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嗜好
息が詰まる……。
視界がボヤけて、川の向こうに見えるクリスマスのイルミネーションが段々と霞んでくる。
苦しい、冷たい、怖い、助けて……。
幼い体に覆いかぶさる母の手の重み。
視界が徐々に暗くなる中、母の泣き声を耳にした。
──ごめんね、ごめんね……。
首筋に力が食い込み、体が水の中へと押し込まれながら聞いた悲しげな声。
目の端で見たのは、水の中に沈んでいく小さな体。
助けなきゃ、葉月 が死んじゃ──
支えていた手から顔が落ち、ガクッとなった瞬間、千乃はまぶたをパチリと開けた。
「……夢か」
悲しい記憶の余韻に短く息を吐き、當川千乃 は教科書に視線を落とす。
寝不足の頭で、経済数学の講義を受けるのは辛い。
眠気覚ましにスマホに触れようとしたら、前の席から耳馴染みのある単語が聞こえてきた。
ちょうどいい、現実への橋渡しだ。
千乃は彼らの会話に耳を傾けてみる。
「なあ、お前、BDSMって知ってるか?」
「またエロ動画でも見てたのか? それ、あれだろ──レズ、ゲイ、バイ……あと何だっけ?」
「ぷはっ、それはLGBT。しかもアルファベットも間違ってるし。BDSMはな、ボンテージ、サディズム、マゾヒズム、あと……なんだっけ、ディ……あー思い出せねぇ」
二人が小声で盛り上がるのを横目に、千乃はため息を吐きながら窓の外に目を向けた。
眠気が少し引いたのは、彼らの言葉でさっき見た夢を思い出したからだ。
夢の中で感じた母の手、葉月の声──。
その影は今も、日常の騒がしさの向こうにちらりと覗いてすぐ姿を現す。
ぼんやり空を眺めていると、前の男が振り向いて声をかけてきた。
「なあ、當川。お前知ってるか? BDSMの〝D〟がなんの略か。この名刺には書いてないんだよな」
「知ってるわけねーだろ、當川が。こいつ真面目すぎてエロも知らんタイプだし。なあ? 當川」
からかいの声に、千乃は無言で首を横に振り、教科書に視線を戻した。
「ちぇっ、やっぱ知らねーか。あー、気持ち悪ぃ。思い出せないのって地味にストレス」
「なあ、名刺って何の名刺だ? それ、今持ってるのか?」
「これ、これ。『縷紅草 』って緊縛の店だぜ。ゼミの先輩にもらったんだ。興味あるなら行ってこいって」
──縷紅草……か。名刺渡したその先輩は、センスいいな。
彼らの言葉に、千乃はほくそ笑んだ。
「なーんだ。名前とアクセスだけしか書いてないじゃん。あ、裏になんか書いてるな。えっと、『縄が好きな人の為のひっそりとしたお店です。
まだ緊縛に触れた事は無いけれど興味がある。そんな方も、お気軽にこっそり遊びに来てください』だってさ」
「お前、読み上げんなよ。教授に聞こえたらどうすんだっ」
「平気だ。それより縄が好きな人なんているのかよ。あ、そうだ。さっきの続き、ボンテージってのは何だよ?」
「ああ。それはな、ピッタピタのコスチュームとか、緊縛とか、隷属とか……束縛のイメージだな」
「隷属……お前ほんとエロいな。……で、〝D〟は思い出したのか」
「いやぁ、まだ。くそ、出てこねぇ……」
「もうググった方が早いって。あ、やべ、教授見てる!」
二人の会話が途切れた。
静かになった環境に、千乃はまたあくびが出そうになる。
Dはディシプリン。しつけや折檻 って意味だけど、教える気はない。
言えばきっと彼らのことだ、興奮してまた騒ぎ出す。それに、自分からバイト先を明かすのは避けたい。知られたら、彼らみたいな男子は根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。
それはかなり面倒だ。
あー。でも、超絶に眠い……。
睡眠不足の原因は、夕べ、閉店間際に来た客が少々厄介だったからだ。
理由は──。まぁ、いいか。よくあることだし。
教授の声を聞きながら、未だ、身体に竦む闇を思い出す。
躾に折檻……か。
千乃がその単語で思い出すのは、闇だ。
人々が抱える悩み──それもちょっと特殊なものになると、荒療治が適してる場合がある。
その一つがBDSMから成る行動だ。
症状によれば正式な病名がつくほどに。
少なくとも千乃自身は意味を理解したことによって、腑に落ちたことがいくつかあった。
唐突に首筋を触れられても、以前より反応はいくらか薄くなった成果がある。
けれど不思議なことで、悩みの種だったはずなのに、トラウマが改善傾向になると寂しさを感じた。
きっと、母さんが最後に触れた場所だからだろうな……。
大好きだった優しい手は、未だに千乃の心を過去へと連れてゆく。
そんな、相反する複雑な思いを抱えているのは、世の中にも大勢いる。
千乃が携わっているのは、学生のバイトとしては珍しい。いや、話だけ聞けばヤバいと思う仕事かもしれない。
けれど、同級生と流行りの会話をするより、一夜限りの客と触れ合う方が千乃は楽だった。
何より、あくびばかりしてしまう、退屈な講義よりバイトの方が張り合いがある。
この後にまだ二限も控えているかと思うと、げんなりだ。
今度は我慢せず、千乃はあくびをした。
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