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フェティシズム
「いらっしゃいま──」
客を迎えようと声をかけたが、目の前にいた人物は見知った顔の、客ではない、どちらかといえばあまり歓迎したくない職業の人間だった。
「やあ、こんばんは千乃君。八束さんは施術中?」
「こんばんは、伏見 さん。はい、奥で今。今日はどうかしたんですか。何か事件でも……」
言いかけて、さっきのニュースを思い出した。
「まあ……ね。でさ、ちょっと八束さんに聞きたいことあるんだけど、施術中なら無理かなぁ」
天パのふわふわした髪を整えながら、伏見がクリッとした丸い目を廊下の奥へと向けている。
スーツ姿に警察手帳を掲げても、彼の第一印象では100パーセント警察の人間だとは思われないだろう。
千乃より少し低いくらいで百七十センチはギリ、届かない高さに童顔だから私服になると千乃と同級生だと言っても通用しそうだ。
刑事部の捜査第一課の人間だと、彼が自己紹介したとしても、『マジで!』と、第一声が聞こえてきそうだ。
強行犯捜査の業務を担っているとは到底信じ難い、可愛らしさだ。
「聞きたいこと……ですか。あの、時間を空けてもらえませんか。あと一時間くらいはかかるかもしれないので」
「そっか。うーん、困ったな」
「そっか、急ぎなんですね。だったらちょっと八束さんに聞いてみますよ」
千乃の一言で、わかりやす過ぎるほど伏見の顔が華やいだ。
「急ぎってわけじゃないんだ、俺だけだったら全然出直すレベルの話。けど、今日は、ちょっと……」
言葉尻を濁す伏見に、千乃が首を傾げていると、新しい相棒がさ、と、遠慮がちだ。
「何か訳があるんですね?」
伏見の気持ちを汲み取るよう、千乃が言葉の道筋を作ってみる。
「…‥実はさ、今度一緒に組む相手が、警察本部から刑事部に移動になったキャリアの人で、ちょっと堅物っていうか、何とういうか──」
奥歯にものが挟まったような言い方をする伏見を察し、深く突っ込んで聞くことはせず、「そっか、野呂 さん先月に移動しましたもんね」と、伏見の心情を推測った。
「そ、そうなんだよ。野呂さんは古参でどっしり構えてくれてるけど、今度の相手は目線だけで指示してくるし。俺がとろいから悪いんだけど、眼力でずっと急きたててくるっつーか、見張ってるって言うか……」
伏見の態度に本当に困っているんだと思い、千乃はチラッと壁掛け時計に目をやった。
麻縄の施術が終わっていれば、あとはセラピーだけだ。それなら自分でも対応できる。
「八束さん呼んできますよ。多分、大丈夫だと思うから、ちょっと待っててください」
そう言って伏見を残すと、千乃は廊下の一番奥の部屋、宵月と書かれてある部屋まで行ってドアをノックした。
数分待っているとドアが開かれ、後ろ手に閉めながら八束が「どうした」と、静かに聞いてきた。
「すいません、八束さん。施術中だとは伝えたんですが、どうしても話があると伏見さんが……」
「伏見? ああ、あのちんちくりんの刑事か。けど珍しいな。仕事中だったら出直してくれるのに」
作務衣の袖を直しながら、八束が眉間にシワを刻んでいる。
もしかしてまだ途中だった? 時間を見誤ったと思い、「……俺、やっぱり断ってきます」と告げたと同時に八束の手がふわりと頭に乗った。
「いや、いい。リスクマネジメントとプランニングの説明は終わったし、基本的な結びもやったからな。あとはセラピーだけど、彼女が千乃に変わってもいいって言うなら、残りを頼めるか」
「もちろんです。すいません、上手くかわせなくて……」
凹んでいると、八束の大きな手で髪をくしゃくしゃに乱された。
「どうせ伏見さんに、新しい相方が厄介なんだとでも言われたんだろ」
八束の推察に目を丸くしてると、確認してくるよと言って、部屋へと戻って行った。
待っている間に受付の方を確認すると、待機しいる伏見がドア越しに外を見ている。
「相棒さん、まだみたいだな……」
店の入り口から受付、待合、そして三箇所設けてある施術室は、敢えて角度をつけて入り口からの直線的な視線が交わせる設計になっている。
基本、八束が施術し、千乃は受付をする。施術は勉強中で、担当するのはもっぱら受付かセラピーだけ。
他の店のやり方は知らないけれど、縷紅草では施術が終わると、リラックスしてもらうためにアロマを焚いた中で、ヘッドマッサージや簡単な体のほぐしを取り入れている。
あくまでも、この店のスタンスは、解放とリラックスなのだ。千乃はこの、癒しの部分を任せられている。ただ、雑用係から昇格したのは最近の話で、客と一対一だとまだ緊張は抜けない。
縷紅草には八束と千乃、あともう一人、來田 というベテラン社員がいる。
腕は八束ほどではないが、指名客はそこそこいて、去年新しく横浜駅近くに出した店と、ここ桜木町の一号店とを交代で勤務している。
今日、來田は二号店に出勤で、二人体制の今みたいなタイミングで誰かがくると、一旦時間をもらうことが多い。
──って言っても、お客以外は、自治会の人や八束さんの知り合いの飲み屋の人とかだもんな、店に来るのって……。
伏見と同じように新顔を気にしていると、ドアが開いた。
「千乃、変わって。彼女、お前でもいいってさ」
「あ、はい。すいません」
身を引き締めるように、こめかみのピンを髪に差し直し、頬をペチンと叩いてみる。
まだ三ヶ月ほどしかセラピーに携わっていない身としては、米一粒ほどの自信しかない。
「じゃ、行ってきます」
「ああ、頼んだぞ」
千乃がドアを閉めると、八束は伏見が待つ受付へと足を向けた。
てっきりもう一人の新顔がいると思っていたけれど、そこにはまだ子犬のような刑事が一人いるだけだった。
「お待たせしました、伏見さん」
「あ、八束さん。すいません、無理言って。でも、肝心の人がまだ来てなく──」
申し訳なさそうに言う伏見を遮るようにドアが開くと、ドアベルの音を纏いながら一人の男が入ってきた。
明らかに客ではないスーツ姿の男が、威嚇するかのよう仁王立ちすると、店内を物色するよう見渡している。
「藤永 さん、遅かったですね」
待ち人の到着に安堵したのか、伏見がパッと顔を明るくさせると、八束へ紹介するように男の腕を引き寄せている。
百八十センチの八束と同じ高さの目線が、嫌悪を含んでいるようにジッと見据えてくる。
微動だに動かず、何も言ってこないことに苛立ち、八束が歩み寄ろうとした。その動きとほぼ同時に、額にかかった前髪を掻き上げながら、スリーピースを決め込んだ男が距離を縮めてきた。
「神奈川県警捜査一課藤永真希人 です。横浜市で殺害された行方不明者の事件のことで少し聞きたい事があるんだが」
凛とした声で問われても、尋ねられた内容は眉を潜めさせるものだった。
答えないでいると、藤永が胸ポケットから警察手帳を取り出し、八束に突き付けてくる。
所作の一つひとつが秀麗な男は、額にかかる前髪が気になるのか、険しそうに髪を後頭部へと撫で付けた。
醸し出す堅苦しさを柔らかく見せる前髪に流れが生まれ、それが印象的な切れ長の一重瞼に甘さを演出している。
三十代前半の歳を思わせる風貌は、世の女性がイケメンと騒ぎそうな、正真正銘のいい男だった。
「ニュースになってるのでご存知ですよね、横浜市で立て続けに起こった事件ですよ」
「はあ、まあ。知ってますけど」
土地柄のせいか警察はよく見かけるし、度々事件めいたことが起きると、伏見と以前の相方だった野呂刑事も何度か店を訪ねに来たことはあった。
けれど、ここまで威圧的な態度をされる理由に覚えがない。
「ここの店は、いわゆる──」
「ええ。ご存じの通り、BDSMの店です。うちは緊縛プレイを性的嗜好に持つお客様に対応してます。って言っても、セラピーだったり、不感症で悩んでる方のお手伝いもしたりとか。まあ、簡単に説明するとそんな感じですかね。ね、伏見さん」
「ちょっと八束さん、俺にフらないで下さいよ。まるで常連みたいじゃないですか」
赤面する伏見をよそに、八束が悪戯気に笑いながらも、表情を固くしたままの藤永を目の端で見ていた。昔からの抜けない癖だ。
「嶺澤さん、ここへ来るお客は自分でも、その、安全にそういった行為が出来るよう、指導が行われてるんですよね」
「ええ、もちろん。他の店ではどうか分かりませんが、縷紅草では麻縄にしても、天然のジュートから作られたものを使用し、手入れも怠りませんよ。ちゃんと『なめし』処理しないと、パートナーに掻痒感を与えちゃいますからね」
「なめし?」
聞き慣れない用語が卑猥に聞こえたのか、藤永が食い気味に聞き返してくる。
八束は口角を緩ませながら説明を続けた。
「なめしとはオイルを含ませた湯で縄を煮ることですよ。そうするとふわりと柔らかな縄になるんです。だから縛られるお相手さんの皮膚を傷める心配がなくなるんですよ」
「へー、買ってきたものをすぐ使うんじゃないんですね」
八束の説明に伏見が丸い目を一層、丸くさせている。
興味津々な態度の伏見には触れず、八束は店内に視線を張り巡らしている藤永を見た。
「刑事さん、我々の仕事が事件と何か関係でも?」
八束が質問に質問で返すと、藤永が説明しろと言うように顎で合図を送っている。
「実はですね、行方不明の遺体の殺害方法が絞殺なんです……」
「ふーん。それがもしかして、絞頸 だった──とか?」
さらっと八束が言うと、「そうです! よくわかりましたね」と、クイズ番組で解答するようなテンションを見せてくる。
「刑事さんがここに来る理由なんて、そんな類のことくらいしかないでしょ」
どこか見透かしているように思える、藤永の厳しい視線を回避しながら、八束は会話を進めた。
「──まあ、そうですね。扼頸 されたあと、とどめを刺すように縄で絞め上げられてたんでね」
「それが麻縄を使っていたとか?」
「そうです」
藤永の態度と剣のある言葉が、自分たちを犯罪者扱いしているように感じて気分が悪くなる。
「察しは付きますけど」
退職した野呂刑事とは何度も話したことがあるけれど、不快な思いを味わったことは一度もない。しかし、藤永と言う刑事には、どこか冷たさや威圧的な空気を感じる。
「ここでは縄も販売してますよね、誰でも買えるように」
「ええ。それが?」
何を言いたいのか、悩まなくても理解できる。
相手は刑事だし、事件の捜査だから仕方ないとも思う。
だが、不快な質問を向けられたままなのは、性分に合わない。
八束は、敢えて怪訝な顔で太々しい態度をとった。
「ここに置いてあるものは、事件に使用されたものと同じジュート素材なので、確認したまでです」
「そうですか。でもこの業界は大抵同じ素材のもの使ってますよ。刑事さんのことですから他の店で聞いてご存じでしょうけど」
「おっしゃる通り。何件か行って来ましたし、同じ質問もしてます。皆さんあなたと同じ回答でしたよ」
「でしょうね」
後ろに束ねた髪の結び目を指で弄りながら、八束がわざとらしい溜息を漏らした。
麻縄なんてここじゃなくても、ホームセンターなどに行けば山程売ってると、舌打ちしたくなる。
「ここの客は常連が多いんですか」
「……まあ、そうですけど、それが何か」
|端《はな》から客を含め、自分たちを疑う口ぶりには腹が立つ。
警察はこんなもんだと頭では理解していても、苛立ちは増すばかりだ。
「いえ、参考までに尋ねただけで。最後にもう一つ。他の従業員の方は出勤してますか?」
「いますよ、私ともう一人。彼は二号店──横浜駅の店も掛け持ちしてるんで、今日はそっちの店に行ってます。あと、バイトが一人いますけど今は施術中です」
「なるほど、分かりました。またお伺いするかもしれませんので、そのときは他のスタッフの話しも聞かせてもらいますよ」
藤永のマウントを取る口調にイラつきを覚えながらも、八束は店を出ようとする背中に声をかけた。
「縷紅草 を訪れる人は、誰にも言えない悩みを抱えて生きている人が大半なんです。日常は、本当の自分を押し殺して生活している。そんな方たちの心を軽くするお手伝いをする、それが縷紅草 です。人を殺 めるなんて真逆のことなどするわけがない」
語尾を強めに吐き出すと、八束は藤永を凝視した。
異質だと言われる性的嗜好と殺人を結び付ける、刑事の気持ちは分からなくもない。
中には本気でヤバそうな客も過去にいたけれど、ちゃんと出禁にした。
この世界では経験の浅い八束でも、客の本質を見抜く力はあると自負している。
出来得る限りの選別はできているつもりだ。
ささやかなプライドが藤永を引き留め、つい、熱弁を振るってしまった。
「……まあ、俺にはそんな気持ち、分かりませんが」
「でしょうね。でも、刑事さん。人は何かのきっかけで、自分も知らなかった、もう一人の自分が目覚めてしまうことがあるんですよ。未知だったフェティッシュと出会い、惹かれる。興味がないと思っていた同性を好きになったり、言えないような癖 が芽生えたり。人は些細なきっかけで、簡単に均衡を崩してしまう生き物です」
まるで予言するかのよう言い放った言葉は、過去の自分に告げたようで、八束は思わず冷嘲した。
ほんの小さなきっかけで、人生を狂わせてしまうことがある。
それを嫌と言うほど、味わったことが過去にあった。
「均衡……か」
「ええ」
「……覚えときますよ。それじゃあまた会いましょう」
含みのあるセリフを残して藤永が出ていくと、八束は壁の向こうにいる千乃へと視線を向気ながら過去を振り返った。
瞼の中に住む幼い笑顔を踏みにじり、我欲を選んでしまった自分は一生、許されないだろう……。
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