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第1話
建てられてから、何百年と経つのに、白く厳かな美しさを失わない大神殿の、とある廊下。まだ冷たい空気が流れている早朝の頃、エルシュフィールの声が白亜の廊下に低く響いた。
「しかし、このような儀式よりも私の作った計画書に目を通していただきたい。過去の被害情報を元に物資や派遣する人員、その他必要であろう救援派遣の計画を立てました。これを元に協議を重ね、大神官様や国王陛下のご意見も取り入れ、天災のあった地域へ現実的な支援を差し伸べるべきかと、失礼ながら意見申し上げます」
エルシュフィールは、大神官の前に立ち、立ち去られるのを防ぐ。早口で捲し立てている自覚はあったが、心が急いていた。
育ての親でもあり、直接の上司になる大神官は豊かな白い髭を撫でながら、困ったような顔をした。本来、このような表情をさせるのはエルシュフィールとて本意ではない。だが、無駄な儀式よりも、もっとできることがあるはずなのだ。それを大神官にも理解してほしい。
エルシュフィールは更に一歩、大神官へとさりげなく近づいた。幾重にも巻かれた羊皮紙を差し出す。これを書き終えたのは明け方近くだった。我ながら、仕事中毒が過ぎていると思う。いつか身体を壊してしまいそうだ。
「ああ、これは受け取っておこうエルシュフィール」
受け取ってはもらえた。そのことに一つ安堵し、強張らせていた身体の力を少しだけ抜く。昨晩はあまり睡眠を取っていない。疲れが少し出てきたようだ。しかし、まだ終わりではない。
「ではこれを元にそれぞれの責任者たちを集め、詳細を詰める会議をいたしましょう。ギザヘルの村は治安が悪化しているとの報告も多数来ており……」
「お前の気持ちはわかった。しかしな、鎮静の儀をすることも大切なことなのじゃよ」
そう諭す大神官の目は優しい。その視線に批判の意は感じない。
だからか、自分が我を通し大神官を困らせているのでは、と心が罪悪感にざわついた。けれども、エルシュフィールにも矜持がある。
(この方は昔から、とても優しいから……)
ぐ、と喉の奥で言葉が詰まった。いつもなら間髪入れずに否定の言葉を言うところだろう。
数千年かけて育まれた森のような、深い緑色の瞳の前にエルシュフィールは言葉を躊躇してしまった。
沈黙を埋めるように大神官が話を続ける。
「お前の容姿は民が信仰する女神へレージアによく似ておる。儀をし、お前の姿を見て、救われる人間もおるんじゃ。どうか、儀に出てはくれんか?」
「……嫌です」
詰まった喉から搾り出すように、エルシュフィールは応える。大神官の目を見ることができず、少し俯く。背の中程まで伸ばしている銀髪が一房落ちてきて、視界の端に入った。
この国は医を司る女神へレージアを主とし、政教一致の統治を行っているルグレミド王国だ。
主神で、医神でもあるへレージアは銀色の艶やかな長髪に赤い瞳、透けたような薄衣の白い肌を持つ美しい女性である。癒しの手を持ち、どんな病や傷であろうと、身分や生まれ関係なく癒す慈愛の女神だと、太古の時代から今に至るまで神話に歌われてきた。
エルシュフィールはその女神の容姿を、男性であるという点を除いて、そのまま受け継いでいる。
(私にとっては不本意なことだ……!)
唇を噛み締める。視界の端の銀髪を乱暴にかき上げ、顔を上げた。そして少々乱暴な口調で言葉を発する。
「私は別に、望んでこのような容姿に生まれたわけではありませんし、そんな儀に予算、時間、人員を使うよりも、他にやることがあるだろうと考えています」
「エルシュフィール大神官補、いかに貴殿といえども言葉が過ぎま……」
大神官付きの従者が声を荒げるが、それを大神官自ら制する。そして悪くなった空気を和らげるように、優しく諭した。
「良い、良い。エルシュフィールの言うことも一理あろう。それに彼は医療福祉担当の大神官補じゃ。祭祀儀礼担当ではないのだから、無理を言っているのはこちらじゃ」
従者はまだ不満そうな顔をしているが、それ以上はもう何も言ってこない。
エルシュフィールも大神官と視線を合わせた。
「鎮静の儀はな、国王陛下などを交え、行うのでな、結構な規模になる予定なのじゃ。祭祀儀礼担当の大神官補はその準備でおおわらわ、まあつまり余裕がない」
「はあ……」
唐突な話の転換にエルシュフィールは困惑を隠せない。先程まで鎮静の儀には参加しないで良いと大神官は言っていた。儀には出なくて良いが、手伝えということなのだろうか。本心を言えば嫌だが、手伝いくらいなら、という気持ちもある。
「例のものをくれんかの」
従者が大神官に真新しい羊皮紙を渡す。それがエルシュフィールにそのまま手渡される。
「『聖へレージア騎士団新人聖騎士着任の儀について』」
渡されたものが予想外すぎて、エルシュフィールは思わず見出しを、そのまま声に出して読んでしまった。
「お前にはこっちを担当してもらいたいのじゃよ」
「聖騎士の、着任の儀……、セドリット・キルリーシアン、二十歳。この者だけですか?」
渡された羊皮紙には一人の名前しか書かれていない。
(二十歳か、随分若いな……)
二十歳といえばエルシュフィールの四歳年下だ。だが、この国では十八歳となれば成人と見做される。しかし、十八歳で騎士になったとしても、二十歳で聖騎士の推薦を受けるのは随分早い部類に入るだろう。
聖へレージア騎士団の騎士、通称聖騎士とは大神殿や神官、巡礼者たちを守るために存在している。主に有力貴族の息子や元近衛兵から選ばれ、家柄、容姿、騎士としての実力の三者が揃う、いわば選び抜かれた騎士たちだ。
稀に地方の騎士団から優秀な者が推薦をされてやってくることもあった。どうやら彼は後者のようである。
しかし、その着任式といえば毎年、四月に行われている。今は六月。季節外れの時期、二ヶ月遅れで、どうして新人聖騎士を受け入れることになったのだろう。
エルシュフィールの疑問を汲み取った大神官はすぐに答えを口にしてくれた。
「この者は信仰心も篤く、腕も立つが、推薦状が災害のせいで期限日まで届かず、四月には間に合わなかったらしい。本人も聖へレージア騎士団の聖騎士になることを熱望しておるようじゃし、空きがあったのでな、わしが許可をしたのじゃ」
「なるほど、それでこちらの儀を私に取り仕切れ、と」
「そういうことじゃな。悪いが、一つ頼まれてくれんかの? 祭祀担当の彼は任命されてからまだ日が浅いじゃろう? 鎮静の儀に集中をしてほしいのじゃ」
確かに大きな儀式が控えている、と言ってあたふたしているところを見たことがある。これ以上、祭祀担当の負担が増えると心労で寝込んでしまいかねない、とも感じた。
それに大きな儀二つを一人に任せる、というのも気が引ける。単純に忙しいなら、助け合うべきだろう。
「鎮静の儀は本当に出なくても良いんですね?」
念押しで再確認した。大神官は深緑の瞳を細め、穏やかな表情で頷いていた。
「もちろん。陛下にもエルシュフィールには聖騎士着任の儀を担当してもらう、と伝えておこう」
それなら安心だ。大神官からの口添えがあれば、国王も無理強いはしてこないに違いない。
この二人は同腹の兄弟だ。国王が兄で、弟が大神官である。仲も大層良い。
「わかりました、着任の儀はこちらで。それでは先程、渡した計画書の件もよろしくお願いします」
用は済んだ。大神官もエルシュフィールも朝から仕事がたくさん詰まっている。時間を無駄にしないよう、さっさと立ち去ろうとした時だった。
「エルシュフィール」
名前を呼ばれた。振り向くと、大神官がいつもの穏やかな表情の中に、心配そうな表情を忍ばせている。そのことにエルシュフィールは聡く気がついた。
「鎮静の儀は、鎮静の儀で、大切なことなのじゃよ。民はみな、女神を心から敬愛し、信じておる。人間ではどうしようもない現実に直面した時、信仰は人を救うことがあるのじゃ」
「……そういうこともあるかもしれませんね」
エルシュフィールは、それだけ言葉を返した。
女神への信仰だとか、慈愛だとか、そういう非現実的なものは、全く信じていない。エルシュフィールは胃がムカムカしてくるのを感じた。
エルシュフィールは親指を強く握りしめた。
冷静さを装い、苛立った心を巧妙に隠したエルシュフィールはその場をすぐに立ち去った。
一週間後、ヘレージア大神殿の主聖堂では、例の新人聖騎士、セドリット・キルリーシアンの着任の儀が行われていた。
(随分と緊張しているな……)
真っ白い式典用の祭服を着用し、薄衣のベールを被ったエルシュフィールは壇上の最上段に立ち、下にいるセドリットを見つめている。
彼は先程、聖へレージア騎士団の団長に騎士としての誓いを宣誓した。声だけはハキハキと、元気が良かったものの、澱みなく宣誓できたとは言い難い。時折、声を裏返らせていたり、何度も言葉を噛んでしまっていたのだ。
宣誓の句などには定型がある。それを教えられて、きっと彼は何度も練習したのだろう。声色を裏返していたり、噛んでしまっていても、声量は大きく、言葉を間違えることは決してしなかったからだ。
その様子を見て、エルシュフィールはセドリットのことを生真面目な人物に違いない、と感じた。ただ少し空回りをしている気がしないでもないが。
(しかし……、何だかゼンマイ仕掛けの人形みたいだな)
大丈夫か、と心配になり、ベールの中で思わず目を凝らした。
彼は今、儀の最後で、一番大切な局面の『エルシュフィールから聖騎士の剣を受け取り、聖騎士として正式に認められる』という場面に臨もうとしていた。
最下段から、真紅と白を基調とした儀礼服に身を包んだセドリットがエルシュフィールにだんだんと近づいてくる。
すると、ベールのせいでぼやけていたセドリットの姿がよく見えるようになった。
彼の澄んだ琥珀色の瞳からは無垢な印象を受けた。瞳と同じ色の髪も短く刈り込まれ、整えられている。清潔感はあるが、額が汗だくになっており、身体の強張り具合と汗の量から彼がどれだけ緊張をしているか、エルシュフィールにも伝わってきた。
緊張し切った身体の動きに顔の筋肉もつられているのか、セドリットの表情は乏しい。瞬きすらも忘れているようで、目を見開いたまま階段を上がってくる。
上ばかり、というか最上段にいるエルシュフィールから視線を外さず、足元を見もせずに上がってくるから正直、不気味だ。それに階段を踏み外さないかこちらが不安に駆られてしまう。
『信仰心が篤く、腕も立つ』と大神官から話を聞いており、災害のせいで推薦状の到着が遅れたとはいえ、中途で入団を許可される人物なのだから、もっと優秀だと、エルシュフィールは勝手に思っていた。歳は若いが、しっかりとして、落ち着きのある人物だと、想像をしていたのだ。
実際は真逆のようだ。年相応、もしくはそれ以上に緊張に弱そうである。
(大丈夫なのか……?)
それでも何とか転ばず、足を踏み外すこともなく、セドリットはエルシュフィールの前に辿り着いた。そしてひざまづき、頭を垂れた。
今度はエルシュフィールが祝いと承認の言葉を述べる番だ。腹に力を入れ、喉を開き、高らかに宣言した。
「ルグレミド国王、大神官、そして我らが女神へレージアの御名の元、何人であろうと愛し、助け、聖騎士としての誓いを貴殿が全うできるよう、ここに祝福を授ける」
彼の両肩に剣先をそれぞれ置き、鞘に納めると横に捧げ持つ。
そして両側に控えていた神官たちの手によって、エルシュフィールの視界を覆っていたベールが挙げられる。ようやく目の前が明るく見えるようになった。
「は、拝受いたし、ま……」
セドリットが剣を受け取れば着任の儀は終わり、エルシュフィールも役目から解放される。しかしその瞬間はなかなかやってこなかった。
セドリットが目を見開いたまま、額に大量の汗を滲ませ、動かなかったからだ。
(ん……、なんだ? どうしたんだ一体)
こほん、とセドリットだけにわかるよう小さく咳払いをして、少し前に出る。目線で、早く剣を取れ、と伝えてみるが、彼に伝わった様子はない。
周りも異変に気がつき、ざわつこうとした時、大きく鼻を啜る音が聞こえた。セドリットだった。
「は……?」
みるみるエルシュフィールの眉間に皺がよっていく。目の前の光景が信じられず、何が起こっているのかよくわからない。頭が混乱しそうになる。
なぜかというと、ひざまづき、エルシュフィールを真っ直ぐに見つめているセドリットが号泣していたのだ。
滂沱の涙が彼の無垢な瞳から溢れ、頬を伝い、真白い大理石に吸い込まれていく。
(なんなんだっ⁉︎ 一体、何が起きているんだ、どういうことなんだ)
ついに頭の中が混乱の渦でもみくちゃになってしまう。着任の儀で号泣している、というか涙を流す騎士など見たことも、聞いたこともない。
かつてない事態にエルシュフィールもどう対応したらいいのかわからず、思わず目を泳がせた。
こんな場所で号泣してしまうほど、彼は王都へ来ることや、聖騎士になることが嫌だったのだろうか。けれど彼は地方からの推薦され、自分で志願してここへ来ているはずだ。決して無理やり連れられて来ているわけではない。
わけがわからなくて頭が働かない。エルシュフィールが理解できる範囲を超えている。
だが儀の進行はせねばならない。頭が真っ白になりかけながらも、もう一度、祝いと承認の言葉を述べようとした時、セドリットが大きな声を張り上げた。
「め、女神様っ!」
セドリットの大声は主聖堂の高い天井に響いた。ぐわん、と音圧が降ってくる。
声の大きさに驚き、思わずびくん、とエルシュフィールの身体が揺れた。
いつの間にか、主聖堂が静まり返っていた。
セドリットはそれを気にした様子もなく、というか気づいた様子もない。エルシュフィールの目の前で突然祈る姿勢になった。それも最上級の祈りの仕草だ。手を組み、拝んだまま、溢れる涙を拭おうともしない。それすらも頭にないようだ。
「やはり、やはり……、女神様はいらっしゃるのか!」
ここでようやく頬を流れる涙に気がついたのか、セドリットは目元を袖で乱雑に拭った。
(め、女神っ⁉︎)
エルシュフィールは衝撃を受ける。
確かにエルシュフィールの真後ろには白銀の巨大な女神像が設置されている。
彼は後ろの女神像を見て、感動しているのだろうか。
だが、セドリットの視線はしっかりとエルシュフィールを見つめていた。
彼が誰に祈りを捧げ、誰に向かって『女神様』と口に出したかは明白だった。エルシュフィールの頬にかっと血が昇る。すんでのところで激情を抑え込んだ。
(私のことか、私のことを女神と呼び、祈っているのか⁉︎)
捧げ持った剣を床に叩きつけたいほどの激情に駆られる。困惑は瞬時に怒りへと変わった。頬どころか、頭に血が上り、ますます怒りが増して来た。
エルシュフィールは、女神呼ばわりされることが何よりも嫌いなのだ。
(この私を、女神だと、勘違いしているのかっ!)
思わず周囲を見回すと、忍び笑いが堪えきれなくなっている騎士や、頭を抱えている神官など、みな様々な表情を浮かべ、壇上のエルシュフィールとセドリットに注目している。
エルシュフィールを女神へレージアだと勘違いして、感激しているセドリットは感極まったまま、剣を受け取ることを忘れているようだ。どうやら式の流れまで、頭から飛んでいってしまったらしい。
エルシュフィールは頬の内側を噛んだ。そうしないと、怒号が腹の奥から出て来そうだったからだ。怒りのまま声を荒げそうになる自分を抑え、セドリットに一歩近づく。
そして同じようにひざまづき、セドリットと目線を合わせた。
より近くで見ると、この者が逞しく、硬質で青年らしい顔立ちをしていることがわかる。しかしその若さ溢れる容貌も、泣きじゃくっている今では形無しだ。エルシュフィールは、年端もいかない子供を相手しているかのような気分になった。
油断すれば睨みつけてしまいそうになる自分を抑え、頬の筋肉を無理やり上げた。我ながら、わざとらしい笑顔だと思うが、セドリットは全く気がついていないようだ。それとも気にしていないのだろうか。
どちらでもいい、とエルシュフィールは目線を強くする。
そしてもう一度、声を掛けた。
「聖へレージア騎士団、聖騎士セドリット・キルリーシアン、剣を」
「あぁっ、はい! なんて光栄な……、女神様から剣を拝受できるなど……」
セドリットは何かごちゃごちゃ言っている。だが、彼が剣を受け取ると、エルシュフィールは無視し、すぐさま立ち上がった。
そして周りを見まわし、儀にそぐわない振る舞いをしている騎士や神官たちを睨みつけた。みな、エルシュフィールに睨まれると、背筋を正し、前を向く。
エルシュフィールは怒りが声にもれぬよう、腹に力を入れた。
「これにて、聖ヘレージア騎士団、聖騎士セドリット・キルリーシアンの着任の儀を閉儀とする!」
主聖堂の天井にエルシュフィールの言葉がこだまする。ステンドグラスがビリリ、と共鳴した。
最後の言葉を早口で述べたエルシュフィールは、そのままセドリットの方を振り返ることなく、足音を鳴らしながら、急いでその場を走り去った。
(クソっ! 若造の新人騎士め!)
腹が立って、仕方ない。これ以上、この場にいると自分が何を言ってしまうかわからない。まだ自分に冷静な部分が残っていて、本当に良かった。
エルシュフィールは顔を真っ赤にしながら、頬の内側を噛み締めた。
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