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苦悩

 藤永たちが帰ってしまうと、八束と二人きりになった千乃は、唇を開きかけたまま俯いてしまった。  藤永との過去は、口にすれば容赦なく千乃へと追い討ちをかけてくる。 「……千乃はあの刑事と知り合いだったのか」  戸惑っている八束を前に、千乃はすぐに返事が出来ずにいた。  いつか藤永のことを聞かれるとは分かっていたし、刑事と知り合い──それも何か訳ありだと言わんばかりの態度をとってしまったのだ。  八束が気にしてくるのは当然のことだ。  話せば封印が解けて、胸の奥にしまっていた痛みが再燃する。そう思っても、八束には伝えなければいけない。  これまで散々世話になってきたのに、無視することはできない。  意を決して告白しようと、千乃は顔を上げた。 「はい……。あの、八束さん。店が終わったあと、時間ありますか」 「あ、ああ。俺は構わないけど千乃は明日、大学なんじゃ──」 「平気です。明日は三限からなんで」 「そうか……いいよ、わかった」  八束と約束を交わすと、千乃は予約リストを確認するためにファイルを手にした。  無言で客を迎える準備をしながら、頭の中では冷嘲する藤永の顔が千乃の決意を怯ませる。  変わってない、あのころと同じ冷たそうな瞳……。  以前、大学で会ったときは、さっきとは別人のように微笑みをくれた。  眩しすぎて戸惑うくらいに。  過去を忘れたフリをして、ようやく前へと進むことが出来始めている。そう思っていたのは自分だけで、罪を償ったつもりでいたのかもしれない。  ネロリの精油をアロマポットへ垂らしながら、千乃は縋るように眞秀の笑顔を浮かべた。けれど、それさえも許されないことなんだと、さっきの藤永の顔で思い知った。  眞秀の次に優しくしてくれた人を、鬼に変えてしまったのだから……。  最後の客を見送ると、千乃は幻月の部屋へと戻った。  フェティシズムで、被虐性欲のある常連に使用していたアイマスクや緊縛用の麻縄。  それらを片付けようと手にし、千乃はそのまま固まってしまった。  もう三年──いや、四年近くになるのかな……。  もう会うことなどないと思っていた。  それが、ある日突然、こうやって訪れるとは思わなかった。  忘れたフリをしていただけの過去が解き放たれ、千乃は震える身体を自分の腕で抱き締めた。  眞秀へ向ける気持ちは、とうの昔に消滅していた。それだけでは足りないと、誰のことも好きにならないと決意もした。  だがそれは自分に言い聞かせた、ただの自己満足なだけかもしれない。  ため息と一緒に電気を消そうとしたとき、八束が部屋にやって来た。   「千乃、終わったか」  かけられた声で、囚われた場所から、スッと意識が戻ってくる。 「あ、はい。ちょうど今──」 「そうか。珈琲入れたから飲むか」 「頂きます……」  話すきっかけを作ってくれようとする八束に倣い、待合室のソファへと腰を下ろした。  煎れたての香りが心を和ませ、千乃を安寧に導いてくれようとする。 「お前が煎れてくれるのより味は劣るけどな」 「そんなことないです、美味しいですよ」  たわいもない会話でタイミングを見計らう中、掛け時計の秒針が耳に刺さる。  静寂が強調された空間へ、先に口火を切ったのは八束だった。 「さっきの話しの続きだけど」 「はい……真希人さん──さっきの刑事さんは、俺の親友のお兄さんです。高校のとき、眞秀と出会って真希人さんともそのときに知り合いました」 「そうだったのか。そんな繋がりがあったとは……」  親友の兄、ただそれだけの間柄ではないということは、見抜かれているだろう。  八束の態度を見ていれば、なんとなくわかる。  急かすこともしない、八束の柔らかい音に安心させられ、千乃は言葉を切り出しやすくなった。  八束が大人だから空気を読むことができるのか、それとも医者だったからなのか。  そんな八束に甘えるよう、千乃は抱えていた過去を全部聞いて欲しいと強く思った。 「八束さんは気付いてると思うけど、俺はゲイ…… なんです」  勇気を振り絞った第一段階の告白は、八束の眉すら動かなかった。 「まあな。でもそんなの今どき珍しくないだろ」 「ですね……」  珈琲の入ったカップを手で覆うと、人肌のような温度に心地よさを感じる。  カップにそっと口をつけると、音を立てないよう静かに喉へと流し込んだ。 「お前がゲイなのと、藤永さんと何か関係があるのか」  問われた言葉に千乃は首を横に振った。  少し肌寒く感じる体とは反対に、手のひらはじっとりと汗が滲んでくる。 「俺は女の人が苦手だったんです、というか怖かったのかも知れません。それがきっかけなのか分からないけど、自然と目が行くのは同性でした」 「まあ怖いだろうな。俺はお前の過去を少し知ってる人間だ。あんなことがあれば、女性を怖がるのは無理ないのかも知れないよ」  八束の言葉に千乃は意表を突かれた。  その感情はすぐさま顔に現れ、硬直していた筋肉が弛緩していくのが自分でもわかる。  わかってくれる人がいるということは、こんなにも心を軽くしてくれる。  やばい、瞼の奥が熱くなってきた……。  ここで泣けば話が先に進まない。  千乃は精一杯微笑んでみせる。それがぎこちない笑顔と思われても。 「し、知ってたんですね。そりゃそうですよね、八束さん、俺の主治医だったんですから」 「主治医か。そんな風に言えば聞こえはいいよな」  俯き加減に視線を逸らす八束に、千乃は続きの言葉を綴ることに躊躇してしまった。  当時、まだ九歳の子どもだった千乃の記憶には、八束が自分を卑下したように言う意味がわからなかった。  このまま話を続けることで、八束を苦しめてしまうのではと、ふと思ってしまった。 「八束さん、あの……」 「ああ、悪い。嫌なこと思い出させたか」 「いえ、平気です。俺は運がよかったんですよ、八束さんや眞秀に出会えて」 「藤永さんの弟か。似てるのか?」 「いえ、全然。性格は真逆ですよ。眞秀は超が付くほど鈍感だけど、真希人さんは──あの人は、怖いくらい鋭くて感がいい人です」 「だろうな、俺も初対面のときに分かったよ。あの人が刑事なのは天職だろうな、きっと」  苦い笑みを含み、敢えて明るく振る舞う八束に応えるよう、千乃も「ですね」と返してみた。 「で、千乃はその弟君に惚れてたってことか」 「鋭いですね、八束さんも」  元主治医も感がよかったのだと、千乃は思い出した。  八束と初めて出会ったころには、千乃の中でゲイはまだ自覚していない性的指向だった。にも関わらず、秘匿にしていたことを八束に知られていたのだから。  大学に入ったころ、立ち寄った本屋で偶然再会し、バイトに誘われてから今日に至るまで、ひた隠しにしていたマイノリティーな空気を、八束はとっくに感知してたのだ。 「千乃が親友君の話をするとき、嬉しそうだったからな。でも、時々それが寂しそうにも感じたのは、俺の気の回し過ぎだったかな」 「やっぱ感がいいです八束さん。俺、高二の時、あいつに告ったんです。でもあいつは無邪気に俺のことを一番の親友だって嬉しそうに言うから……」 「ちゃんと言えなかったか」 「どうなのかな。うまくかわされたのかもしれないし、天然だから気付かなかったのか……。けど、こっちは簡単に切り替えられなくて。三年に上がる前にあいつの家に遊びに行ったとき、俺……気持ちにケリをつけるつもりで、眠った眞秀にキス……したんです」 「へー。それは……なんて言うか、オクテな千乃には相当な覚悟だったんじゃないのか」 「ですかね。でもそれを真希人さんに見られてしまって……」  千乃は膝の上に置いていた手のひらを握り締め、こぶしの中で爪をたてた。  自身の犯した罪を後悔するよう、身体を固く強張らせていた。 「そうだったのか……」 「真希人さんは俺らより八つ上で、初めて会ったときにはもう警察官でした。あの日は非番で実家に帰って来てたんです。そんなことも知らない俺は、家に二人っきりだと思ってて。だから──」 「藤永さんに何か言われたのか」 「いえ、その時は何も……。ただ俺を見る目が怖かった。煮えたぎるような怒りが籠もった眼で、俺をドアの隙間から見てました」 「そのときは──ってことは、その後で何かあったのか?」  八束に確信をつかれ、千乃は両手のこぶしで口を覆うとそこへ顔を埋めた。 「真希人さんに睨まれて、俺は親友になんてことをしたんだと自分を許せなかった。真希人さんが怒るのももっともで。その証拠にそれ以来、真希人さんは俺と口をきいてくれなくなりました」    口にして、改めて自覚した。  自分は藤永によく思われていない、ということを。  大学で再会したときの微笑みは、きっと社交辞令かなにかだったのかもしれない。   「千乃、平気か。辛いなら無理に話さなくても──」  八束の気遣いが嬉しい。  けれど、千乃は自分の過去を知る八束に聞いてもらいたかった。悪いなと思いながらも、背負っている荷物のほんの一部を、引き受けて欲しいと思ってしまった。 「八束さん、天罰ってあるんですね」 「天罰?」 「はい……。、俺は眞秀にしたことが後ろめたくて、あいつを避けてたんです。そんなとき、バイトの帰りに俺、レイプ……されたんです。相手は三人いました……」  くぐもった声で千乃は告白した。  今まで誰にも言えなかった事を。 「な、そ、それ……、そんなこと……千乃、お前──」  努めて自若(じじゃく)を装おうとする千乃は、その場に立ち上がった八束を見上げた。  八束の顔は悲しげで、でもどこか憐むようにも見える。  かける言葉を選んでいる八束から目を逸らし、千乃は俯いたまま言葉を綴った。 「三人の男たちが笑いながら言ってたんです、これは罰だと」 「罰? どう言うことだ、そいつらは誰だったんだ!」  声を荒げ過去を揺さぶってくる八束に、千乃は首を左右に振ると、頼りなげな手で心配してくれる手を制止した。 「一度、その三人が真希人さんと一緒にいるのを見たことがあるんです。男たちも真希人さんの友達だと言ってましたから。ダチの弟に手を出すから、こんな目に合うんだと、犯され……ながら言われました。そのとき俺は、ドアの隙間から睨む真希人さんを思い出したんです。だから『罰』と言う意味も理解出来た……」 「あ、あの藤永さんがそいつらを教唆(きょうさ)したのか、警察官なのに!」  やり場のない怒りをこぶしに込め、八束がテーブルを叩きつけている。  千乃は怒りを鎮めるよう、その手の上に自分の手をそっと重ねた。 「俺が……悪いんです。俺が先に眞秀へ手を出したから」 「そ、それは、それと千乃が受けた傷とは比べものにならないだろ! それに警官が犯罪に加担してたなんて、懲戒免職もんだ!」 「八束さん、証拠はないんです」 「お前、訴えなかったのか……」  悲愴な面持ちの八束に、ゆっくりと首を縦に振った。  好きな相手への気持ちも、そこから生まれた悲しい仕打ちも、全て自分が撒いた種だと言い聞かせて来た。  そうすることで、誰も傷付けないと思ったから。 「これは報いだと思って、三人の男たちが満足するまで受け入れようとしました。でも最中に死ねと言われ、首を締められたんです。きっと、暴れる俺をどうにかしようと……してたんだと思う。俺、怖くて、恐ろしくて……苦し……かったんです」 「千乃。お前、おふくろさんにされたこと、思い出したんじゃないのか」  八束の質問に、千乃は返事ができない。  声に出すことも、態度で示すことも。 「あの刑事がお前をダチに襲わせたのか」  怒りで震える声で八束に問われ、千乃は「分からない」と、首を振った。  言葉にするだけで、こんなにも簡単に過去へと引き戻される。  全てを受け入れ、心を騙して生きてきても、罪悪感までは消えないのだ。  幼いころ、悲しんでいた母を救いたかった。 けれど、優しく励ましても、一向に元気にはならなかった。その結果、母はとうとう生きることを諦めて命を絶った。大好きな母を、止めることが出来なかった。それが罪の始まりなんだと、千乃はずっと思い込んできた。  いつだってこの身が(わざわい)で、周りの人間を不幸にするのだと。 「真希人さんが指示したか……それはもういいんです。悪いのは俺なんですから」 「何を言っている! 千乃は悪くないっ。お前は被害者なんだぞ」  八束の言葉は、千乃の体を通り過ぎていく。  母や弟を失ったこと、虐待を受けた日々。  強姦されたことも、罪悪感を背負って生きて来た千乃には全て代償なのだ。 「襲われてるときに思い出したんです、家族三人で過ごした最後の日のことを」 「最後の日……」 「八束さんに初めて会った、一度目に助けてもらった日です。あの日はクリスマスイヴだった。八束さん覚えてます?」  泣きそうになりながら千乃は、すっかり冷めてしまった珈琲を一口飲み、徐にソファから腰を上げた。珈琲を淹れ直しますね、と。 「……ああ、覚えてるよ」  受付の奥にある休憩室。  扉を開けていれば、八束の声も姿も見える。けれど、いつもの張りのある声ではなく、どこか腫れ物に触れるような素振りが、小さなころに見ていた白衣姿と重なる。 「俺、まだ小さかったからよく覚えてないけど、ウキウキしていた感覚は覚えてて。クリスマスはいつも母さんがホットケーキにデコレーションしてくれるから。でもあの日は、違ったんです……」  フィルターからぽたぽたと落ちてくる珈琲を見つめながら、千乃は話を続けた。 「家の近くにある川に連れて行かれ、寒いから帰りたいと言っても母さんは俺の声が聞こえてないみたいに、どんどん歩いて……。俺と葉月の手を引っ張って川に入っていった。まだ小さい葉月はあっという間にみえなくなって、泣きながら母さんは俺の首を絞めてた。ごめんねって何度も謝り……ながら。意識が薄れる中で、すぐ横に葉月が沈んで行くのが見えたんです……。俺は必死で葉月の手を掴もうとした。けど届かなくて、あいつは川底に沈んでいったんです、母さんも……。俺だけが生き残って、二人を救えなかった」  千乃は小さな息を吐くと、空になったカップへと二杯目の珈琲を注いだ。 「それを全部、お前は自分のせいだって思ってるのか。けど、それは違うぞ、絶対に」 「でも、俺だけ生きてる。母さんや葉月を助けられたかもしれないのに」 「あのな……。千乃が心肺停止で運ばれて来たとき、一緒に川の中から引き上げられたお母さんと弟さんはもう息をしてなかった。お前だけがかろうじて息を吹き返したんだ。お前もヤバかったんだぞ」  禍の元凶は自分だけが生き残ってしまったこと。千乃は自分の首に手を差し伸ばし、八束を凝視した。 「首を……こうやって絞められながら、体がどんどん冷えていった。意識があったのはそこまでで。母さんのごめんねって言う声だけが耳に残って。哀しげな顔が消えないんですよ、ずっと」 「お前の首には扼頸の痕があった。川に沈められたのに助かったのは、気を失ってからだったのかも知れない……んだ」 「でも、でも俺は母さんが毎日苦しそうにしてるのを知っていた。なのに、何も出来なかった。だからこれは罰なんです。襲われたことも……です。それなのに、親友にあんなんことしておいて、まだ俺はあいつを必要としている。弱い俺が悪いから。だから……全部、全部、俺は納得してることなんです」 「だから藤永さんのダチに襲われても、お前は訴えもせず、弟に手を出した罪だと甘んじて受け入れたって言うのか! そんなバカな話しあってたまるかっ」  八束の声から逃げるよう、両手で頭を覆うと、俯いて自分の膝だけを見ながら話を続けた。 「眞秀の家は俺と同じ母子家庭だったんです。だから兄さんが父親代わりだって、眞秀はよく言ってました。真希人さんも弟のことを可愛がってた。俺にもその気持ちはよく分かるから……」 「だからってやっていい事と悪いことがある。あの人はそれを一番やっちゃいけない人間なんだ! それに──」 「八束……さん」 「それに、お前はずっと、ずっと、酷い目に遭ってたんだ、覚えてるだろう」  怒りの炎を鎮火させるよう、八束の目が固く閉ざされる。  八束に言われても、千乃は自分の存在が罪だとしか思えない。  だから仁杉の妻も、千乃のせいだと言って、辛そうにしていたのだ。  ──お前が生まれたせいで、私は不幸になった……と。 「二回も救急に運ばれる人間なんて滅多にいないですよね。俺、迷惑ばかりかけてた」 「迷惑なんて言うな! そんな張り付けたような顔で笑うなよ。お前はもっと大人を恨んだっていいんだ。それに俺のことも……」  そう呟いた声と同時にスマホが鳴り響き、八束の言葉がかき消されてしまった。 「電話鳴ってます。八束さんのスマホですよね。はい、これ」  テーブルの上で震えるスマホに視線を向けると、八束も同じように目を向けた。  数秒経って電話に出た八束が、來田君からだよと、教えてくれる。 「もしもし、お疲れさん。あ、ああ来たよ刑事さん。そっちに連絡は──そっか、こっちは大丈夫。うん、分かった。また明後日な、お疲れさん……」 「八束さん、來田さんは何て?」 「店に出勤してるか、伏見さんが確認して来たらしいよ」 「俺たちが庇ってないか、確認したんですね……」 「本当、刑事ってのは難儀な仕事だな。俺なら人間不信になるよ」  テーブルの上に置いてある、客用の飴を一つ摘むと、口の中に投げ込み、ゴリゴリと噛み砕いている。  千乃は脇に避けてあった灰皿を差し出しなごら、「吸ってもいいですよ」と、伝えた。 「いいんだ、平気だから」 「でも結構長い時間吸ってませんよ」 「大丈夫さ。口に何か入れときゃ誤魔化せる」」  千乃の側では極力煙草を口にしない。  八束がそんなルールを作ったのは、千乃がバイトを始めたころからだった。  八束が気遣うのは、副流煙を気にしいるからではない。  千乃が煙草の火を見て、恐怖を思い出さないようにしているからだと思う。  白く柔らかい大腿部の内側に、煙草からの熱源で作られた熱傷。  皮膚がヨレ、白っぽく盛り上がった痕が、そこにはいくつも残っていた。  虐待の名残りを持つ千乃を、当然、主治医だった八束は知っている。だから彼は、千乃の前で煙草は吸わないのだろう。 「あ、もうすぐ終電なくなる。やばっ」  壁の時計を見上げ、千乃は慌てて身支度をしだした。 「ここは片しとくから千乃は先に帰れ」 「すいません、コップとかも──」 「いいよ、俺はこっから近いんだ、それくらいやっとくから。明日寝坊して、お前の大事な内定が取り消しになると困るしな」 「平気ですよ、今んとこ皆勤ですし」  リュックを背負いながら、千乃は自慢げに笑って見せる。そうする事で、大抵の大人は深入りして来ないのを子どもの頃から学んできた。 そうやって、大人の顔色を伺ってしまうのは、消えない癖になってしまった。 「相変わらず真面目だな」 「でしょ? それじゃ、お先です。お疲れ様でした」  挨拶をしながらドアを出て行こうとした千乃は、ふと足を止めると八束の方へ振り返った。 「どうした、忘れもんか」  ポケットに忍ばせてあった、パーラメントの箱を取り出そうとした手を引っ込めている。  取り繕うような笑顔の八束に、千乃は吹き出しそうになった。 「いえ、今日は遅くまで付き合わせてすいませんでした」  会釈した千乃は再びドアに手をかけながら「やっぱ平気じゃなかったですね」と、悪戯げに微笑むと、真鍮の軽やかな音を聞きながら店を出た。

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