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家族

 炭酸水を片手に、千乃は濡れた髪を拭きながらリビングの床にペタンと腰を下ろした。  仁杉(にすぎ)の家を出てから、この古いワンルームへと移り住み、まる三年が過ぎようとしている。  箱みたいな狭い部屋も、千乃にとっては快適な城だった。  誰の視線もなく、干渉もない。  話し相手のいない食卓は昔も今も同じだけれど、心はあのころとは比べ物にならないほど軽くなった。  ペットボトルの蓋を開けようとしたとき、壁にかけたカレンダーが目に留まる。  千乃は「そうだ」と、腰を上げて台所へと向かった。  一人暮らしに相応しい、小さな冷蔵庫を開けると、中からコンビニの袋を出した。  部屋の片隅に置いてある三段ボックスの前に立つと、袋から取り出した紙パックのリンゴジュースとプリンを棚の一番上に置いた。 「葉月(はづき)、誕生日おめでとう。今日でお前も十八だな」  千乃は満面の笑顔で母親の腕の中にいる、幼い少年の写真に声をかけた。 「十八にもなってプリンはないだろって、きっと天国で笑ってるかもな。でもさ、お前の大好物は俺の中でこの二つで止まってるんだ、だから勘弁してくれよな」  写真を手にして見つめていると、自分を呼ぶ、可愛い声が鼓膜の中でよみがえる。  今まで数え切れないほど、この写真と会話してきた。  大学やバイトのたわいもないことや、日常の出来事。時々、愚痴をこぼしたり寂しさを埋めたりと、この写真と共にこれまで生きてきた。  ひとりが寂しいわけではない。  母と弟がいないから寂しくて、家族ごっこをしている。ただ、それだけだった。  写真を置いて花瓶を手にすると、台所で水を入れ替えた。  ようやく花を開かせようとするフリージアに鼻を近づけたあと、そっと挿し直した。  一つずつ段階的に咲いていく、それが健気でいじらしいから好きだと言っていた母。  飾るとほのかに香り、一本でも華やぐことができるのは羨ましいとも。  そのときは意味がわからなかったけれど、今なら何となく……わかる。  写真を見つめながらベッドに腰かけ、千乃はペットボトルに手を伸ばした。   半分ほど飲むとベッドの上に転がり、静かに目を閉じた。  一週間分の疲労を布団に託すと、思い出したくない記憶がじわりと襲ってくる。  小さな弟の笑顔は苦しみで歪み、紅葉のような手が助けをもとめるよう伸ばしてきても、その手を掴むことが出来ない。  救えなかったことを悔やんでいると、自然と指は頸動脈を掴んでいた。  肌に残る痕はもうとっくにない。だが、母の指の感触だけは今でも覚えている──  真っ暗な夜。家から遠く離れた川辺。そこで母は葉月の首を絞めた。  次は僕の番。自然とそう思った。思った瞬間、母の冷えた指が千乃の喉元に巻き付いた。  震えながらゆっくりとそこに力が込められ、意識がなくなった。  眠っていても、母の腕の中にいることはわかった。そばには葉月の甘い匂い。  ゆらゆらと揺れて心地よかったのに、冷たい水の中に沈んだ瞬間、微睡から目を覚ました。  水を含んだ体はどんどん沈み、息が苦しくてもがきながら、葉月の手を掴もうとした。  けれど、そのあとのことは覚えていない。   目覚めると、消毒薬の匂いで病院にいることがわかった。  ベッドから起き上がろうとしても、体が重くて体を動かすことができなかった。  気怠い頭で母と弟を探した。  そばにいた看護師に、『お母さんはどこ? 葉月は?』と確かに言ったのに、それは声にならなかった。  気配に気付いた千乃は、隣のベッドを見た。  そこには蒼白な肌をした母と弟が目を閉じていた。  点滴に繋がれている腕を伸ばして、母に触れようとしたけれど、届かなかった。  その既視感に涙が溢れた。  川の底に沈んでいく弟の小さな手を掴もうとしても、出来なかった自分を思い出した。  母と弟を失った悲しみより、自分だけ置いて行かれた事実に涙が止まらなかった。  胸が張り裂けそうで、言葉にならない声を叫んだ。  ──この時の悲しみは今でも忘れない……。  写真を手にしたまま、回顧に浸っていると、容赦なく雫が溢れてくる。  一度涙を流すと、それは堰を切ったように 滔々(とうとう)と溢れしてきた。 「ああ、また……もう泣く。油断するとすぐこれだ」  タオルで雫を払うと、千乃はベッドから起き上がって、涙を紛らわすように炭酸水を飲み干した。 「さあ、気を入れ直して課題でも仕上げるかっ」  キーボードに触れた途端、不意に藤永のことが脳裏に浮かんだ。  なぜ、このタイミングで思い出したのか自分でもわからない。  もしかしたら、微笑んでくれたことが嬉しかったからかもしれない。  高校の卒業を前に藤永とは疎遠になった。  あのころと変わらず、いや、一段とかっこよくなって、眩しさに目が眩みそうになった。  そんなことを思うことさえも、藤永からすれば嫌悪を抱くかもしれないと言うのに。  千乃はキーボードの上に両手を添えたまま、虚無感しかなかった日々を思い出していた。  大好きな母と弟を失くしたあと、連れてこられたのは広大な庭のある大きな家だった──  県知事を代々と継続する、由緒正しい家柄の人だから態度に気をつけるように。  病院に迎えに来てくれた人が教えてくれたけれど、子どもの千乃にわかるわけがない。  玄関で待っていると、部屋の奥からスーツの男と、着物姿の女が現れた。  男は、自分が二杉家の主人だと告げてきたけれど、女の方は黙ったままだった。   三和土(たたき)に立ったままでいると、二杉の口から耳を疑う言葉が放たれた。  『お前は私の息子だ』と。  身寄りのなくなった千乃を、仁杉家で引き取ることになった。  簡単に説明を受けたけれど、理解できる内容ではなかった。  何気なしに女の方を見ると、汚いものでも見るような目つきでこちらを見ている。  突然の父親の出現に驚く間もなく、仁杉が千乃を部屋に上げようとした。だが、女がそれを許さず、厳しく阻止してきた。  男の制止を振り払う女に手首を掴まれ、千乃は強引に玄関の外へと連れ出された。  広い庭をどんどん奥へと進むと竹藪が見え、その横には古びた物置小屋のような建物が姿を現した。  女が着物の袂で口を覆ってからドアを開けると、突如流れ込んできた空気に、小屋の中で沈殿していた埃が一気に空を舞った。  たまらず咳き込んでいる千乃の背中を、女がドンっと押した。  千乃はたたらを踏みながら中へと入る形になる。  目にした部屋の中は酷かった。  床は所々腐って穴が開いていて、壁も崩れて脆くなっている。  天井は雨漏りの跡を思わせるシミがいくつもあった。  窓硝子が割れ、ガムテープで補修はされていたけれど、粘着力がなく、途中まで剥がれて外から吹き込む風の経路になっていた。 『お前は今日からここで住むのよ』  口を手で覆っているから、女の声はくぐもって聞こえた。  女が父の妻だと知ったこの日を境に、千乃の孤独で辛い日が始まった。  二杉の家に来て半年ほど経った、暑い夏の日。  鉄格子がないだけの獄舎のような場所へ義母は突然現れた。  仄暗い離れには、扇風機の回転する音だけが響いている。  蒸し暑い空間で外に出ることも許されず、わずかな風と竹が作ってくれる日陰だけが暑さを凌いでくれていた。  学校へ行くこと以外、千乃はこの小屋で過ごすことを決められていた。  友達も作るな。担任に何を聞かれても何も答えるな。勉強だけしていればいいと、約束をさせられた。  一度、友達だと言って同級生が母屋の方に来たときは、約束を破ったと言われ、容赦なく義母に 折檻(せっかん)された。  そんな厳しい義母が突然現れた。  また打たれると思っていた千乃の耳に、聞いたことのない優しい声が注がれる。  おやつよと、座卓に置いてくれたかき氷に千乃は目を疑った。  湿気と暑さで弱った子ども心をくすぐる、いちごのシロップのかかった氷菓。  待てをされた犬のように、千乃はキラキラと輝く氷をジッと見つめていた。  義母の合図で千乃は差し出された器を手に取り、溶けだす綿雪の上を輝く赤い斜面からひと匙掬って口に入れた。  夏の幸せを感じる、甘さと冷たさが口の中に広がった瞬間、それは姿を変え、鉄の味へと豹変した。  唇にはチリリとした痛みが走り、抗えないままそれは喉へと到達してこようとする。  飲み込んではいけない——。咄嗟に頭の中で思っても、見下ろされる視線に恐怖を感じ、千乃は飲み込む選択しかできなかった。  蔑むように見下ろされ「泥棒」と、彼女に囁かれた言葉と一緒に、痛みを堪えながら千乃は匙を往復させた。  そよいでいた風は止み、肌はじっとりと汗ばんでいく。  外では残された命を削って叫ぶ蝉達の声だけが聞こえ、それが千乃の恐怖心を更に煽ってきた。  口の中で溶けない氷を必死で噛み締め、唇の端から血が滲むのを義母がずっと見ていた。  スプーンを持つ手を止めると義母が睨む、食べろと言うように。  ゆっくり氷を口に運ぶと、溶けずに舌に残る異物。  飲み込めないまま口腔内に留まらせていると、義母に何度も叩かれた。  飲み込めないのならずっと口に含んでろと言いながら、首を……絞められた。  恐怖と痛みで意識は遠のき、蝉の声を聞きながらその場に倒れた。  目が覚めたときは病院だったけれども、無理やり退院させられ、また小屋に閉じ込められた。   嗜虐心(しぎゃくしん)溢れる彼女からの執拗な 甚振(いたぶ)りがまた始まり、その都度、『お前の母親のせいだ、お前たちが私の幸せを奪った』と、なじられた。  義母の苦しみは自分と母のせい……。千乃はそう思うようになった。  自分がいなくなれば、彼女も苦しまずに済むんじゃないかと思うようになった。  このとき、千乃の心は罪悪感で自己攻撃をしている状態に陥った。  義母が子どもを産めない体と知ると、それをも自分のせいだと思い込んだ。  父が一度も自分を訪れてくれないのも、妾の子どもで恥ずかしいからなんだと責めた。  高校生になるころには、義母からの異常な行為は減った。  けれど小屋での生活は続き、カビの臭いとしっけた空気は、千乃の言葉と笑顔を奪っていった。  そんな千乃を救ったのは、眞秀の存在だった。  陰湿な部屋で過ごしても、何とか正常な気持ちを保てていたのは眞秀がいたからだ。  眞秀といるだけで幸せだと思い、高校を卒業してこの家を出ることを決意した。  学費だけは父が支払ってくれていたのだろう、きっと通常よりも多い金額で。  お陰で千乃は受験することに希望を持てた。  妻からの仕打ちさえ耐えていれば、千乃は幸せだった。  邪な気持ちが生まれ落ちたのを、あの人に知られるまでは──  パソコンを開いてから、いつの間にか日付が変わろうとしていた。  思い出したくないのに、一度過去に囚われると忌まわしい感情に引きずられてしまう。  スクリーンセーバーになった液晶に映る憂いた目に気づくと、千乃は仕切り直すようエンターキーをポンっと弾いた。 「しっかりしろ……」  悪夢と対峙していると、スマホからメッセージを告げる音が聞こえた。  画面を確認すると、登録された名前が千乃に喜びを運んでくれた。 「眞秀……お前、ほんとタイミングいいな」  表情筋を緩ませながらメッセージを開くと、次の休みはどこへ行こうかといった、嬉しい内容だった。  眞秀といると忘れられる。  首に残る体温と忌まわしい痛みや、孤独で寂しかった日々も。あの人の……ことも。  千乃は再び頸動脈に手をやった。  指先に力を入れ、もう片方の手をその上から添えてグッと押してみる。  徐々に感じる痛みの奥にあるのは、冷たい水の中を沈みながら見た景色。  徐々に麻痺していく先には、失った家族が存在するような気がする。  そう思うと、千乃の指は力が増していく。  淋しくなると、幾度となく繰り返して来たこの行為。  自慰にも似たことをしてしまうのは、母や弟の死を忘れないようにするため。  千乃を縛り付ける、無慈悲な磔刑なのだと思っている。  指の力を抜くと、軽く咳き込んだ。 「……俺も葉月を守るためだったら、あの人と同じことしたかもな」  呟いた言葉は兄らしいけれど、身体は思い出すだけでまだ震えてしまう。   その原因は十分過ぎるほどわかっていた。   孤独の行く末に死を選ぶ方が、楽かもしれないと、何度も考えた。  けれどそこを踏み外さないでこれたのは、眞秀が親友としてそばにいてくれたからだ。  その思いに報えるよう、千乃の淡い恋心は日陰の残雪が溶けるよう、自然と消滅してくれた。  ただだけは、まだ千乃を許さないだろう。  今でも忘れられない、優しく向けられた眼差しが憎悪に変わった日のことを。  千乃は唇を固く結ぶと、戒めるよう瞳を閉じた。  自分が生まれてしまったことで悪鬼となった人たち。  生き残ってしまったことで、苦しめてしまった大好きな人たち。  自分さえ存在しなければよかったんだと、そう思わずにはいられなかった。

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