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第5話 ピアスと指輪4
「わあ、すっごい美味しい。やっぱりリョウってすごいよね。なんでこんなに美味しく作れるんだろう。これ売り物にしちゃダメなの?」
「あいつまだバイト出来る年齢じゃないからな。来年からは正式なバイトとして雇えるから、そうなったら店に出す予定なんだよ。リョウが料理を得意なのは、お前が小さい頃から丁寧に教えてあげたからだろ? お前のおかげで、俺も助かるわけよ。ありがとうな」
葵がそう言うと、優希は少し間を置いてふわりと笑った。
「ふふ、ありがとう。葵はいつもそうやって僕を肯定してくれるから、すごく嬉しいよ」
その笑顔は、大きな幸せに満ちて輝いている。
——ずっとそのままでいろよ。
葵はそう思い、感傷的になってしまった。ふと見ると、優希の手が耳朶を触っていた。触れているそこには、大きめのダイヤモンドがついたピアスが光っている。
これはアクセサリーではなく、優希に着用が義務付けられた治療器具だ。いつでもつけていられるように、ピアス型をしているものが選ばれた。
そして、これに象徴される治療こそが、サトルと優希を深い関係へと導いていったきっかけとなっている。そういう意味では、二人にとってはある意味記念の品でもあった。
「お前さあ、最近よくそうやって耳朶触ってるよな。前はそんなクセなかっただろ? それもしかして、サトルの影響?」
カウンターにもたれた葵が、優希の手元を指差しながら、揶揄うように声をかける。すると、我に返った優希は、ぱっとその頬を紅潮させた。
「そ、そうかもしれない。実は最近よく言われるんだ。サトルがいつもこうやって触ってくれるから……。彼のこと考えると、いつの間にかこうしてるみたいなんだよね」
「何だそれ。なんか卑猥だな」
葵はさらに幸せそうな笑顔の幼馴染を揶揄っていく。恥ずかしがり屋の彼は、さらに真っ赤になりながら、
「もう! そうやって揶揄われると恥ずかしいから、もう言わないでよ」
と、葵の隣に突っ伏して拗ねてしまった。
実のところ、葵はそんな優希を見て安堵していた。昔は優希がしていることになど、おそらく気がつけ無かったはずだからだ。彼はいつも、そこにいるのかいないのかわからないほどに、気配を消すことに集中しているようなところがあった。
リョウを育てていた優希自身は、長年酷い虐待にあっていた。それは壮絶としか言いようの無い、過酷な毎日だった。
あざがあるのは当たり前、数日食べることも飲むことも出来ない、親は優希に声をかけるどころか、顔を見せることもほとんど無く、会えば暴力を振るうような状態だった。
児童相談所が介入しようとすると、うまく逃げ道を探すような強かさを持った典型的な毒親で、その度に暴力が酷くなることに気がついた周囲は優希への救済を諦めていった。
同じような虐待を受けていたリョウと優希の決定的な違いは、リョウには気がついて助けてくれる人がいたと言うことだ。
葵は、優希の問題に気がついてあげられたのだが、彼を助けてあげることは出来なかった。彼らは同い年の幼馴染だ。優希の問題を知った当時、葵もまだ小学生だった。なす術なく傷つけられていく友人に、ただ寄り添ってあげることしか出来なかった。
そうして高校を卒業するまでの間、優希は毎日息を潜めて暮らしていた。同時にその頃は、自分の病に気がつき、苦しんでいた時期でもある。
激しい虐待をする親が、息子の精神病の治療に勤しんでくれるわけなどなく、彼は自分を痛めつけながら、必死に毎日を生きていた。
そうやって辛いことが重なり、今でも当時の記憶は曖昧だと言っている。
子供の頃に否定され続けた人間は、大人になって親から解放されたとしても、だからと言ってすぐに全てが好転するような都合のいい未来は待っていない。
長年その存在を否定されてきたことは、心に大きな傷を残している。優希には自己否定の激しいところがそのまま残ってしまった。
その優希に、こうして幸せを思い出して、それに浸るような思いをさせてくれる人が現れた。それも、葵自身が最も信頼している人物であったことを、彼はとても嬉しく思っている。
「そんなクセが人前でも自然に出てしまうくらい、今は幸せだってことだ」
葵は今度は揶揄わずに、心からの思いであることが伝わるような調子で口にした。それを受けて、優希も真摯な視線を返す。
「そうだね。全部サトルのおかげだよ」
そう言うと、また幸せそうに微笑んだ。
そんなやりとりをしていて、ふと気がつくと時計が十八時を告げようとしている。そろそろサトルを迎えようと、葵はエプロンを外した。
「ミドリ手こずってんのかね、少し遅い気がしないか。もう三十分以上経ってるよな」
「うん。確かに遅いかな……。そんなに嫌だったのかな、あのタキシード」
二人でそう訝しんでいると、バックヤードから真っ青な顔をしたリョウが、大声で葵を呼びながら飛び込んできた。
「あ、葵さん! あの、大変、電話……!」
「うわっ! なんだよ、リョウ。びっくりするだろ」
普段あまり感情を露わにすることが無いリョウが、葵につかみかかるようにして何かを訴えに来た。よほどのことがあったのだろうか。彼が慌てふためいている姿に、葵は背中が冷えるのを感じた。
「何かあったのか?」
リョウを落ち着かせようと、その背中に手を当てて優しく摩る。いつもであればそれで落ち着くのだが、どうやらそれでも足りないくらいの動揺をしているようだ。彼は葵の制服のシャツを握りしめると、思い切り引っ張りながら叫び始めた。
「あの、救急隊の人が裏口に! サトルさんが店の裏に倒れてるって……碧 と一緒に倒れてて、碧 が店のエプロンしてるから、ここの人じゃ無いのかって……」
「何、なんだって。サトルが何? 碧 がどうした?」
葵は慌てて蒼白になっているリョウに、そっと声をかけた。しかし、そうは言いつつも、自分も落ち着いてなどいられない。ついさっき、ふと過ぎった嫌な感じが思い出されていた。
碧 はリョウの彼女だ。そして、サトルを迎えにいった女の子のことでもある。ただ、葵と碧 ではみんなが混乱するため、店の関係者は彼女を碧 と呼ぶ。さらに、碧 の母もネグレクト気味だったため、彼女もまた十歳まで優希に育てられた子でもあった。
彼女のことも優希から引き継いでからは、葵が面倒を見ている。ただし、引き取った当時はすでに二人とも小学校高学年になっており、同級生の異性だったため、葵はあえて同居させることを選ばなかった。
その代わりに葵のマンションの隣の部屋を提供し、そこで暮らしてもらっている。つまり、葵にとってはミドリも家族同然の存在だ。
「みんな忙しいから一人で行くって聞かなくて……裏通りは暗いから、危ないよって言ったのに。やっぱり俺も一緒に行けば良かった」
リョウは、詳細を説明しようとしたが、動揺からかあまり要領を得ないことばかり口にした。そして、何かに怯えるように体を縮めて自分を守ろうとしている。
「……救急の人、サトルさんは血だらけだって言ってました。白いジャケットが、真っ赤になってるって……」
必死になって言葉を絞り出したその口は、すぐに何かを思い出した様にハッとして噤まれた。
「優希さん……サトルさんが……」
そう口を開いたリョウに見つめられた優希は、一瞬体を強張らせるような反応をした。その目にどろりとした黒い感情がちらつく。葵はそれを見咎めて、優希へと声をかけた。
「優希、目を逸らすんだ。ゆっくりでいいから。こっち、俺を見て」
彼は今、自分の中に巻き起こる黒い感情と戦っている。自分で自分を制御しようとして必死になっているのだ。
その指先が僅かに動いた。まるで何かに弾かれるように跳ねている。彼の頭の中に巻き起こる良からぬ思いを抑えるために、行動抑制プログラムが指導し始めていた。
指輪が抑制を始めると同時に、右耳のピアスが赤く染まっていく。小さな針が優希の耳朶を刺し、採血を行う。そして、左のピアスからは、人工ダイヤの中に溜まっていた液体が少しずつ消えていく。動きを止めた彼の体に、静かな治療が施されていく。ホルモン値の測定と抑制剤の投与は、いつも通り滞りなく行われていた。
葵はそれを見届けると、優しく優希に声をかけた。
「大丈夫だ。ピアスと指輪がある。サトルの思いはいつもお前の隣にいる」
そう言葉をかけながら、するりとリョウの前へ出た。その姿が優希に見えなくなるようにと、身を盾にする事にした。
優希の薬指に光る指輪からは、起きてはならない黒い感情が巻き起こると、等間隔で痛みが襲ってくる仕様になっている。そしてそれは、次第に強さを増していく。
それは、黒い汚物に潰されそうになった優希の心を、コントロールするための命綱だ。
小さな痙攣を指が繰り返す。その度に、目の奥に潜んだ魔物の影は、鳴りを潜めていった。何度目かの電撃痛でハッと我に帰った優希は、すんと鼻を鳴らした。そして、コーヒーの染みを見つめると、ふっと小さく息を吐いた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、すっと穏やかに立ち上がる。握りしめた左手には、今その役割を果たしていたプラチナの指輪が光っている。それを右手で労るように摩っていた。
これは二人の愛の証であると同時に、ダイヤのピアス同様、大切な役割を持った治療器具なのだ。
「あの、優希さん。大丈夫ですか?」
優希が微動だにしなくなったので、リョウは堪らずに声をかけた。優希はそれにいつもの穏やかな笑みを返す。それはゆっくりと開く花のような優雅さだった。
いつもの優希の柔らかな仕草に、リョウはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう、リョウ。大丈夫だったみたい。いつまでも負担をかけてごめんね。葵、救急隊の方は僕が応対する。一緒に病院に行くから、連絡するまで待っててよ。パートナーシップ宣誓都市で暮らす事を決めてくれたサトルに感謝しないとね。緊急時、パートナーとして救急車に同乗させてもらえるんだから」
そんな軽口をききながらも少しふらついている優希を、リョウはそっと支えた。優希はまた少し体を強張らせる。
しかし、パッと両手で耳を触ることで心を落ち着かせると、ふっとそれを解いていった。
——大丈夫。今のお前なら、リョウに触れても問題無いはずだ。
葵は信じるしかなくて、心の中で何度もそう唱えた。優希もそれを感じたようだ。よろめきながらも救急車の待つ裏口へと、リョウに連れられて向かっていった。
葵はその後ろ姿を見送りながら、堪らずに声をかけた。どうしても、一言かけたくなったのだ。
「優希、さっきよく耐えたな。きっとサトルが後からたくさん褒めてくれるよ」
その言葉を聞いて、優希は少し悲しげな笑みを浮かべた。そして、顔の近くへ持ってきたダイヤの指輪を、ピアスと隣り合わせながらキッパリと言い切る。
「ありがとう、葵。僕にはサトルがいれば十分だから。ずっと大丈夫だって、信じてる」
そう言って元気に笑うと、足早に外へと向かった。
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