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第1話 ヒールの女
カツカツとハイヒールの音が鳴り響く、夕暮れの裏通り。俺は愛しい優希 を待って、路地裏に立っていた。時計の秒針の音に、靴音が重なる。人通りが途切れた夕暮れの路地は、ひっそりと静まり返っていた。
俺たちはこれから友人知人だけを集めて、パートナーシップ宣誓を記念したパーティーをする。
長く病に苦しめられていた優希と、長く孤独に過ごして来た俺が、ようやくパートナーとして認められる日を迎えた。左手の薬指に光る指輪が、それを俺に実感させてくれる。
どう言葉を尽くしても、その喜びを言い表す事など出来ない。特別に幸せを感じる日にしようと、俺は一人で意気込んでいた。
生まれてからこれまでの間に、親からの愛を十分に受けたことがなく、その上自身に大きな問題を抱えて生きてきた優希のために、何も考えずにただ幸せに浸ることが出来る日を与えてあげたい、そしてその日を仲間と盛大に祝いいたいと思い、俺は大学の後輩である市木葵 に相談をした。
葵はカフェバーの店長をしている。競争の激しい表通りにあるその店は、葵の人柄をそのまま表したような優しい空間で、疲れた大人の心を解いて元気にしてくれると評判だ。
「同棲と記念旅行は考えてたけれど、パーティーみたいなお披露目はしないつもりだったんだ。でも、優希のことを考えるとな。男同士での披露パーティーになるからそこまで受け入れられるわけじゃないだろうが、それでもやっと人に祝ってもらえるようになったんだから、せめて仲間内だけでもと思ってな。ここでやらせてもらえないか?」
「え、パーティーするのか?」
「したほうが優希が喜ぶかなと思って。ずっと後ろめたい生活をしてたんだから、オープンにしても問題ないことなら、楽しんだ方がいいだろう?」
「まあ、そうだな」
俺と優希は男性同士のカップルだ。ただし、セクシャリティは異なる。俺はゲイで優希はバイだ。
今の日本の法律では、同棲に辿り着いてしまえばもうそれ以上に深いつながりは持てない。だから、それ以降はただ二人でのんびりと幸せに暮らしていこうとしか考えていなかった。
だが、葵の店で小さなパーティーを開くくらいなら、俺たちのことをよく知る人たちとであれば、この法的に限界まで強めた繋がりを持つ喜びを、分かち合ってもらえるのではないか、祝ってもらえたらなら、これほど嬉しいことは無いかもしれない、いつの間にかそう考えるようになっていった。
「俺は優希に、少しでも生まれてきて良かったって、今あいつを大切にしてくれる人たちに出会えて良かったって思ってもらいたいんだよ」
少し恥じらいはあるけれど、愛する男の顔を思い浮かべて頬が緩む。鉄壁のポーカーフェースだと揶揄われることの多い俺に、そんな顔をさせるほどに、俺は優希に心を奪われている。
すると、俺の後輩で優希の幼馴染でもあるその男は、ふわりと優しい笑顔を浮かべ、それを二つ返事で引き受けてくれた。
「そうだな。やろうぜ、パーティー。実を言うと、俺の方からそれを提案しようと思ってたんだ。愛する二人が幸せになるのなら、なんでも言ってくれよ」
そう言って、葵はオーナーへ話を通し、今日一日を俺たちのために臨時休業にしてくれた。
それ以来、優希と三人で着々と準備を進めて来た。今日は絶対に最高に幸せな一日にしてやる。そう意気込んでいた。その俺が、その大切な時間が始まる直前である今、何故か路地裏に血だらけで倒れている。
「彼を失うわけにはいかないのよ!」
そう言って走り去っていった女を、俺は知らない。どこの誰なのかも分からない。どこで恨みを買ったのか、それすらもわからなかった。
おそらく一度も聴いたことのない声の持ち主は、なぜか躊躇いも無く俺に襲いかかってきた。ドスっと一突きだ。
見事に右脇腹を刺した刃物を、力ずくで引き抜いて去っていった。全く運が悪い。せめてその刃物をそのままにしてくれていたらよかったのに。
ドクドクと流れ出る血液は、俺の周りを一面血の海にしていく。このまま数分見つからなかったら……流石の俺も、そう思い弱気になりかけていた。
「ゆ……き……」
さっきまで一緒にいた、愛しい人の名をを呼ぶ。
『ちょっとサプライズしたい事があるからさ。少しだけ隠れて待っててくれる? 五分経ったら入って来て!』
喜びに満ちた柔らかな笑顔を浮かべた優希にそう言われて、俺は大人しくここで待っていた。
そして、言われた五分が経過したのを確認して、正面のドアへ入るために、暗がりから表通りの方へと歩き始めた。
歩道に面した角を曲がろうとした際に、視線の先に燃えるような夕陽があることに気が付き、足を止めた。そこはまだ路地裏で、歩道を歩いている人からはこちらはあまり見えないようになっている。
「紅掛空色か。キレイだ……」
沈みかけた陽は赤くなり、うっすらと空色に混ざり込むように差し込んでいる。その様が美しいと思い、うっとりと見入ってしまっていた。
普段の俺は、勤め先である犯罪心理研究所で、その抑止力を強化するための研究をしている。それは俺の最大関心事であるために、常に頭はそのことでいっぱいで、空を眺める余裕など皆無、暇さえあればモニターかタブレット端末のディスプレイ、もしくは紙面を睨んでいるような生活をしている。
外を歩いている時もほぼ考え事をしている。人を避けるためにあたりを見てはいるが、景色を堪能する余裕など、少しも持ち合わせていなかった。
それでも今日だけは、仕事のことは一切忘れて過ごそうと心に決めていた。特別な唾がりを持つ日くらいは、仕事の事以外に目を向けていたい、プライベートを充実させてくれる優しいパートナーと過ごす事だけに集中したい、そう強く願っていた。
そしてそれを実現させるべく、普段ならしない景色に目を向けるという行動をとることで、それを最大限に楽しもうとしていた。
まさかそんな時に、後ろから刃物を持った人物が迫っているなどと、誰が想像がつくだろう。全く気が付くことが出来なかった。あの甲高いヒールの音が、殺意を持って近づいてくる事に、少しも違和感を抱けなかった。
「ゆう……き」
もしこのまま俺が死んでしまったとしたら、お披露目は永遠に叶わなくなる。優希はどれほど悲しむだろうか。刺された箇所に起きる肉体的な痛みに顔を顰めながら、申し訳なさという心の痛みに胸が潰れそうになる。
二つの痛みが、俺から意識を奪おうとしていく。優希の顔を見るまでは死ねないと思い、意識を強く持とうとした。痛みへの防衛反応が急速に早まる。
——もうダメか……。
諦めかけたその時、店の方から俺を呼ばわる声がした。明るくよく通る声で、楽しそうに俺を呼んでいる。
「サットルさーん! 優希さんが入ってきていいよって、行きましょう……よ」
楽しそうに跳ねていたミドリちゃんの足音は、俺の近くでその動きを止めた。そして、今度は俺にも耳馴染みのあるその声で、鋭く短い悲鳴を上げる。
「サトルさん? どうかしました? えっ、これ……血?」
ミドリちゃんは俺の周りの血の海に思い切り膝をつくと、俺の様子を確認しはじめた。そして、その顔色を見てはっと息を呑んだ。おそらく、かなり蒼白になっているのだろう。
「ミドリちゃ……ん」
俺を呼びにいくように言われて来ただけだろうに、こんなに怖い思いをさせてしまったことに、さらに胸が潰れそうになる。
ミドリちゃんは、今日優希側の関係者として招かれていた。彼女と彼女の交際相手であるリョウくんは、優希とも葵とも小さい頃からの知り合いだ。
苦労してきた優希を知っているからこそ、今日をとても楽しみにしてくれていた。
そのハレの日の主役のうちの一人になるはずだった俺が、血の海に横たわっている。それを見て驚かないわけがない。彼女の手は、何か別の生き物に支配されているかのように震えていた。
俺はそれを見て、彼女たちの幸せを願う大人の一人として、申し訳ない思いに駆られていた。彼女もまた、幼少期から心に傷を負い続けてきた人だからだ。その傷を増やすようなことをしてしまったことに、恥じる思いが湧き上がった。
「……き、救急車、救急車呼ばなきゃ……」
——救急車……を呼んでくれたら、間に、合う、か……。
ミドリちゃんの背後を、真っ赤な夕陽が染めていく。視界が霞み始めた俺の目に映る物は、境界がわからなくなるほどに赤一色になっていた。
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