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アユムとイヴ
ネロリの香りは落ち着く。
八束の受け売りではないが、精神安定剤のようで、身も心も癒される。
訪れる客の不安をかき消してくれる優秀な香りを堪能するよう、千乃は鼻の奥まで思いっきり息を吸い込んだ。
ひと仕事終えて受付へ戻ると、「お疲れさん」と、八束が労ってくれた。
「お疲れ様です。清掃も終わりましたよ」
事務仕事をする横顔を盗み見しながら、ペットボトルの水を一気に半分まで飲み干した。
施術前に不穏だった空気が消えているとことに安堵し、千乃はきゅっとペットボトルに蓋をした。
「彼女どうだった?」
「担当が変わって最初は緊張してましたけど、後半はリラックスしてくれてましたよ。来月も予約入りました」
「そうか。なら、よかったよ」
目はパソコンに向いているけれど、かけてくれる言葉は優しい。
八束のそんな仕草を見ていると、病棟で同じような姿をしていたことを思い出す。
彼の横顔があのころの自分にとって、とても心が凪いだ景色だったからだ。
「やれやれ、入力終わったぞ。事務仕事は終わりだ」
背伸びをする八束を横目に、千乃は自然と口元を綻ばせていた。
「集中してる横顔って、昔と同じですね」
呟いた言葉は他意のないものだった。けれど、それも言ってはいけないことだった。
案の定、八束の表情が固くなる。さっきも同じ失敗をしたというのに、家族がないも同然の千乃にとって、彼が頼れる数少ない大人だったからだ。
「すいません……。俺、月宮の部屋にお香炊いてきます。今日ってイヴさんたちの予約入ってましたよね」
「あ、いや千乃……」
取り繕うよう八束が呼ぶ声に気付かないフリをし、千乃は施術室へと向かった。
部屋に入り、香に火を灯す。
橙色の芯が揺らぐと、手うちわで風を起こした。
白く揺蕩う煙が空 へと立ち上がり、上品で優しい白檀の香りが部屋の四隅に広がっていく。
確かめるように深呼吸すると、このあと向かい入れる二人の密事 を思い浮かべた。
彼らの手伝いをすることで、敬虔な気持ちになる。
好きな人との間に生まれる絆は、彼らのような人たちから教えてもらった気がする。
「俺、また余計なことを言ってしまったな……」
ベッドのシーツのシワを伸ばしながら、自分を咎めていた。
病院勤務時代の話をすると、なぜだか八束は寡黙になってしまう。
千乃としては、一緒に思い出話をしたいところなのに、八束はそれを望んでいない。
なのに、懐かしいからって、つい……。
知らぬ間に八束を傷つけ、彼の地雷を踏んでしまった。それを何度もしてしまった。
温厚な八束が冷めた表情に移り変わる瞬間を、以前にも目にしたことがあった。その時も今と同じように、かける言葉を選べず、その場から逃げてしまった経験をしているというのに。
「病院で何かあったのかな。ここで働くのも似合ってるけど……普通に考えても医者を辞めるのは勿体ないんだよな」
独り言を呟く千乃の耳に、受付の方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
慌てて部屋を出ると、受付には楽しげに八束と雑談する二人の笑顔があり、千乃は駆け寄って頬を緩ませた。
「イヴさん、アユムさん。こんばんは」
営業用でも何でもなく、素直な笑顔が自然に溢れる。まるで数年ぶりに会う友人のように。
「わーい、ゆきちゃんだ。元気だった?」
聴 し色に染まる淡い唇で微笑むイヴは、女子顔負けの甘いミックスボイスで握手を求めて来る。これは彼女のお決まりの挨拶だった。
「元気ですよ。お二人ともお久しぶりです、お元気でしたか?」
「元気、元気。千乃君、もう大学三年だろ? 就活あるのにここでバイトしてても大丈夫かい?」
男らしく作り上げられた、低音の声でアユムに心配され「余裕です」と、ピースサインを掲げて見せた。
「え、ゆきちゃんもしかして、もう内定もらったの?」
「そうなんですよ、こいつ早々に内定ブン取って来ちゃってね。えっと、どこだっけ。ほら、あの出版社で、あー名前が出てこねえー」
悶絶しそうな表情で、いつもの八束に戻っていたことが確認でき、「英 出版社ですよ」と、千乃も表情筋を弛ませた。
「そうそう。美術や芸術とかの雑誌とか出してて、小説やコミックも手がけてる大手の出版社だよな」
スッキリした顔で話す八束に、心の中でこっそり安堵していた。
さっきの違和感を、アユムとイヴが払拭してくれた気がする。
「知ってる! 超有名な会社じゃない。さすが私のゆきちゃん」
「おいおい、何だよ今のは。聞き捨てならないな。千乃君は誰のものでもないし、お前は俺のものだろーが」
「やだ、アユム嫉妬? 可愛いぃ」
焦ると僅かに残っている女性が混ざる声で嫉妬するアユムと、頬を赤らめるイヴ。
来店すると一度は披露される二人の戯れに、いつも千乃の方が照れ臭くなってしまう。
「お二人さん、いちゃつくのはその辺で。もうレッスンの時間ですよ。今日も安心、安全にプレイで使える緊縛をご指導しますから」
「はーい、八束先生。じゃあね、ゆきちゃん。今度就職祝い持ってくるわね」
「あはは。ありがとうございます、お気持ちだけで十分ですよ。ごゆっくりお過ごしくださいね」
「うん。じゃ、また後で」
アユムの腕に手を絡ませ、部屋までの短い距離を歩く後ろ姿を見守りながら、千乃は二人の醸し出す優しい空気を堪能していた。
「千乃、受付頼むな」
「はいっ」
前を歩く二人より背の高い八束の背中が、まだ幼かった千乃の記憶を思い出させる。
頼りがいのある後ろ姿に、父や兄のような憧れを抱いていた。
誰にも繋がらなくなった命を救ってくれて、手を差し伸べてくれた人。
小さな千乃にとって唯一の優しい大人。それは今でも変わらない温かさだ。
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