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3ー3
少し熱めのシャワーを浴び終えて、市村はタオルで髪を拭きながらバスルームを出た。
ルームシューズにつま先を入れると、珈琲の良い匂いがどこからともなく漂ってきて、思わず小動物のように鼻をひくつかせてしまった。
匂いを辿るようにして、視線をカウンターキッチンに向けると、そこには今まで見たことがない格好をした土方が立っていた。
いつも、レギュラータイを締めつつ、カジュアルめな服装でいる彼が、少し寝ぐせの付いた髪もそのままに、だぼっとした上下黒のルームウェアで欠伸をしながら、ケトルを持ってマグカップにお湯を注いでいる。
無防備というか、隙を見せているというか、そんな感じだ。
市村からの視線に気づいて、土方は顔を上げた。
「上がったか?風邪ひかないうちに着替えちまえよ」
「はい…」
「どうした?」
「あんまり見ない格好だなあって」
「普段はこんなもんだ」
「…」
「惚れ直した?」
「…はい」
バスタオルを口元に当てて、正直に首を縦に振る市村に土方は笑った。好きな人にだけモテていればいいというのは本当にその通りだ。
「朝飯食ったら出かけるぜ」
そう言った土方の後ろで、トースターの音が小気味よく鳴った。
いつもこうして食事を用意しているのだろうか。サラダボウルに手際よく野菜を盛り付ける姿を見て思う。
ここにいれば本当に、土方の今まで知りえなかった姿が、不意に色々と飛び込んでくる。
予想してなかったことに虚をつかれたかと思えば、予想通りの安心感を覚えるところもあって、まるで間違い探しのように楽しく思えてきてしまう。
一緒に過ごしてきた時間はそれなりに長くなってきたと思うが、それにしてもまだまだ知らないことが多すぎる事実を目の当たりにして、市村は嬉しくなった。丁寧にタオルを畳み、口元を綻ばせながら上着の袖に手を通す。
簡単に朝食を済ませたあと、二人ともがっつり着込んで出かける支度を済ませる。
今日の冷え込みも年末らしく厳しくなるそうだから、外出となれば、午前中の今から、並々ならぬ体制で臨まなければならないのだ。
土方が今まで愛用していたカシミヤのマフラーは、昨日から市村のものになった。今もしっかりと、その首に巻き付けられている。
…それに、こうして巻いておけば、昨夜のキスマークも隠せるというものだ。
いつものチェスターコートを身に纏った土方は既に、市村の知っている〝先生〟の姿に戻っている。
すらりとした長身のシルエットを美しく際立てるそのコートは、本当に〝昔から〟良く似合っていた。
「さッッむ!」
玄関を開け、外に出た土方は、そう声を上げて大げさなくらい肩を竦めた。
市村も、吹き込んできた冬の風に思わず目を瞑って、両手をポケットに、さっとひっこめた。
車の窓、凍ってたらやばいな、とぶつぶつ言いながら土方は玄関の施錠をする。
二人で身を寄せ合って寝ていたから大して気にならなかっただけで、実際、昨夜はかなり冷え込んだのだと思う。
「わあ、やっぱり少し積もったんだ」
二人でエレベーターを降り、肩を並べてエントランスを抜けると、外に広がる景色を見た市村が声を上げた。
土方にとっては見慣れた駐車場が、今日はシュガーコートを施したように白く雪化粧している。
市村が、少し浮かれて先に外へ踏み出した。
「ホワイトクリスマスですね」
楽しそうに笑いかけられて、土方も目尻が下がる。
「そうだな」
停めてある車を目指して歩いていく市村の背を、土方も追った。
吐く息の白が、雪景色の白と一緒くたになって消え、新雪の降りた地面に、二人分の足跡が寄り添って逸れることなく点々と付いていく。
足取りも軽く前を歩いていた市村が、不意に振り向いた。
『僕、ずっと先生に会いたかった!』
笑顔でそう言った市村に、あの日の〝彼〟の姿が重なる。
〝彼〟もまたこんなふうに、無邪気によく笑う子だった。
今生では知る由も無いはずのその顔と、市村の姿はぴったり符合する。
〝彼〟はまごうことなき、市村鉄之助だ。
「オレもお前に会いたかったよ。もうずっと昔から」
そう言って差し出した手に、優しく絡んでくる指先から伝わるぬくもりがとても愛おしく、懐かしい。
あまりに切なくて胸が詰まった。目頭が熱くなり、鼻の奥がつんとする。
もう二度と、この手を離すものか。何があったとしても、傍にいると誓う。
土方は、静かに微笑んで、つないだ手に力を込めた。
こうして、〝あの日〟に止まった二人の時間が、静かに動き出した。
昇った朝陽に透けて染まる空は、美しい浅葱色に萌えて輝き、今まためぐり逢ったふたつの魂が惹かれ合うのを見下ろしながら、遠くどこまでも広がっていた。
了
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