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第2話

 今度こそ、エルシュフィールは怒りを隠さないでいる。だんっと力任せに自分の執務机に拳を叩きつけた。 「着任の儀の段取りはどうしたっ! 頭に入れて来たんじゃなかったのか⁉︎ どこに大神官補を見て、泣きながら拝め、なんて書いてあったんだ!」  セドリットの着任の儀の後、エルシュフィールはまず聖へレージア騎士団の団長を自分の執務室へ呼び出した。セドリットが儀の段取りを覚えていなかったことに抗議をし、二度とこのようなことがないように、と厳重注意をした。  いつもならここまでで終わるだろう。聖騎士団のことは、エルシュフィールが細かいことを団員に注意することはない。団長に任せるのが筋だからである。  しかし今回はそれだけに収まらず、問題の張本人であるセドリットも一人で執務室に呼び出していた。  エルシュフィールはいつも、感情的な時ほど冷静に、と自分に言い聞かせるようにしている。一時の感情に身を任せるほど、愚かなことはないからだ。だが、執務室へ入り、エルシュフィールを見て、また表情を輝かせたセドリットに我慢がならず、つい怒鳴り声をあげてしまった。  挨拶もなく、いきなり怒鳴られたセドリットから笑顔が消える。けれども、まだ何もわかっていないのか、セドリットは再度、エルシュフィールの逆鱗に触れる言葉を放った。 「すみません……、練習を重ね、着任の儀の言葉も覚えて来たつもりだったのですが、あの……、エルシュフィール大神官補の、あまりの神聖さについ……、まるで女神ヘレージアが僕のことを祝福しているのかと」 「私は女神ではない!」  一際、大きな声が出た。冷静に、と考えていたことなど、一瞬で頭から消え失せてしまった。そして着任の儀の際に感じた屈辱的な怒りが、波のように心の中を揺さぶる。  セドリットは、エルシュフィールの様子が尋常ではないことに気がついたのだろう。だが彼はエルシュフィールの怒りが『儀の段取りを覚えていなかったこと』だと思っている。  なので、知らず知らずの内に、エルシュフィールの地雷を踏み抜く言葉を再度、口にしてしまう。 「わかっています。しかし、エルシュフィール大神官補は……、エルシュフィール様は女神ヘレージアにそっくりですし、真白い祭服に身を包まれ、剣を捧げ持つ姿からは神聖さを感じました。同じく女神ヘレージアを信仰する者として、貴方に女神様の姿を重ね合わせ、感動を覚えたのです。ですが……」  饒舌に語っていたセドリットの言葉がここで止まってしまう。目線を逸らし、恥ずかしそうに頭を掻いた。 「あの場でその感動や信仰をあらわにするべきではありませんでした。大切な儀を邪魔し、皆さんやエルシュフィール様にご迷惑をおかけしたことは本当に反省しています。すみませんでした」  謝罪の言葉を述べると、セドリットは深々と頭を下げた。どうやらやらかした自覚はあるようだ。  しかしセドリットの謝罪は、エルシュフィールに何も響いてこない。  着任の儀の途中であんな行動をとったこと自体は問題だろう。それについてはエルシュフィールも最初に咎めたし、本人も反省している。   だが、本当の問題はそこではないのだ。 「……私を、……と、っ、するな……」 「え?」  セドリットが頭を上げた。不思議そうな表情をしている。何も知らなさそうな、無垢な視線がエルシュフィールを眺めており、それにも腹が立った。握り締められた拳がじんわりと熱を帯び、手汗を掻いている。 「私を女神と同一視するな、と言っている!」  エルシュフィールの言葉にセドリットは驚いたような、呆けたような表情を見せた。それに構わずエルシュフィールは言葉を続ける。 「私は……、私を、私の容姿を、女神に例えられることが不快だ! 二度とするな!」 「どういうことですか……、何を言って……」  今度は、明らかにセドリットが動揺していた。その動揺について、理解できなくはない。  ルグレミド王国で、女神と同じような特徴を一つでも持つ者は祝福された者として人々の尊敬を受ける。銀髪や真紅の瞳はまさに分かりやすく女神と同じ特徴だと言っても良いだろう。  女神と同じ特徴に加え、類まれなる美貌を持つエルシュフィールなど巷では『女神の生まれ変わり』だとして噂されていた。  しかし、それはエルシュフィールにとって迷惑で、不快な事実でしかない。  怒りに飲み込まれたエルシュフィールの言葉は止まらない。 「私が女神など、信じていないからだっ!」  だんだんと息が荒くなってくる。頭に血が上り、白い肌は上気していることだろう。  逆にエルシュフィールの言葉を聞いたセドリットは顔を青ざめさせていた。 「な、何ということを……、そんな……、女神様を信じていない、など……」  エルシュフィールの言葉に動揺したセドリットは明らかに狼狽している。  その姿を見て、エルシュフィールは唇を噛み締め、セドリットを睨みつけた。 (そうだ、女神など、信仰など、人を救わない。現に私たちを救いはしなかったのだから!)  もう十年以上経つのにいまだに消えず、時折夢の中でさえ、エルシュフィールを苦しめる忌々しい記憶が鮮明に蘇ってきた。  次々に病に倒れていく村人たち、苦しみながら死んでいった両親。家族も、友人も、故郷も、何もかもエルシュフィールは十一歳にして全て失った。 (あれだけ、あれだけ、女神に祈ったのに……!)  みながまた健康になるよう、疫病が鎮まるよう、自分が『女神の生まれ変わり』だと信じていたエルシュフィールは必死に祈りを捧げた。けれど、現実はあまりにも無慈悲だったのだ。  自身も病に倒れ、何もかもに絶望し、もうだめだ、と思った時、王都から医療神官たちが村に到着した。そして、エルシュフィールたった一人だけが一命を取り留めたのである。  エルシュフィールを救ったのは篤い信仰心でもなく、女神の慈愛でもなく、奇跡などでもなく、王都から派遣されてきた医療神官たちの適切で、当時の最先端の医療、公衆衛生の知識と、救援物資だった。  この日からエルシュフィールは女神ヘレージアへの信仰を心の中で棄教した。それでも神官となり、若くして大神官補にまで上り詰めたのは、一つは当時上級神官で実際にエルシュフィールの村で陣頭指揮を取っていた大神官がただ一人生き残ったエルシュフィールを引き取ってくれたこと、二つ目はこの国の医療や福祉が女神や神官、宗教と結びついているからである。  エルシュフィールは信仰ではなく、正しい医療知識と衛生観念をこの世に広め、二度と自分と同じ思いをする人を減らしたい、と痛切に願い、その実現に向けて邁進しているのだ。 「そんな、大神官補である貴方が女神ヘレージアを否定するなんて、信じていないなんてどうかしている……」   目を泳がせたセドリットは一歩、退いた。また額に汗が吹き出している。 (……夏でもないのによく汗を掻く男だな)  その姿を見ながら、エルシュフィールは他人事のように感じた。 「お前は本当に信仰心の篤い男だな、セドリット・キルリーシアン」  エルシュフィールは顎を引き、セドリットを睨みつける。 「まるで彼女の、熱狂的な狂信者のようだ」  今まで青ざめていたセドリットの顔が瞬時に赤くなった。どうやら、女神のことを『彼女』と呼んだことと、『狂信者』という言い方に腹が立ったようである。 「貴方こそ、女神ヘレージアを信じていないのになぜ神殿にいるのです? 神官となったのですか? しかも位は大神官に次ぐ大神官補。意味がわからない」  セドリットが退かせた足を元に戻し、足早に近づいてくる。執務机を挟んで、二人は対峙し、睨み合った。  セドリットの素朴な色をした瞳が間近にある。憎たらしいくらい無垢な瞳だった。 「僕が狂信者なら貴方は強欲だ。ただの権力欲の塊です。ここにいる資格はないでしょう」  自身の悲しい過去を説明し、同情を誘ったり、理解を得ようとは思わない。  それに一神教で広く女神が信仰されているとはいえ、この国の信仰は基本的に自由だ。異教を信じている者、そもそも信仰心のない者も少ないながら、存在を許されている。異教徒だから、という理由で差別も少ない。  なのでエルシュフィールは、法に則り、セドリットが女神を信仰するなら、それを否定するつもりはなかった。 「……出て行け、私が神官になった理由などお前に語るつもりは一切ない」 「そうします、貴方と話していても何も得られませんから」  足音を立て、セドリットは出入り口の扉の方へと近寄っていく。 「失礼します」  扉は乱暴に閉められ、激しい音が鳴った。

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