、眠気もなかった。 ──何時間、過ぎただろうか。 どこからとも無く、子供の呻き声のような、苦しそうな声が聞こえる。 荒い息。苦しそうな呼吸。 水の底に沈んだ時を思い出し、ライノアは半ば無意識に肩の矢傷を抑えた。 誰も、この声が聞こえないのだろうか。 落ち着かなくて、ベッドから抜け出す。ドアを開けると、どうやら声は斜め向かいの部屋から聞こえるようだ。 そっと窺うように部屋のドアを開けると──薄暗くてよく見えないが、天蓋の付いたベッドの上で苦しそうにしているのは、おそらくアルフォルトだ。その傍らにはアリアがいて小さな手を握っている。 「頑張って、アルト」 優しい声で看病する後ろ姿は、普段の天真爛漫な王妃ではなく慈愛に満ちた母親そのもので、ライノアには縁のないものだった。 胸の奥がざわざわする。 ライノアはこの感情がよくわからずに、そっとドアを閉めた。 途端。 「ッ!?」 口を何かに塞がれ、羽交い締めにされる。 状況が飲み込めずに暴れようとし──すぐに解放された。 勢いよく振り返ると、赤髪の背の高い男が不信感も顕にライノアを見下ろしている。 確か、名前はリアンだったか。 「ここで何をしている?」 冷たい声。 冷たい視線。 敵視されるのには慣れている。 (そうだ、俺は常にこの感覚の中にいた) 優しくされるよりずっとわかりやすい。 ライノアは自嘲気味にため息を吐いた。 「別に。苦しそうな声がしたから、何事かと思って覗いただけだ」 素直に答えると、リアンは鼻で笑った。 「お前、無駄に耳がいいんだな。それに気配にも敏感だし、どういう環境で生きてきたんだ?」 皮肉なのだろうか。別にどうでもいいが、少しだけムッとすると、リアンは少しだけ目を見開いた。 「なんだ、ちゃんと感情あるじゃん」 ニヤリと笑ってしゃがむリアンと目が合う。目を逸らしたら負けな気がして、つい睨みつけてしまったのに、リアンは何故か機嫌が良かった。 「それより、王子は大丈夫なのか?」 「あれ?気になるんだ?」 ニヤニヤしたままのリアンの態度に無性に神経を逆撫でされる。 「······別に」 思わずそっぽを向くと、何故か頭を撫でられた。 「いじけるなよ」 そのままぐしゃぐしゃと頭を掻き回され、ライノアは逃げようとし──そのまま、担ぎ上げられた。 「なっ······下ろせ!!」 「静かにしなよ、今は真夜中だ」 夜中に騒ぐのは憚られ、ピタりと動きをとめると、リアンはやはり楽しそうに笑った。 「意外と素直だな」 「······世話になっている身で、あまり迷惑はかけたくない」 ボソボソ呟けば、リアンが背中をぽんぽんと軽く叩いた。 完全に子供扱いされている。 ······実際に子供なのだが。 「──アルフォルト王子は、身体が弱い訳じゃない。アレは毒だ」 毒、という言葉に思わず身体が反応すると、リアンは「ああ、盛られたわけじゃない」と訂正した。 「少しずつ、色々な毒を体内に入れて慣らしているんだよ。今はその副作用で苦しんでる」 思わぬ事実に、ライノアは目を見開いた。 毒殺されない為に、あえて少量の毒を体内に入れて耐性を付ける、というのは以前本で読んだ事がある。ただし匙加減が難しく、体質なども関係するため、医学が進んだ国でなければ難しいと本には記されていたが──成程、ライデン王国の医療技術の高さなら頷ける。 ただ、まだ七歳の子供には耐え難い苦痛だろう、とライノアは思った。 (どうりで、最近見かけなかったのか) 寝込んでいたのなら、自分の所に来ないのも頷ける。 「王子が来なくて寂しかったんだ?」 「違う!」 思わず大きな声が出て、慌てて口を抑えるとリアンは肩を震わせて笑った。 「はいはい」と流され、ライノアはいたたまれない気分で口を引き結んだ。 「アルフォルト王子は御立場が少し複雑で、常に命を狙われている。それに加えてあのお顔立ち。誘拐未遂も数えきれない」 ライノアの知るアルフォルトは(といってもまだそんなに深くは知らないが)明るく無邪気な小さな子供だ。 とても命を狙われているとは思えない天真爛漫な雰囲気。 命の危険など知らずに、愛されてちやほやされて、何の苦労も知らずに育ったのだと勝手に思って突き放していた。 「どうせ甘やかされて育ったとでも思ってたんだろ?」 ライノアは何も知らずに決めつけていた自分を恥じた。無言は肯定と捉えたようで、リアンが苦笑いしたのがわかった。 「王子はあれで人見知りするんだが······何故かお前には最初から懐いてるんだよ。何で?」 「俺が知るか」 ライノアがつっけんどんに答えると「俺は懐いて貰うのにすっごい時間かかったのになぁ」とリアンがボヤいた。 どうでもいい、と答えようとしたのに声にはならなかった。 久しぶりに人の体温に触れたからだろうか。瞼が重く、抱えられたまま移動する振動が心地よく──そのまま、ライノアは眠りに落ちた。 「······やっと寝たか」 リアンはため息を吐くと、ライノアの背中をあやすように軽く叩いた。 ここ数日、ライノアが碌に寝ていないのは知っていた。最初はアルフォルトの命を狙っている可能性も考えて警戒していたが、純粋に寝れなかったようだ。 攻撃してくる気配もなく、ドアの前で拘束したときに確認したが、武器の類も隠し持ってはいない。 素性の知れない子供は、話し方や立ち居振る舞いから貴族の生まれなのは明白だ。 しかし、頭の良さや命を狙われる事に様子から、普通の貴族の子供では無さそうだ、とリアンは思う。 その辺はマルドゥーク家が調べているだろう。下っ端の自分は下手な勘ぐりなどせず与えられた仕事をするだけだ。 ただ、本来なら守られる立場の子供だ。 アルフォルトより少し年上なくらいだろうか。 窓の外をぼんやりと見つめるライノアの目は、リアンもよく知っている。 ──あれは、生きる事を諦めた人間の目だ。 こんな小さな子供が命を狙われ、心に深い傷を負い、眠れない日々を過ごす事に、少なからず憤りを感じていた。 「辛いことにも気付けないんだな、お前は」 寝息を立てるライノアの頭をそっと撫で、リアンは深くため息を吐いた。

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