薄暮の迫る午後十七時、街に仄かな灯りが灯るいつもの時間。 　懐かしさを感じる橙色の看板から『ケアサロン縷紅草(るこうそう)』の文字が黒く浮かび上がっている。 　雨上がりで残った水溜りに看板の灯りが揺らめき、ノスタルジックな演出を店先に添えていた水面をコンバースで踏み込んだ千乃は、勢いよく店のドアを開けた。 「お疲れ様です八束(やつか)さん遅くなっちゃいまし──」 　慌てて店に飛び込んだ千乃は、受付で客の対応をする嶺澤八束(みねさわやつか)と目が合い、思わず口を噤んだ。 　作務衣姿の八束の前には初診なのが背中越しでも伝わる女性客が、強張らせた肩で千乃の存在に気付かない風を装いペンを走らせている。 　きっと彼女も予約の電話をするまで葛藤し、ようやくここへ来ても、ドアを開けるまで迷いに迷って時間もかかったことだろう。 　横浜市桜木町駅西側にある、この縷紅草は、BDSMをプロモーションする店だ。 　店には緊縛などを求める客が日々訪れる。 　そのプロセスが、深いリラックスや瞑想的だと感じ、そこに癒しを求める人も多い。 　勿論、緊縛を正しく学び、時にはそこから悦楽を感じたいタイプも少なくはない。 　ロープ・ボンデージを実践する動機は多種多様で、装飾的、または官能的な方法で誰かを縄で縛る、または縛られたいという人が訪れる。 　ほとんどの人が、これからパートナーを見つけるために、自分の基準を再確認することも多い。 　快楽や欲望だけじゃなく、心を解放するための技術をも目指せる癒しの空間なのが、ここ縷紅草の得意とするところだ。 　特に緊縛は、縄を使って楽しむことが出来る、魅力的な遊戯のひとつなのだ。 　けれどここへ初めて来る大抵の客は、普通の状態ではない。 　オドオドしたり、落ち着きがなかったりと緊張が全身から見て取れる。 　そんなとき、千乃は空気になることを徹する。 　何も見てない、あなたのことを詮索しませんよと、全身の気配を消す努力をする。それでも初めて経験する行為を前に、客の心は震えていることが伝わってくる。 　 　──中には堂々としてる人もいるけどな……。 　問診票を書き終えた女性は、八束の案内もそぞろに奥の部屋へと足早に消えて行った。 　彼女もやはり緊張しているのだろう。 「千乃、ちょうどよかった。今から新規さん入るから、受付頼めるか」 「はい。麻縄ですか、用意しますよ」 　リュックを下ろすと、千乃は脱いだジャケットと一緒に椅子の上に置き、壁にかけてある制服代わりのエプロンを手にした。 「ああ、縛りな。セラピー希望だし、初診だから時間は一時間半かな。部屋は宵月でやるか──しまった、ネロリが切れてたかも。他のオイルでいくか……」 「大丈夫、俺買ってきましたから」 　千乃はリュックから紙袋を取り出し、中から小さな小瓶を誇らしげに見せた。 「気が利くな。さすが俺の弟子だ」 「ったく、自分で言いますか、それ。昨日、使い切ってたでしょ。だから大学の帰りに買って来てんです」 　腕まくりをしたあと、受付の棚に置いてあったアロマディフューザーのカバーを外すと、小瓶から数滴タンクに落として電源を入れた。 　鼻先を近づけ、軽く手で扇いで香りを確認する。 「うん、いい香り。俺、この匂い好きだなぁ。なんだか落ち着きます」 　オレンジのような爽やかさと花精油ならではの華やかさ。なのにどこか親しみがあって、明るく前向きな気持ちになれる。 「ネロリは天然の精神安定剤だからな。不安感や心配事なんかを忘れさせる手伝いをしてくれる。ストレスがたまって元気が出ないときには最適なアロマだ」 　腹痛も和らげてくれるんだぞと言いながら、八束が束ねていた髪を結び直している。 　千乃も師匠に倣うよう、長めに伸びた栗色の前髪をこめかみの横までかきあげ、ピンで止めると、髪の色と同じ瞳で「物知りですね」と、羨望の眼差しを向けた。 「俺の師匠の受け売りだ。それよりこれ買いに行ってて遅くなったのか？　連絡くれりゃ俺が買っといたのに」 「ですね、すいません」 　千乃は薄っすら滲んでいた額の汗を手の甲で拭うと、ふぅと感嘆を漏らした。 　暑さを逃すよう、シャツのボタンをひとつ外し、胸元に風を取り込むよう、パタパタと手で仰いだ。 　汗がひくと、エプロンを着けようとした千乃は、ふと視線を感じて八束の方を見た。 「な……んです？　俺、もしかして汗臭い？」 　色素の薄い頬を確かめるように触れると、そのまま首筋を辿った。けれど、そこは汗をかいていない。 　八束に目を向けると、彼は肩を竦めて、いやはや……と、苦悩に似た溜息を溢している。 「ちょ、ちょっと何ですか。人の顔見てため息ついて。言いたいことがあるなら言ってください」 　長い付き合いのせいからか、年上でもお構いなしに、千乃は言い募った。 「──あのな、艶っぽい目で吐息を吐くな。白い頬っぺたをピンクにして、アンバーっていうのか？　千乃の目の色。そんな可愛らしい顔見てると、本当は女じゃないのかって勘違いしそうになるわ。いくら男に興味がない、枯れたおっさんでも目の毒だぞ」 　これまでも幾度となく言われた言葉に、またかと呆れ顔になる。それを察したのか、八束が頭をガシガシと掻きむしりながら、気まずそうな顔をしている。 　言って後悔するなら、言わなければいいのに。 「もうそのセリフは聞き飽きました。目の色も髪も先祖返りって言うか、覚醒遺伝でこんな色してるんです。それに顔が赤いのは走ってきたからです。けど、八束さん、分かってて俺を揶揄ってるでしょ。その反省してる顔も演技ですよね」 「バレたか。へーへーそうでした、そーでした。でも次からは言ってくれよ、大学生のお前と違っておっさんは暇だからな。買い出しくらいやっとくし」 「はい。あ、でも……」 　麻縄とアロマを手にしながら、千乃は八束をジッと見上げた。 「でも、なんだ？」 「八束さんはおっさんじゃないですよ。四十路のバツイチなイケオジです」 　予約台帳をめくりながら、千乃は、仕返しです、と満面の笑顔で言ってやった。 「イケオジ──って、やっぱりおっさんってことだろーが」 「はい。八束さんは、元、凄腕救命医のかっこいいおじさまで──」 　言ってすぐ、しまった──と、千乃は口を手で覆った。 　放ってしまった言葉で、八束の眉毛がピクリと反応する。禁句を言ってしまったと反省しても、もう遅い。八束の顔は僅かに曇っている。 　どう声を掛ければいいか迷っていると、バインダーで頭を軽く叩かれた。 　視線の先には、もういつもの優しげな笑顔があった。 　千乃の手からディフューザーを奪うと、「バツイチも余計だ」と言い残すと、客が待つ部屋へと行ってしまった。 　 　失敗した……。 　小さいころの千乃を知っている、唯一優しい大人だから、つい気が緩んで余計なことを言ってしまった。 　俺って、バカだ。八束さんが過去の話をしたがらないことを、知っているくせに。 　予約台帳で自分の頭を叩くと、失敗を払拭するように、待合室の掃除を始めた。 　水で濡らした布巾を手に、千乃は高校生のとき、八束と偶然出会った日のことを思い出していた。 　あのころの自分は今と違い、笑おうと決めて笑う。この場面はちょっと怒って言ってみようかなどと、頭の中で考えながら会話をする人間だった。 　表情筋の使い方もイマイチわからず、他人から見れば愛想のないやつと思われていたかもしれない。　 　数年ぶり再会だったのに八束からすれば、感情の読めない子どもに見えていたと思う。 　それでも、バイトを探していると話したら、自分の店で働かないかと誘ってくれた。 　目の焦点をどこに置けばいいかわからない、そんな子どもだった千乃を知っている八束は放って置けなかったのかもしれない。 　──八束さんは優しいからな。ちょっとよそよそしかったけど……。 　子どもを助けるのは大人の義務だ──と言って、雇ってくれたけれど、八束にとって千乃は、不幸な患者に見えているのかもしれない。 　静か過ぎる店内に千乃のため息だけが聞こえると、寂しさを紛らわすように待合室のテレビをつけた。 　夕方のニュースを流しながら、白衣姿の精悍な八束を思い出すと、それに伴い忘れてはいけない過去が浮上してくる。 　身体中に刺青を刻み込まれたかのような、忘れ難い顔を思い出すと、胸がズキンっと痛くなる。痛みに堪えるよう、エプロンの裾を掴んでいると、流暢に話すアナウンサーの声が千乃の思考を遮った。 『横浜市の十九歳男性が行方不明になっている事件で、神奈川県警は昨日、神奈川区内の公園から一人の遺体を発見したと発表。県警捜査一課は遺体の状況などから殺人事件と断定。遺体が行方不明の男性とみて身元確認を急ぐとともに、司法解剖で詳しい死因を調べる方針です』 　横浜でまた人殺し……。確か二人目だったか。 　アナウンサーの淡々とした声音で、日常のように人が殺されることが告げられる、悲しい世の中。 　命を奪う行為を改めて考えると、いつも不可解に思ってしまう。 　地球上にいる『人間』が、同じ人間を殺す。 　母親のお腹から生まれ、生きていくことは誰もが平等に与えられること。時間とこの世に一つの顔、そして死んでゆくこともみんな同じだ。 　進む人生はそれぞれだけれど、生きてゆく一連の流れの中で、人を殺(あや)めたいと考えることや、自らの命を断とうとすることが異質に思えてならない。 　千乃はそれを経験していても、いまだに理解できないでいる。 　 　頭の中に記憶する言葉に負けそうになると、千乃は伏せてしまう顔を手で支えた。 　命なんて簡単に捨てられるものではない。けれど、それをやってのける人間もいる。 　事象に巻き込まれて翻弄されるうちに、生きていくことを諦めてしまう人もいる。 　過去を切り捨てたいと思っても、償いのために命を捨てる勇気もない、やつもいる……。 　この世から消えることが出来ない代償は、永遠に苦しみながら生かされ続けること。 　ずっと、命が消滅するまで。 　過去に囚われたまま呆けていると、初冬らしい風が足元を冷やしていく。 　僅かな隙間を使って店を震わせる冷たさは、心の底に沈めた悲しみを呼び起こすように聞こえる。 　悲しみは積み重なって深いところへ落ちてゆき、普段は沈殿しているだけ。 　けれどそれらは、ちょっとした振動で濁り、全身を泥濘で覆ってくる。 　重くて湿った心は、月日と共に手放すことを覚えてくれたけれど、根っこは残ったままだ。 　隙を見せれば、簡単に負かされてしまう。 　 　──でも、八束さんのおかげで、俺も少しはマシになれたかも……。 　何にも弱すぎた自分でも、少しくらいは成長したかもしれない。 　自分で自分を慰めていると、ドアベルの音が聞こえた。