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性的指向

 三人の背中が見えなくなると、眼鏡の奥で吊り上がっている眼光が千乃に向けられ、いきなり頭を叩かれた。 「痛い……。何で叩くんだよ」 「お前がくだらない嘘を信じるからだよ」  怒鳴った勢いで椅子に座る悠介がテーブルにあった水を呷ると、割れそうなくらいにコップをテーブルに叩き置いた。  その様子に、素材がプラスチックのコップでよかったなと、また怒鳴られそうなことを考えてしまった。 「よくわからないけど、飲み会に行かなくて済んだよ。ありがとう悠介」  さっきのやり取りに疑問はあったが、取り敢えず無駄なお金を使わなくて済んだことにホッとして礼を言った。 「お前な、よく知らない奴の話を鵜呑みにするな。ちゃんと考えろ。お人好しにもほどがある」  水分が足りなかったのか、悠介がウォーターサーバーから水を継ぎ足し、半分まで飲むと、今度はそっとテーブルへ置いた。どうやら怒りは少し治ったらしい。   「よくは知らない人……だけど、ゼミが一緒だし、俺を飲み会に連れて行かないと、彼女にフラれるって言うからさ。俺が行けば済む話なら、行けばいいかなって──ごめん、ごめん。そう怒るなよ」  話の途中で慌てて反省の言葉に切り替えたのは、友人の怒っていた顔が呆れ顔に変わったからだ。 「千乃ってさあんまり人を信じてないだろ。そのくせ、困ってる奴には変に優しかったり同情するし。にもかかわらず、相手には懐まで踏み込ませな。千乃が信用してる人間って、絶対片手で足りるだろ」  そこに俺も入っていればいいんだけどなと、悠介がボソッと言うから、「当たり前だ」と叫んだやった。    悠介の言うことは的を得ている。  今の自分は、過去に経験したことが作り上げている、脆くて他人の顔色を伺う人間だからだ。  薄い紙を何枚も重ねて完成させても、一冊の立派な本にはならない。  ページをめくると、幸せで楽しい物語はなく、代わりに寂しくて心悲(うらがな)しい出来事しか書かれていない。薄っぺらい、フリーペーパーのような人生だからだ。    叫んだ後に口籠ったもんだから、悠介が戸惑う空気を漂わせている。  愛嬌のある優しい男だが、相手の心へ踏み込む尺度は心得ている。そんな悠介は千乃にとって、大学での貴重な友人だった。 「助けてくれてサンキュウな。悠介がきてくれてよかった」  反省の言葉を述べながら、上目遣いで目の前の友人をそっと見た。 「あのさ千乃。さっきの話の続きだけど……」  言いにくそうに切り出す悠介に、声に出さない相槌をして背筋を伸ばした。 「ゼミの四年がお前を気に入ってるって言っただろ。その人な、お前が縷紅草でバイトしてるのを知ってるっぽかったんだ」  ここまで悠介の話を聞いても、ピンと来なかった。  特殊な店ではあるが、千乃は何も如何わしいことも法に触れることもしていない。知られても咎められることは、一切ない。 「バイトのことを知ってるのと、その人が俺を参加するよう言ってくる理由は、交わらないと思うんだけど」 「違う違う。そうじゃない。俺の予想だけど、そこで働いてるからその……千乃自身も軽いノリでエロいことができるって思ってるんじゃないか」 「はぁ? なんだよそれ」 「俺は千乃に話を聞いてるから知ってるけど、何も知らない奴があんな場所で働いているって聞くと、そいつのことを、性的なことに関してはハードルが低いって思うんじゃないのかな」  悠介の言っていることは、何となくわかる。BDSMというものが、勝手に一人歩きしているように感じるのも。  きっと世間一般の考えでは縷紅草のような店は、サディストやマゾヒストが集まり、欲望を吐き出すための場所で、鞭だの蝋燭だのを使って性的欲求を満たす、ただそれだけの隠秘な場所だと思っているのだろう。 「それにお前の容姿ってば、見た目は純情そうでかわいい、アイドルちっくな男子だろ。今時は男も気をつけないと襲われる時代だ、四年生のことやバイトのことも含め、気を引き締めてろってことだ」  紙コップを口に咥え、腕を組んで椅子にふんぞり帰っている。何が悠介にそんな態度をさせているのかわからないが、千乃は彼のことを眞秀と同じように大切に思っている。  信頼のおける友人が心配してくれるのは有り難いし、何より過去の千乃が一番そのことを理解している。 「……ありがとう、気をつけるよ」 「俺が心配しても、バイト先に様子見に行く訳にもいかなからさ。帰りも遅いみたいだし、マジで危機感を持たないとだぞ、千乃」  不意に真顔で悠介が吐いた言葉。彼は一般論を口にしただけだろうけれど、千乃にとっては別の意味に聞こえ、「だな」と短い返事をしてその場を濁した。 「で、この前高校のダチと行ってきた絵画展どうだった?」  注文した二人分の珈琲をテーブルに置きながら、悠介が思い出したかのように尋ねてきた。 「ああ、アレよかったよ。あの画家さんが絵画展やってくれたらいいのにってずっと思ってたからさ。教えてくれてサンキュな」 「そっか、そりゃよかったよ。たまたま爺ちゃんが、茶飲み友達からフライヤー貰ってたからさ」  茶飲み友達のところで悠介が、ズズっと珈琲を啜ったのが面白すぎた。  お前こそ、茶飲み爺さんみたいぞと、言いたくなる。   「その友達って医者になるんだろ? 医学部なんて俺に取っちゃ最果てにある夢だわ」 「それは俺もだよ。あいつは高校の時から頭も良くて、運動神経もいい。おまけに性格まで申し分ないからな」 「それでイケメンなら最早それは罪だ。俺達一般人からしたらさ」  愚痴めいた悠介の言葉に「それがさ」と言いながら、千乃は大きな溜息を腹の底から吐き出し、悠介の目の前にスマホを突き付けた。 「な、なんだよこのモデル級の顔って──これか、お前の最強の友は! かーっ、不公平かよ。神のご慈悲は俺にないのかっ」  両手をワナワナとさせ、悠介が天を仰いで見えない空の住人に訴えかけている。  悠介が嘆くのもわかる。写真の眞秀は、今売り出し中の俳優です、と言っても通用しそうなほど秀麗で、その画像はまるで宣材写真のようだった。 「だろ? 高校ん時に告られた人数、両手じゃ足りなかったし」 「マジか! 弱点ないのかよ」 「弱点……それがあるんだなー」 「へー。それは興味あるな」  悠介のしたり顔に応えるよう、千乃は耳打ちするよう顔を近付けた。 「……あいつはな、超鈍感でど天然な男なんだ」 「鈍感──」  鈍感を弱点だと言い、取り繕うような笑顔で悠介を見た。聡い悠介のアンテナが何かを拾ったのか、不意にバツの悪そうな顔を浮かべて千乃を見てくる。 「──お前も苦労するな。そんな男に片想いしてたんだろ?」 「昔はな。今は、もう平気だ。あいつは親友だからな」  高校の時から親友に片思いをしていたことを、悠介には知られていた。だからこその労いの言葉だった。  ゲイと言うことがずっと負い目で、中学生の頃から息苦しい日々を送っていた。  自分が異質だと気付いた中学の頃から、必死で隠してきた感情だった。  高校で眞秀に出会い、最初は容姿に目を奪われ、友人として隣にいる立場になった頃には、無邪気で屈託のない性格に心を奪われていた。  高二の最後に、溢れる思いに決着を付けようと決心し、眞秀を呼び出して一世一代の告白をした。なのに上手く伝わらず、千乃は淡い恋心を封印する覚悟をし、親友と言うポジションを真っ当すると決めたのだ。  別々の大学へ進み、いつも隣にいた親友がいない寂しさから写真を眺めていたのを悠介に目撃された。  男が男の写真を眺める、普通の人間なら気持ち悪いと罵られそうなものを、この男は冷やかすわけでも、蔑むわけでもなく、重大な告白を昨夜の食事内容を聞くみたいにさらりと受け流してくれたのだ。  人付き合いが苦手で、おまけにゲイだという後ろめたさが二の足を踏ませてしまう。そんな千乃の弱さを吹き飛ばすような清々しさと、心の広さを持つ悠介との出会いは宝物だった。 「それより教授が言ってたゼミの研修旅行どうする? 毎年恒例の三学年だけの行事だし参加するか?」 「旅行? 飲み会すら行かない俺が旅行?」 「だな。千乃君は欠席、わかってます。ちょっと聞いただけだし。幡仲(はたなか)教授も行くから、もしかしたらって思ったんだよ」 「あ、そっか。教授も行くんだ。うーん、それは迷いどころだな」  必要以外に他人との接触を避けるのは、ゲイだと言うことを隠したいのと、もうひとつ別の理由もある。しかし、尊敬する国文学の教授、幡仲が参加するのは悩ましい。 「だろ? 教授も行くって珍しいから千乃も──」 「いや……、でもやっぱやめとくよ」  言下にこたわり、千乃は残っていた珈琲をを一気に飲み干した。 「返事早っ! お前もうちょっと考えてもさあ」 「いや、ちょっとは迷ったよ。でも他のメンバーと教授が楽しげに話す輪の中に入る高度なこと、俺には無理かなって……」  眞秀や悠介と一対一なら平気でも、大勢の輪の中に飛び込める勇気はない。そんな自分が凄く嫌だった。けれど脳が勝手に、お前はマイノリティーなんだと指摘してくる。  ひた隠ししていることを知られ、距離を置かれるくらいなら、初めから関わらない方が楽だからだとも。 「まあ、俺もカテキョのバイト入るかもしれないしさ」 「ああ、あのかわいい中学生だろ? 来年は高校受験だもんな」 「そうそう──って、そうだ。俺、幡仲教授んとこに教育実習の相談に行かないと。お前も来る?」  慌てて身支度をする悠介に誘われ、久しぶりに幡仲のとの会話を楽しみたいと思った千乃は、考えるより先に「行く」と、即決していた。それくらい幡仲に対し、敬愛する気持ちは絶大だったのだ。  千乃が幡仲と面識を持ったのは、大学に入ってからではなかった。  入学したての頃、持て余した熱を発散しようと、千乃は軽い気持ちで一夜を共にしてくれる相手を求め、ネットで探したバーに行ったことがある。  不慣れで心許なかった態度がタチの悪い男達の目に留まり、彼らに公園へと連れて行かれ襲われそうになった。その時、脳裏によぎった過去の悍ましい記憶が、千乃の体を動けなくさせ、男達に押さえつけられたところを、偶然出くわした幡仲に助けられたのだ。  千乃が彼を慕う理由は、ただ単純に助けてもらったからと言う訳ではなく、大学で偶然の再会をした時、彼は何もなかったように講師として接してくれたからだ。  襲われていたことも、ゲイだと言うことも彼は一切触れてこなかった。  性的指向が男にしか向かないと知っても、他の人間と変わらず『普通』に接してくれる幡仲の気持ちが心底嬉しかった。  いつもは講義で顔を合わすだけで、ゼミにも滅多に姿を現さない彼との会話は貴重だ。  大人が与えてくれる、愛情が乏しい千乃にとって、安堵と優しさを無条件に差し出してくれる相手だった。

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