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第6話 佐藤優希の秘密1

 サトルが緊急時に向かう病院は、生涯を共にすることを決めた際に優希と共有されていた。彼はそれを救急隊の人に伝える。業務上外部に漏らしてはいけない秘密があって、それを了承してくれる病院でないと、サトルは入院する事が出来ない。そのことを伝えなければならなかった。 「中央病院、受け入れ可能だそうです。向かいます」  中央病院はサトルが勤める犯罪心理学研究所と業務提携をしており、有事の際以外であれば受け入れしてもらえるようになっている。  優希はその家族である証として、身分証とパートナーシップ証明書の写しを提示すると、救急車への同乗を許可してもらった。  しかし、そこに何も問題がなかったのかと言われれば、それは嘘になるだろう。乗り込もうとしている背中に冷ややかな視線を刺されていることには、優希は気がついていた。それに加え、運転席でヒソヒソと話し合っている声も、しっかり耳に届いている。  ただ、それは仕方のないことだ。そして、優希本人はそれを理解して、きちんと受け入れている。なぜなら、彼の身分証には、真っ赤な印字で「犯罪者予備軍」の記載があるからだ。  彼は、自ら望んでそのリストに名を連ねている。  それを申し出た時から、こうなることは覚悟していた。その上で手に入れた幸せなのだから、今更この程度のことで狼狽えたりはしない。  それでも湧き上がる感情は僅かながらにも存在して、思わずすんと鼻を鳴らした。悲しさを紛らわせようとしたその行為に、紛れこんで来た香りが、優希を支える人々の笑顔を思い出させてくれる。それだけで、気持ちがふと軽くなった。 ——これまでの日々を思うとね……コーヒーのシミでさえ僕には味方なんだよ。  大変な人生を送ってきた彼も、青ざめた顔で横たわるサトルを見た時にはさすがに肝が冷えたようだ。  今も目の前のサトルに何もしてあげられない事がもどかしいのか、眉根を寄せて唇を噛んでいる。せめて触れ合うことで少しでも癒してあげられたらと思ったのか、徐にサトルの手を取った。 「冷たい……生きてるのに」  サトルの手は、大量に出血した状態で外に倒れていたためか、酷く冷えていた。  サイレンを鳴らしながら走る救急車の音は、狭い筐体の中でも鳴り響き、棘が無いのに攻撃的に感じられた。こんなにうるさい音でさえ、今のサトルには聞こえていないのだなと思うと、優希は恐怖に包まれていった。うるさいと思わないということは、意識がないということだ。そのことが、優希を焦燥の中へと突き落としていく。 「匂いとか大丈夫ですか?」  傷を押さえている隊員に声をかけられた。サトルは刺された後に凶器を引き抜かれていて出血の量が多く、サトルの衣服に付着したものの匂いが車内に充満している。 「はい。なんとか」  必死になって笑顔を貼り付けたまま、優希はそう答えた。あの赤いレッテルを貼られている自分は、人から気遣いなどしてもらう価値は無いと彼は思っている。そこへ優しい言葉をかけられると、どうしても作った表情で返す癖が出てしまうらしい。  本心は、パニックを起こしそうなほどに動揺しているだろう。誰の目にも明らかなほどに、彼の体は震えていた。追い詰められているのにできることがないという状態は、耐え難い苦痛に感じる。気を紛らわせるためにも、彼は窓の外へと視線を逸らした。  救急車は、週末の夜を楽しむ人混みを尻目に、大通りを猛スピードで走り抜けていく。ここ数日で随分と寒さも和らぎ、気の早い桜もチラホラと咲いているようだ。  優希には、車内の沈んだ空気と車外の浮かれた雰囲気が、同じ空間に存在することが俄かには信じ難かった。夢でも見ているかのように、現実味のない光景が広がっている。 ——今年こそは一緒にお花見に行こうねって言ってたのになあ。  昨年の今頃、優希は入院していた。それは既に何度目かの入院で、その後の生活をより制限の少ないものにするために、治療と生活の境をしっかり決めるためのものだった。  基準が確定するまでは外出が全く出来ない状況だったため、花見は必然的に見送られた。そのため、自由になった今年こそは、必ず一緒に夜桜見物をしようと二人は約束していた。  救急車の窓に頭を預けた状態で、ゆらゆらと体を揺らしながら、優希は最初の入院治療を思い出していた。  彼の治療には、必ずサトルがそばにいた。治療に関する困難は、二人で手を取り合って乗り越えてきた。今の優希は、サトルなくしてあり得ない。  サトルに出会うまで、優希は誰かと相思相愛になるという人生は、自分には縁がないだろうと思って生きていた。そして、同時にそれはそうしないといけないことでもあった。  優希を苦しめ続けてきたもの、それは彼が小児性愛者だという事実だった。 ◆  僕には、人には言えない性癖があった。それは正確には性癖では無く、精神病に分類されているものだということを、治療の段階で知った。  小さな子供しか愛せないという、許されない病気。それを自覚してからずっと、その罪の重さに苛まれていた。  生きているだけで罪人と同じだ。決して人にバレてはいけないし、その思いを叶えてはいけない。ひた隠しにして生きていくしかない、辛い病気だ。  何より辛かったのは、一生パートナーを得られないことがわかってしまったことだった。  友人には恵まれたけれど、親からの愛は得られず、好きになる人には思いを告げてはならない。寂しい人生を送ることを約束しなければならなくなってしまった自分の人生に、楽しさも嬉しさも喜びも消えて行くような気がしていた。 「子供を傷つけることはしたくない。僕もそうされるのがとても嫌だった。だから、絶対にしない」  信頼している葵にだけは、このことを話した。その時、彼に約束したのがこの言葉だった。好きだからこそ傷つけたくない。そう思って、ずっと狭い世界で生きていく覚悟を決めた。  僕は、本を読んではその世界に居座り続けるようになっていった。いつも想像の世界にいたからか、だんだん現実を直視しない、どこを見ているのかわからない目つきになっていった。 『ねえ、こっちを見てよ。どれだけ一緒にいても、君がこっちを向いてくれないと、寂しくて仕方がなくなってしまうんだ』  好きだと思い込もうとして無理して付き合い始めた恋人にも、そう言われて捨てられた。でもその度に、僕はそれを嬉しく感じるようにすらなっていた。僕はそうやって手酷い扱いを受けていればいい。それくらいが丁度いい。そうやって、可哀想な自分に浸っていた。  あの頃は、命を絶つ日をいつにしようかという悩みだけが、僕の生き甲斐だった。  それでも、結局死ぬことは選びきれなかった。仕方なく生き続ける日々は、延々と続く虚しさと共にあった。そして、愛する人にはそれを悟られてはならないという、決死の覚悟で生活することを挑む日々でもあった。  人との関わりを極力減らすことで、なんとか自分をコントロールする。それが僕にできる最大の努力であり、生きていく上での目標だった。 ——リョウに触れたくなったの、いつぶりだろう……指輪に助けられたな。  僕はそう思いながら、サトルがくれた指輪に触れた。指輪は、甘やかに光っている。 「我慢出来たことを褒めてくれてるのかな」  そう問いかけると、またきらりと光ったように見えた。  僕がリョウに触れたいという気持ちは、一般的な友愛のそれとは違う。多くの人が、愛する異性に対して抱く感情、性愛だ。当時の僕は、彼に対してその気持ちを持っていて、それを満たす目的で触れたいと思ってしまう、卑しい生き物だった。  治療の甲斐あって、今ではほぼその気持ちは起きない。それでも、時折記憶の底からその気持ちが引きずり出されそうになることがある。その度にショックを受けるのだけれど、これだってそのうち無くなるはずのものだから、焦らないと決めている。 ——辛い目に遭うのは、僕だけでいい。  リョウに性愛を抱いていたのは、そう思っていた頃のことだ。 ◇  リョウは、優希の実家であった佐藤家の隣、中村家の長男として生まれた。二人はお互いに一人っ子で兄弟がおらず、優希が子供と遊ぶのが得意だったこともあって、よく遊ぶようになっていった。  優希は、虐待の激しい自分の家にいるよりも、中村家に上がり込んでリョウと過ごすことが増えていった。二人で食事を作ったり、公園へ連れていったり、生活に関わることを教えてあげながら、自分も楽しく過ごしていた。  近所のお兄ちゃんとして遊んであげていたというよりは、親代わりとして育てていたようなものだった。  リョウが五歳になった日、誕生日にも関わらず一人で夜を過ごしていることに気がついてからは、なるべく朝早くに起きて中村家へ行き、登園・登校するまでと帰宅してから就寝するまで、生活のほぼ全てを一緒にやりながら教えていった。  優希自身も、暴行を受ける以外には両親に興味を持たれていなかったため、仲間意識もあったのかもしれない。一回り以上も年下の子と過ごしては、毎日その可愛らしさに癒されていた。 「ゆーくん、これでちた」 「えらいね、リョウ。キレイに畳めたね」  小さくて素直な子だったリョウは、優希の教えることを一生懸命身につけては、褒めてもらおうと健気に頑張って家事を手伝っていた。優希はその顔が見たくて、一生懸命世話を焼いた。  自分の寂しさも紛れ、無垢な笑顔を向けられることで満たされていく。そんな生活が出来ることを、とても幸せに思っていた。    でも、あの日。唐突にそれは終わりを告げる。    リョウが小さくて可愛いのだと思い、お世話をしてあげたくて遊んであげていたと思っていたはずが、彼を性的な目で見るようになったと気がついたのは、優希が十八歳の頃だった。そこからは、彼は地獄の日々を生きることになる。 「リョウ。お風呂入るよー」 「はーい」  いつものように、脱衣所で二人で服を脱いでいた。その頃には、リョウは脱ぎやすい服であれば、一人で脱げるようになっていた。先に湯船に浸かって待っていたリョウと一緒に湯船に入った時だった。自分の体に、強烈な違和感を感じた。 ——なんか……ドキドキしてる。  妙な動悸がして、気分が高揚していくのを感じていた。そして、腹の奥の方に何かを飼っているかのように、熱の塊が蠢き始めるのを感じた。 「これ……どういうこと?」  彼は当時十八歳だ。どれほど興味を持っていなかったとしても、熱が高まった後に起きた現象がなんなのかということくらいは知っていた。  学校でもそれなりに習うため多少なりとも知識はあり、周りが読むマンガや見ている動画では嫌というほど知らされていた。ただ、それが今起きた理由がわからない。理解が追いつかず、パニックを起こしそうになっていた。 ——僕……リョウのことをそんな目で見ているってこと?  否定したい思いはあったものの、そう判断するしか無い状況であることに眩暈を覚えた。彼の目の前にはリョウしかいない。優希は、目の前が暗くなるのを感じた。 「どうして? こんな……」  リョウのことは、他の子よりも特別に可愛いとは思っていた。子供好きな彼は、リョウ以外にも近所の子供と一緒に遊んであげることがよくあった。その中で、どの子よりもリョウが一番可愛く見えるなと感じることがよくあったのは確かだ。  ただそれは、毎日自分が面倒を見ていた、とても近い存在だからだと思っていた。築き上げた関係性や、楽しく過ごしてきた思い出がそうさせていると、信じて疑わなかった。 ——もしかして、ずっと前からそういう目で見ていたの? そんな……。  優希は頭を抱えて涙を流した。初めての絶望を味わい、その先の人生を憂いた。リョウはこの時、六歳になろうとしていた。

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