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第3話 ピアスと指輪2

 そうして行われてきた準備はある程度整い、あとはゲストが揃うのを待つのみになった。 「ミドリちゃんと説得できたかなあ」  カウンターにちょこんと座り、そわそわとパートナーを待ち侘びる優希のために、葵はアイスコーヒーを準備している。  サトルは今、店の裏手でミドリからヘアメイクと衣装チェンジを強要されている頃だ。 「ヘアセットとジャケットの交換をさせてるんだったっけ。お前がそんなに拘るなんて珍しいよな。そんなに違うの?」 「違うよー! 見たら驚くと思う。サトルの髪、綺麗な銀髪のサラサラロングヘアでしょ? 真っ黒よりもミッドナイトブルーの方が馴染むんだよ。一度着てもらったんだけど、すごく格好良くてね。でもサトルが望む予算よりも少しだけ高かったんだ。それで黒にしたんだけど……僕がどうしてもみんなにあのサトルを見せたくて」  優希の希望する衣装を優希が準備して、ミドリにそれを着ることを押し切らせれば、頑固なサトルであっても従うだろうということになり、今その作戦が実行されている。 「ミッドナイトブルーねえ。確かに似合うかもな。サトルって研究一筋だから見た目に全然気を使ってないのに、それでもなんでかスッキリ美しいもんな。どこから来んのかわかんねーけど、不思議とどこか気品あふれる感じもするし」 「そう、だから黒よりもノーブルな感じがするミッドナイトブルーがいいんだ。本当にかっこいいから、葵は惚れちゃダメだよ」  優希はそういうと、戯けるように顔の前で両方の人差し指を掛け合わせて見せた。  葵はそんな優希の浮かれた様子に、思わずふっと嬉しさを溢してしまう。 「惚れませんから、ご心配なく。はい、待ってる間にこれ飲んでなよ。アイスでいいんだよな? いつも通りのブラックね。あ、そういえば優希、胃の調子は大丈夫なのか。ストレスで痛むって言ってたよな、確か。ガムシロ使う?」  葵は、パートナー同様に自身も盛装してちょこんと座る幼馴染の前に、氷がひしめくグラスを置いた。その中へ、芳しく艶めいた琥珀色の液体を注ぐ。淹れたてのそれはふわりと香り、その熱によって溶かされた氷が互いにぶつかり合い、からんと心地よい音を立てた。  急激に冷まされたコーヒーは香りと旨みを閉じ込められていて、飲むと喉をすり抜けて行く時に最も香るようになる。  それを期待しているのだろうか、嬉しそうに待っている優希の髪が、淡い綿菓子のようにふわふわと揺れていた。 「はい、どうぞ」  彼はカウンター越しに差し出されたトレイを受け取ると、その白い頬をうっすらと赤く染めながら、パッと花が咲くように笑った。 「やったー! サンキュー葵。あ、ガムシロは無くていいよ」  顔が半分ほど隠れているのではないかと思うほどに大きな黒縁メガネをかけている優希は、その奥にぼんやりと夢を見ているような目を隠している。  色々と大変なことが多かった人生が彼の目をそうさせたのだが、コーヒーの香りに包まれた途端にその目がいきいきと輝き始めた。 「んー、やっぱり美味しいね。淹れたてはアイスでも香りが抜けるのがいいんだよね。それに豆の味もしっかりする。そしてここはそんなにお高くない。これがポイント高い。総じて葵のコーヒーは最高です」  そう言って、ふふふと笑った。 「ありがとうございます。いつもお褒めいただき光栄です、お客様」  葵がそう返すと、優希は満足そうな笑みを浮かべてごくりと喉を鳴らした。そのまま肘をつき、ストローを片手でくるくると回しながら、唐突に物思いに耽っていく。 「ごゆっくりー、つってももうすぐスタートだけどな」  葵は、そんな優希の様子に慣れた調子で、そのままウェルカムドリンクの準備を続けた。  こんなにふわふわで穏やかで可愛らしい優希ではあるが、会社ではかなり優秀だという。常連のお客さんの中には優希の同期もいて、葵に時折会社での彼の様子を教えてくれていた。    彼らはこの近くにある大手出版社で働いていて、優希は文芸の編集者として辣腕を振るっている。彼が担当する作家は次々とヒットを飛ばし、そしてそれが長く続く。  どうやらスランプに陥った作家にやる気を出させることに長けているらしく、担当替えがあると作家側からクレームが出るほどに人気があるらしい。  入社以来、常に忙しそうにしているので心配していた葵は、帰りにここで食事をさせる等のサポートしていた。  当の本人はというと、やりがいもあって結果も出せている現状に満足していて、とても楽しそうに働いている。  ただ、ここ最近は珍しく辛そうな顔で店に来ることが増えていた。そして、初めて仕事で大きなストレスを抱えていると言い始めたのだ。  会社の上層部から、優希の担当している作家の中で最も売れているうちの一人の人気シリーズを終了させようという動きがあるのだという。そのことで、作家が会社を訴えようとしているのだという。  優希は彼らの間で板挟みにあっていて、そのせいで最近は胃を痛めているらしかった。 「なあ、優希。そういえば、あの打ち切りの話は決着したのか?」 「え?」  その話題が出た途端、幸せそうに綻んでいた表情が曇った。ストローに口をつけ、大好きなコーヒーをごくりと飲み込んではみるものの、笑顔は萎れたまま戻らない。  優希は、そんな自分を励ますかのように、耳に光るピアスを優しく擦った。そして、何度か小さく頷く。少しだけ浮上した様子で、笑顔を貼り付けていった。 「あーあれね。いや、まだ解決してないんだよ。やっぱり長い間やってたヒット作を打ち切られるのって、とても嫌なんだろうし……。僕もそれは先生と同じ気持ちだから、すごく良くわかるしね。覆せるなら覆したいとは思ってる。でも、現実的には無理だもん。会社がなぜ打ち切りを決めたのかも、僕は知らされてないし。納得なんて出来るわけがない。でもね、先生を説得するしかなくて……。だから、ずーっと胃は痛いままだよ。でも、ガムシロの暴力的な甘さがどうにも苦手だから、ガムシロはいらない。ブラックでゆっくり飲んでおくよ」 「そうか。やっぱり難しい話だよな」  そう返しながら、葵はハッとした。こんなおめでたい日に、その主役に嫌なことを思い出させるなんて、何て野暮なことをしたのだろうかと自責の念に囚われているようだ。  何度か目を泳がせると、突然立ち上がって優希の肩を両手で優しく掴んだ。 「あーごめん! 今訊くことじゃなかった。忘れて! あ、さっきリョウがクッキー焼いてくれてたから、それ貰ってくるよ。スイーツ食べながらコーヒー飲んで、サトルを待とうぜ。ちょっと待ってて」  誰よりも近くでその過酷な人生を見てきた葵は、申し訳なさに痛む胸を抑えた。 ——何やってんだよ、俺。幸せな日に水を差すなんて……。  そして、少しでも楽しい気持ちに戻ってもらおうと思い、優希が愛してやまないスイーツを求めて、慌ててバックヤードへと入っていった。

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