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容疑者ーアユムー
蛍光灯が明滅する廊下を、靴音を響かせながら藤永と伏見は取調室へと向かった。
透視鏡越しに中を覗くと、古参の刑事達が、任意同行した男の事情聴取を始めるところだった。
強面の男たちを前に、項垂れたまま口を開こうとしない男の様子を見て、伏見が苦い溜息を吐いている。
「縷紅草のお客だった被害者の交際相手ですよね彼──って言うか彼女? あれ、こういう場合どう言えばいいんだ」
「普通に男でいいだろ、この場合は」
「けど、本名は苫田理子 でしょ? 害者はうーんと、こっちはもと男で女? になった室理人 。あ、どっちも『理』って字が入ってますね」
「人ってのは、共通のモノを持つと、それだけで簡単に心を許すのかもな。それがマイノリティな人間だと尚更かもしれない」
アユム──苫田を見ながら首を捻る伏見を一瞥し、藤永は刑事の威嚇に動揺を見せない、沈毅 な横顔をガラス越しに眺めていた。
額から鼻筋のラインをそのまま顎まで滑らせる線の細さと、ふさふさとした長い睫毛。それらが過去に女だった名残のように思える。
瞬きを忘れた目は虚で、その横顔は刑事のがなり声など聞こえてない、どこか別の世界にいるように見えた。
人はいくら善良な人間でも、殺人性や破壊性、それ以外にもあらゆる心性を心の奥底に持っているものだ。
それを無意識に抑えてくれる『蓋』が機能せず、何かのきっかけで善悪の見境がつかない程の感情が生まれてしまうのだ。
その結果、制御出来なくなると蓋は開放され、優しく善良な人間も簡単に鬼になる。
彼にも、自分にも、きっかけさえあれば誰でも……。
「まさか、殺人現場のホテルで働いてたとは、偶然なんでしょうか。彼は本当にイヴ──室さんを殺害したのかな……」
苫田の姿からは殺人を犯す凶暴性が見えず、にわかに信じ難いと思っているのか、伏見が独り言のようにポツリと呟いている。
「どうですか、やつは何か喋りましたか」
詰問を中断した古参の刑事──福寿 が、げんなりした表情で部屋から出てくると藤永は声をかけた。
「いやー、何にも喋らんわ。いくら恫喝しても、うんともすんとも言わねー。相当肝っ玉が据わってるな。根性いいぞあいつ」
「凶器の麻縄から、苫田の指紋は出てきたんですよね?」
「ああ。害者の指紋もな。抵抗したときに縄を掴んだんだろう」
「でも苫田は殺された室と一緒に客として、縷紅草へ通ってたんですよ。それにそういった性癖なら、その縄はその行為に使用したものなんじゃ──」
「だから指紋が付いててもおかしくないってか? じゃあ、逆にその付いててもおかしくないってのを、利用してたらどうする」
手入れしていない庭のような頭を撫でながら、無表情の苫田を眺める福寿の視線を追いかけた。
透視鏡越しに、藤永も苫田に目を向ける。
來田に彼女を奪われ、逆上して好きな相手に手をかけた。
単純に考えると、その理由が相応しい。だが、本当に彼は殺したのだろうか。
「でもアリバイはあったんですよね。犯行のあった日、苫田は風邪をひいて夜間診療を受診してたってウラは取りましたよ」
「まあな。夜間救急の病院に確認したら、ちゃんと受診はしてた。夜勤中に具合が悪くなって、途中で抜けて診察に行ってる。だが、患者の多かったあの日、何時に来て帰ったのか、誰も覚えちゃいねぇ」
「帰りに犯行現場に行った可能性もある? とか」
ガシガシと頭を掻く福寿に伏見が意見すると、
「あるかもしれんな。苫田は犯行時刻の前後ホテルに不在だったんだ。診察を終えホテルに戻って勤務についた──と、供述にはある。だが、殺してからホテルに戻ったとも考えられるな」
「夜間救急の受診歴はあっても、アリバイは曖昧だと……」
「そう。犯行現場と病院の場所は近いからな。診察の帰りに犯行に及んだって、可能性は消せない。具合が悪かったってのも怪しいもんだ」
「職場のロッカーに麻縄もあったんですもんね」
「だな。ま、老害は引っ込むとするか。後はお前に任せるよ」
自ら老害と言う古参が、藤永の肩をポンと叩いてくる。いつものパターンの合図を受け取るよう、藤永は頷いて見せた。
粗野で乱暴な相手には滅法強いが、苫田のような大人しい被疑者には、調子を狂わされ手こずってしまうのだろう。
結果、今みたいなタイミングで、藤永や伏見にお鉢が回ってくることが多々ある。
取調室へ入ると、もう一人の刑事が疲弊した様子で藤永に席を譲ってくる。
だるそうに壁に寄りかかり、まるで自分の出番は終わったとアピールするみたいにため息を吐いていた。
俯いたままの苫田を一瞥し、藤永はパイプ椅子にゆっくり腰を下ろした。
対面する人間に興味がないのか、苫田の視線はピクリともせず机へと向いたままだ。
「遺体確認のとき以来だな。覚えてるか」
声をかけてみたが、頭頂部を見せてくるだけで頭は動かない。
藤永は肩をすくめて背後の刑事を見ると、同じように肩をすくめて苦笑いを返してきた。
「君の職場で事件があったとき、俺らの方を意識して見てたよね。やっぱり君が連続犯なのか? あの子を殺したのは、來田に寝取られたからか」
藤永のダイレクトな言葉に、苫田の体が反応を見せた。だがそれは一瞬で、相変わらず視線は俯いたままだった。
「君達は縷紅草で緊縛を習得してたよな。あの店はカップルでそういった趣味の人たちに、人気あるみたいだし。緊縛プレイで興奮して、つい、その縄を使って彼女を殺したのか?」
わざと挑発するような言い方のまま、藤永は一人で会話を進めた。
「君の働くホテルで起こった殺人事件をきっかけに、彼女に手をかけたか。それとも、ウリ専の子を先に殺したのか? 緊縛を別の子にも試したくなったんだろ。それ以前の犯行も──」
「──してない」
「凶器も見つかったことだし。このまま君の身柄を拘束して取調べが連日始まる。家宅捜索でもすりゃ何か出るか。あとは実家だな、親にも連絡──」
「俺はヤってないっ!」
怒りと共に言葉を吐き出し、真っ直ぐ睨んでくる苫田の眼が藤永を射抜いてくる。
膝の上にあったこぶしは、激しく机に叩きつけられ、体はパイプ椅子から勢いよく立ち上がっていた。
「やっと顔を上げたか。まあ座れ」
刑事に抑えられた体は椅子へと戻されながらも、苫田の目はずっと藤永を捉えている。
無表情だった顔に感情が滲み出ると、口元は噛みちぎりそうなくらいに、唇を噛み締めていた。
「じゃあ、知ってること話してくれるか」
その言葉が苫田のリミッターを外す役目を担い、噛み締めていた上下の口はゆっくりと隙間を生み出そうとしていた。
「君はヤってないんだろ」
「ヤってない! ヤってないけど……」
「けど?」
「イヴを殺したい……一瞬そう思った、それは事実です」
「ふーん、それは來田が原因か」
「きっかけはそうです。でもそれが、もう間違ってたんです」
「間違ってた? 何が間違いなんだ」
感情を徐々に引き出されていく苫田に、藤永は静かに尋ねた。
「イヴは……自分の性の対象が男だと自覚した上で、俺と付き合ってた、なのに、もと女の男を選んだことは間違いだったと言って、別れを切り出されたんです」
「それでカッとなったのか」
「違う! 確かにそのたきは腹が立った、今更何言いやがるって。けど、冷静になって思った。自分も人のことは言えないって」
他の人とは違う性質を持って生まれたことに、どれほど苦しみ、葛藤してきたか藤永には想像するくるいしか出来ない。
傷つく日々に心の安定を求め、そんな中で同じ悩みを持つ相手と巡り逢えることは、彼らにとって奇跡に等しいのかもしれない。
だからこそ、同じように悩むイヴを理解しつつも、苫田は彼女を手放したあとに、また孤独になってしまうことを想像したとも思える。
「イヴさんはそんな悩みを來田に相談していた。それがきっかけで、あの二人は深い関係になったと聞いている」
藤永は以前、取調べで聞いた來田の話しを伝えた。
「そうだとは思ってました。よくあるきっかけですよね、相談しているうちに恋愛に発展するのなんて……」
「それでも、二人で縷紅草に通ってたのは何故だ。気持ちが離れている人間がすることじゃないだろう」
「イヴには俺しかいない。あいつの気持ちを理解出来る人間は俺だけ、そう思っていた。縷紅草で、あの別世界に二人でいれば、また元に戻れるかもしれない。それで半ば強引に通ってたんです」
溜め込んでいた感情を一つ一つ吐き出しながら、苫田が突き動かされるよう語っている。
喉の奥から必死で助けを乞うように。
「成る程。で、思う通りにならず、仕事を抜け出して殺したのか」
「だから殺してないっ! 俺は……俺は本当にあいつを諦める覚悟をしてたんだ……」
荒ぶる苫田の怒りを受け止めるよう、机が揺れ動く。握りしめられたこぶしを小刻みに震わせ、苫田の顔は今にも泣きそうに変わっていた。
変えようのない運命の下に生まれ、悩んで抗う一人の人間。その姿を見据え、藤永は粗野に苫田を煽ることから手法を変えてみることにした。
「來田を恨んでないのか」
藤永の問いかけに、苫田が無言で首を横に振っている。真正面から捉えた目に雫が膨れ上がり、堪えきれず頬へと伝い、机の上に落ちていった。
「來田さんといることで、イヴの欲望が満たされるならそれでいい。そう自分に言い聞かせてましたよ。けど、永遠にイヴを失うことになるなんて……思いもしなか……くっうう……」
今までの愁いにこらえ切れず、苫田は涙を流し、今にも崩れそうになっている。
「感情がジェンダーに翻弄されて、修復出来ないところまできていたのかもしれないな。彼女もあんたと別れる決意が出来ず、側にいたくらいなんだから」
「……俺はイヴから別れ話を聞かされ、あいつの気持ちを知ってたくせに、すぐには応じなかった。別れた方が幸せになる、けど俺は一人になるのが恐くて決着をつける前に部屋を飛び出した。そしてその足でマレフィセントに向かいました。ママに俺たちはもうダメかも知れないと弱音も吐いた。俺は、誰かに大丈夫だと言って欲しかったんです……」
「マレフィセント?」
「……横浜にあるミックスバーです。そこのママとは昔からの知り合いで、彼女が独立した店なんでよく二人で飲みに行ってました。でもあの日、俺は口にしてしまったんです、イヴなんていなければよかったのに……って」
両手のひらで目頭を覆う苫田から、消えそうな声が溢れ落ちる。
本気で言ったわけではないことが、藤永にも伝わっていた。
性に振り回され、希薄な生気を纏う苫田に、愛した人を手にかける勇気など持ち合わせていないのかもと思える。
「そのママは君の言葉を本気にしてたか?」
「酒の席です、ただの愚痴だと言うのは分かってたと思います……。何度かママの前で弱音も吐いてますし。ただ、その時カウンターで飲んでた隣の客が、俺の言葉に反応して話しかけてきたのを覚えてます」
「客? 顔見知りじゃないのか」
「……マレフィセントの客は、ママを慕って飲みに来る人が多くて、殆どが顔見知りです。でもその男は二、三度見たことあるくらいで。常連の男にナンパされて一緒に出て行ったから、出会いを求めるゲイかバイなんだろうと思った程度で……」
「その客はどんな様子だった?」
「その客? ナンパされてたって人ですか?」
「ああ、君の隣にいたって言う男だ」
「その人は特に──あ、でも不気味なこと言ってました」
「不気味なこと?」
「はい……『手負蛇 』とか何とかって──」
「蛇? どう言う意味だ」
「俺もよくわかりません。蛇を半殺しにして捨ておけば、その日の夜に家まで復讐しに来る……とか何とか。妙に頭に残る言葉でした」
「随分と抽象的な例えだな、何か意味があるんだろうか」
「その人は俺が愚痴を溢してるのを、黙って聞いてたようでした。けど笑ってそんなことを呟きだすから結構酔ってるんだろなと、その時は深くは考えませんでしたけど」
ただの客だと言えば、それだけのことだ。だが、なぜか小骨が喉に引っかかったように気になり、藤永は客の男に僅かな疑念を抱いた。
「人相は覚えてるか? 顔や髪型、年齢とか」
「……そうですね、割とイケメンでした。背丈は俺より少し高いと思います、視線が上だった記憶があるんで。歳も一緒くらいかなと──あ、髪が縷紅草の八束さんくらいの長さで束ねてましたね」
「ロン毛……ね」
剣のある顔を正直に晒す藤永は「それはいつだ」と、苫田に続けて聞いてみた。
「……イヴが殺される数日前です、うろ覚えですが……。イヴと一緒に行った日も、何度か店で見かけたこともありました。特に話はしませんでしたけど」
「イヴさんと一緒に、か」
「はい……」
「君の話はよく分かった。ただ凶器に使用されたものと同じモンを持ってたんだ。嫌疑不十分で今回は不起訴になるが、君が黒だと言う証拠が新たに出れば起訴される。君はそう言う立場の人間なんだと言うことを覚えておいてくれ」
「は……い」
容疑が晴れたわけではない。そのことを苫田に刻み付け、藤永は取調室のドアを閉めながら、苫田の話に出た男の存在を気にした。
「マレフィセント……か」
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