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第2章 龍は潜む

     1  年明け2週目の金曜。  18時。  話に聞いていた服装と違って安心する。  下着の上に白衣を羽織っただけの姿だと聞いていたので。  肩にかかる癖のある髪。ベージュの縦ラインセーター。艶のある素材の黒のミニスカート。黒く薄い生地のストッキング。赤のヒール。  下着姿でなくても充分派手だ。 「私は家族を連れて来いと言ったはずだが」白光の主治医――瀬勿関(セナセキ)先生が言う。  国立更生研究所。  郊外にある物々しい3階建ての建物。  入口は2階にあり、入ってすぐ、首の長い恐竜の骨格レプリカ(まさか本物ではないだろう)が逆さ吊りになっている。毎週通っている白光に連れられて、吹き抜けのエスカレータを降りると、先述した先生が待っていた。 「それとも家族になるつもりなのか?」先生が言う。 「龍さんは俺がいま一番信頼している人です」白光が真っ直ぐに先生を見て言う。「その人に俺の状態を聞いてほしくて」 「本当の家族には」先生がそこで白光の表情を確認した。「言ってなさそうだな。そこらへんのごたごたに私を巻き込むなよ?」 「いまはそこらへんは保留にしておきたいんです。俺の体調のことだけ考えたいっていうか。妻とはいずれちゃんと話をします」 「わかった。お前はどこかの女装女にそっくりで一度決めたら絶対に曲げんからな」  先生に案内されて1階の部屋に入った。全面が白い空間。  先生のデスクに向かい合う形でゆったりとしたソファがあり、その脇に背もたれのある椅子があった。 「今日は何と言って連れて来られたんだ?」先生がデスクに着いてから俺に言う。 「だいじな話をするから付いてきてほしいと言われました」 「なんで自分が?とは思わなかったのか」 「思いました。でも俺は、いえ、私は白光の想いを大切にしたかったんです」 「わかったわかった。もういい。これ以上聞くとただの惚気だ」先生が顔の前で手をひらひらと振る。「録音とかいいか? 私は同じことは二度言わんぞ?」 「いいです。記憶には自信があります」白光が言う。  先生がPCを操作する。電子カルテだろうか。 「白光は、いま一時的に落ち着いた状態にある。その理由は白﨑(シラサキ)に依存しているからだ。ああ、私は奥歯に物が詰まった言い方はしないぞ。聞きたくなくても聞いてもらうからな。白光はもともと依存傾向がある。依存てわかるか? 誰かに頼り切ってべったり圧し掛かっている状態だ。依存自体があまりいい状態とは言い難い。ただこれをやめると命にかかわる奴も出てくる。空っぽとよく言っていたな。その空っぽの状態が、白﨑のおかげで一時的に満たされている状態だ。しかし、これからもずっと一緒にいれば空っぽの状態が解消されるわけじゃない。空っぽの穴は、他人でなく自分主体で埋める必要がある。白光、お前はこれからどうしたい?」先生はそこまで一気に喋って脚を組んだ。「未来や希望について考えはあるか」  白光は急に話を振られたが、ゆっくりと口を開いた。「俺はずっとフツーになりたかったんです。フツーの家族がいて、フツーに学校行って、フツーの親がいて、フツーの兄弟と一緒に暮らす。フツーに恋をして、フツーに結婚して、フツーに子どもができてっていうよくある家庭を夢見てました。でも俺にはどうしてもできない。何度も何度もやってるのに全然うまく行かない。てことはこれが向いてないってことなんです。そもそも無理なことを自分でしようとしてたってことなんです。だから、俺は」白光が横にいた俺を見た。「フツーじゃない龍さんを選びます」 「離婚するってことか」先生が言う。 「はい。駄目なんです。俺は夫にも父親にもなれない」 「それは自分で考えたんだな?」 「先生言ったでしょう? 俺には父親のロールモデルがないって。かといって母親のことも憎んでいる。つまり父親的な男に愛されたくて、母親的な女に拒否感を覚える。俺は龍さんに父親を見てるんでしょう。先生に言われてしっくりきました。だから何かあると龍さんに助けてほしくなる。それは昔、父親に助けてもらいたくても助けてもらえなかった裏返しです。依存でもなんでも、俺はいまが一番幸せです。幸せってのを感じるんです。やっと幸せってのがわかった気がするんです。ああ、これが、て手の上にあるんです。だからそれをだいじにしたい」  胸が詰まって声が出ない。  これを聞かせようと思って俺を連れてきてくれたんだろう。 「お前の選択がどういう未来をもたらすか、私が先に言ってやろう」先生が淡々と言う。「まず妻は発狂するだろうな。下手をすると傷害事件になる。お前は刺されるよ。運よく生きていればいいが、妻はお前のせいで殺人未遂だ。おまけにお前は元暴力団幹部の白﨑と一緒に暮らそうとしている。わかるか? この先に待ちかまえる苦労が。私の最後の助言だ。白﨑とは週に一度会うセフレくらいにしておけ」 「嫌です。俺は龍さんと一緒にいたい」 「わかった。もう言わん。でもこの選択を知ったお節介な里親や兄弟は全力で止めに来るぞ?」 「もう決めましたので」白光が俺の手を取った。「この人と、龍さんと一緒に年を重ねたいんです」 「だ、そうだ」先生が俺を見る。「どうなんだ? 白﨑」 「想いを受け入れたい気持ちがありますし、私は確かに白光を愛しています。でも、それは夢や幻の世界で」 「龍さん、俺を見捨てるの?」白光が手を引っ張る。 「ほら、それだ。それが依存だ」先生が言う。「健常な関係ならそんな言葉は思い当たらん。主治医として忠告する。見ていられん。お願いだ。早まらないでくれ」  白光の表情が剥離して、部屋を飛び出していった。 「白光!」  追いかけようとしたが、先生に止められた。 「問題ない。出るのも入るのも私のこれが要る」先生は胸元にかかっているカードを掲げた。「少し退行しているな。ああ、悪い。専門用語だ。お前という父親モデルが現れたことで幼い時分に戻っている。もう一度、あのとき果たせなかった、父親に甘えるという、フツーの息子をやり直そうとしている。セックスはするんだな?」 「あ、ええ、まあ」突然とんでもないことを聞かれてビックリした。 「お前はセックスのつもりかも知れんが、あいつはじゃれてるだけの可能性が高い。もしくは本当の父親に同じことをされていたか。あいつはオーガズムに達しないだろう? 欲望はどうあれ、愛のある行為だと思っているんだろう。そんな形じゃないと愛を感じられない。重症だよ。すまないが、全然治療が途中だ」  言葉が出ない。相槌も打てない。 「ショックだろうが受け入れろ。それがあいつの現状だ。何か質問はあるか」 「私はこれから彼にどうやって接するべきでしょうか」 「それが一番の課題だ」先生が顎に手を当てる。「少なくともセックスはやめた方がいい。性行為に依存しているところもある。求めてきても抱き合う程度にしておけ。あいつの妻との話し合いだが、可能なら立ち会ってやれ。本当に殺されかねん。119番と110番の準備をして臨め。自宅で話すと包丁を隠し持たれる可能性がある。あ、いや、出掛けたとしても包丁を隠し持ってくるだろうな。妻の荷物を預かったほうがいい」 「助言をありがとうございます」 「言いそびれていたが」先生が言う。「お前はあのとき、10年くらい前か? あいつが大晦日にいなくなったときに白光を匿っていた刺青の男か」 「匿っていたんじゃないです。ただ、滅茶苦茶に抱いてほしいと言われたから応じただけで」 「昔から関係があったんだな?」 「ええ、カネと引き替えに買っていました」 「兄弟を食わすために仕方なくやっていたと言ってもな、小学生から高校の中頃までほぼ毎日。気が狂ったとしてもおかしくない。ああ、そうか。すでに狂ってるんだろうな。それでフツーに戻りたい、と言うんだな」  何も言えないし、言うべきでない。  俺は加害者側だ。 「可能なら入院をさせたいが、私が診ないとどうしようもないしな」 「ここには入院できないんですか?」 「ここに収容できるのは、更生不可能な性犯罪者だけだ。私の本来の仕事だよ」  白光が戻ってきた。泣いた跡はなかった。感情がなくなっていた。 「今日はお前のところに泊めてやれ」先生が俺に言う。 「先生」白光が言う。 「なんだ」 「俺、どうにかなりますかね?」 「どうにかするために私がいる。白﨑もいるだろ?」 「だって頼っちゃいけないって」 「適切な距離で頼るのは問題ない。お前の場合はもたれかかりすぎて相手が潰れるレベルだ」 「難しいですね」 「それをだんだんできるようにすればいい」先生が立ち上がる。「今日は終わりだ。ゆっくり休んでくれ」  20時。  俺の家に戻ってきた。  白光はほとんど口を聞かなかった。何も話すことがないというよりは、何かを考えているようだった。  帰り道で弁当を買った。これもいつもの流れ。  帰ってすぐにそれを食べた。  俺は銭湯に行けないので、ボロアパートでも風呂が付いている物件を選んだ。  白光がシャワーを浴びて出てきた。  俺の着替えを貸した。サイズが大きい白のパーカー。  あの時を思い出したが記憶を振り払った。  セックスはするなと先生に言われた。 「しないの?」白光が悲しそうに言う。  悲しそうというのは俺の主観だ。 「しようよ。いつも帰ったらしてるじゃん」 「悪いが、先生に止められた。依存していると」 「そっか。やっぱそうなのかな」白光が俺から距離を取った。  といっても6畳程度の1Kなので対して離れられない。 「俺、龍さんとしてると安心で」 「悪い」 「いいよ。俺の治療のためでしょ。我慢するよ」 「泊まって行くんだろ?」先生に泊めるように言われた。 「うん。龍さんが嫌じゃなければ」 「俺は嫌じゃない。白光が俺を選んでくれて嬉しかった」 「だったら」白光が俺を見る。 「でももう少し考えたほうがいい。俺は逃げないし、お前がどんな状態になろうと支えるつもりだ」  白光を座ったまま後ろから抱き締めた。  身体はすでに冷え切っている。  ボロアパートは隙間風もきつい。  暖房もケチって布団に二人して包《くる》まる。 「理洋子《りょうこ》に刺されるかな、俺」 「俺が守るよ」 「それじゃあ駄目だよ」 「お前が刺されるよりマシだ」 「俺だって」  キスくらいはしてもいいだろうか。  自然と唇が重なった。 「龍さん、俺のどこが好きなの?」 「全部だ。全部。白光の頭のてっぺんからつま先まで。つらい過去も幸せだって言ってくれた今も含めて全部好きだよ」 「俺も」白光が俺の腕の中で照れくさそうにする。「俺も、龍さんが好き」  この好きは、俺の好きと違う。  先生の分析によるなら、ただの家族愛だ。 「大好き」白光が鼻筋を俺の胸に寄せる。「龍さん」  この状態でしないのは無理だろう。  でも我慢した。白光のために耐えた。  白光は俺の腕の中ですやすや眠っていた。  俺はトイレに行きそびれた。      2  翌日。土曜。  朝9時。  白光がどうしてもと言うので自宅に行った。まだ時期が早いと思ったが、説得できなかった。せめて先生の助言通り、一緒に付いていった。  部屋は真っ暗で遮光カーテンが引かれていた。 「おはよう」地獄を這うような声がした。  奥さんがダイニングテーブルに突っ伏していた。  アルコールの缶が大量にテーブルと床に転がっていた。  強いアルコール臭が漂う。 「理洋子(りょうこ)さん」白光が呟いた。 「その人が龍さんなんでしょ?」奥さんが言う。「知ってるんだから、私。毎週金曜日に診察に行った帰りに泊まって来るの。私とはしないのに、その人とは毎週してるんでしょ?」  奥さんが手元にあった小型の機械を触る。  盗聴器。  俺と白光の情事中の声がした。 「離婚はしないから」 「話をしに来た」白光が極力穏やかな声で言う。「理洋子さん、聞いてほしい」 「聞くことなんか何もないわ。私は離婚しない。だからさっさとその不倫相手をどっかやって」  空き缶が飛んできた。  なんとか避けれた。  壁にぶつかって床に転がる。 「帰ってよう!!」 「龍さん」白光が視線を向ける。 「いや、俺はここにいる。奥さん、申し訳ないが、白光くんは治療中だ。話し合いももう少し待ってもらえないだろうか。白光、いまはまだ早い」 「でも」白光が言う。 「奥さん。あなたが本当に白光くんを愛しているなら待ってほしい」 「愛してるなら? 愛してるに決まってるでしょう。私が一番愛してるの。白君のことは私が一番わかってるの。だって私が結婚したんだから。白君が選んでくれたんだから。私が勝ったんだから、私が」 「ああ」白光が低い声で呟いた。「お前も同じじゃないか」  奥さんがキッチンに回った。  先生の言った通りになった。  俺は白光を守りながら、110番した。  包丁を持って暴れている女がいる、と。  警察はすぐに来た。  話だけ聞いて帰った。  未遂では動いてくれない。  でも俺が先に刺されたら白光を守れない。  白光が奥さんを刺すわけにいかない。白光を刑務所送りには出来ない。 「理洋子さん。俺、しばらく龍さんのところにいるから」 「そんなことしても離婚しないから」  平行線だ。 「理洋子さん、俺、理洋子さんだけは違うって思ってた」白光が言う。「でも違った」 「そうよ。白君にアプローチしてきた女たちの頂点に立ったの、私。嬉しかった。誰にも手に入らない白光君が私の物になったんだから。でも、なってなかった。全然なってなかった」 「子どもは無理だから」 「そうよね。男のほうが好きみたいだし」 「女も無理そう」 「ありがとう。今日まで騙してくれて」  ドアを閉めた。  閉めたと思った。  油断した。  後ろから。  奥さんが包丁を持って。  白光を刺した。  俺は。  奥さんを動かなくさせて、  119番を呼んだ。  ついでに110番もした。  なにもかも、  先生の言う通りになってしまった。

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