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証拠にならない証拠

「今日は特に寒いっすね、先輩。エンジン暖まったら暖房付けるんでちょっと辛抱してくださいね」  幡仲への面会の後、寒さに肩をすくめて駐車場に辿り着いた藤永達は、木枯らしから逃げるよう車へと素早く乗り込んだ。  コートを着てないと冷えた車内の気温には対抗出来ず、震える指先でエンジンをかけながら、伏見が藤永の体を気遣ってくる。 「俺はそんなに年寄りじゃない。こんな気温どうってことないから、さっさと運転しろ」 「すいません、年長者は労わらないといけないって、つい──ね」 「何が『ついね』だ。無駄口叩く前に手を動かせ」  後部座席から威嚇するよう藤永は叱責し、伏見の運転を急がせた。 「はいはい。安全運転で帰りますよ──って、あれ、ゆき君だ。この寒いのに外で友達と戯れてますよ。若いなー」  伏見の言葉で、藤永は窓硝子越しに中庭へと向けた。視線の先には、友人と楽しげに話す千乃の笑顔が見える。  なんだあの笑顔は、面白くない……。    思ってすぐ、我に返った。自分の中にあったとは思えない、激しい独占欲に藤永自身も戸惑う。  二人で過ごした夜を思い出し、藤永はつい、千乃から視線を逸らしてしまった。そうすることで、刑事として、大人としての平常心を保とうとした。  今すぐにでも千乃の側に行って抱き締めたい。口付けをして、白い肌を赤く染めたい。  これまでは容易く押さえ込めていた感情が、愛しい体を自分のものにしてしまうと、千乃に接触する全ての人間を排除したくなる。  自分でも知らなかった支配欲を自覚すると、藤永は理性を総動員して欲望を何とか堰き止めた。 「でもあの教授はシロって感じですよね、アリバイが曖昧な時もありましたけどって、どうかしましたか先輩、眉間にしわなんか寄せちゃって」 「え、ああ何でもない。──そうだな、あの先生は純粋に性的嗜好なんだろう。だが、まだ無視は出来ないな」 「そうですねってか、先輩、由元柊のことを、単独で調べてますよね」  ルームミラー越しに問われ、藤永は鏡の中の伏見と目を合わした。 「知ってたのか」 「そりゃね、長年の付き合いですから。例のミックスバーには捜査に行こうとしなかったし」 「あそこにお前と二人で行けば、怪しまれる」 「えー、そうっすか? 俺はゲイカップルのフリして二人で行くのかと思ってましたけどね」 「お前とか? 勘弁してくれ」  足を組み換えながら、藤永は舌を出して嘔吐くような素振りをして見せた。 「またまたそんな邪険に扱う。俺って結構かわいい方だと思いますよ」 「はいはい、言ってろ」 「でも先輩……」  鏡に映る伏見の顔が神妙な顔つきになっている。藤永は試すような視線を鏡に向けると、「何だ」と聞き返した。 「教授の血液型は、今までの犯行現場にあった精液(しょうこ)と一致してるけど、DNAは違うって、やっぱり嫌疑をかけた人間とは別のやつの犯行なんでしょうかね。來田と由元に限っては血液型すら違いますし。指紋はその、性行為……を二人が害者とアレしたから残っててもおかしくないし」  いい大人が恥ずかしいのか、ごにょごにょと呟く伏見を見据えながら、今回の事件を頭の中で整理していた。  今の時代、監視カメラはそこら中にある。現に容疑者の四人とも、カメラには映っていた……。  一人目と二人目の殺人に関しては、現場となった横浜市内にある公園の入り口付近に、柊と幡仲はそれぞれ異なった時間で映っていた。理由をと問うと、ただ公園の付近を歩いていただけと言う。幡仲に関しては、会員になっているジムが近くにあるからと真っ当な回答だった。  最初の犯行では、來田、そしてアユム──苫田も近辺の防犯カメラでは捉えていない。  三人目の被害者になったウリ専の青年の場合だと、幡仲、柊の二人が同日に同じホテルに映っていた。先に幡仲、一時間ほど間隔をあけて柊が同じ階のエレベーターを利用しているのは確認済みだ。ただ、柊の方は、指紋は出ていない。    イヴ──(むろ)の事件は、來田との待ち合わせ場所に同ホテルを利用。だが、事件当日には室はホテルに来ることはなく、近くの公園で殺害されていた。何より、ウリ専の青年が発見されたホテルも、室と來田の逢引き場所も同じ、苫田が勤務するホテルだった。  室が苫田の勤務先だと知らずに、たまたま密会場所をホテルにしたのか。恋人同士でも勤務先を知らないカップルはいるだろう。それとも來田が知っていて、わざと指定したのか……。  室が発見された公園には防犯カメラはなく、四人目の害者のアパレル勤務の男も同様に容疑者全員、カメラには映っていない。  唯一、四人目の害者と柊が一緒にいるのはマレフィセントで目撃されている。    これまでの事件で容疑者の人間達が必ずしも関与してたかどうか、未だ不明瞭のままだ……。 「目撃証言も、殆どが役に立たないモノばかりだったし。前科があれば一発ヒットなんでしょうけどね。なんせ、現場にはアレが残ってたんですから。來田、苫田、幡仲、そして由元。彼らの中でも指紋が一致している幡仲と由元だし、やっぱこの二人の線が濃厚っすよね」 「だが、バーの男を殺害するのは教授には不可能だ。やはり一緒にいた由元の可能性が高い」 「でも教授の線も消えた訳じゃないでしょ? 今の時点でこの二人が犯人に近いって事すっよね」 「四人の事件には何かしら、容疑者が関与している。指紋、カメラ、目撃証言。だが明確な証拠ではない。首に触れたのもスキンシップと言われれば、何も言えない。問題の精液も謎だ」  懊悩する気持ちを表すよう、藤永の吐いた溜息で窓硝子が白く曇った。 「そう言えば先輩、由元の絵を観ました?」 「ああ、観た。抽象的な日本画だったな」 「俺、あの絵を観てゾッとしましたよ」 「アレが好きだって言うやつも結構いるぞ。高値も惜しまずにな」  千乃が話していた通り、柊の絵は著名人の間で、頻繁に取引きが行われていたのはすぐ裏が取れた。客の中に仁杉がいたことも。 「俺は無理っすね。なんかオドロオドロしくって、グロくって。見ようによっちゃ遺体ですよアレ」 「遺体、そうだな。まあ見えないことはないな」 「あんなのモデルとかいるんっすかね。画集の絵もそんな絵ばっかりでしたけど」 「そう言えば、由元の過去は何か分かったのか?」 「ええ、先輩に言われて調べましたよ。幡仲や苫田、來田の過去も。けど、特出して怪しい過去を持つ人間はいませんでしたね」 「そうか……」 「あ、でも幡仲と由元には共通点がありました」 「共通点? またあの二人に?」 「はい、二人とも親がいなくて、親戚の家に引き取られています」 「親がいない、か。何歳から親戚に引き取られたのか分かってるのか」 「はい。幡仲は赤ん坊の頃に両親が親戚の家に預けたあと自殺しています。由元は母親がいたんですが、借金返済を理由に彼が小学生の頃に預けられてますね。それで幡仲が引き取られた親戚の家なんですが……」 「なんだ? 何かあるのか?」 「実は幡仲の親戚っていうのが九州の島で、情緒障害更生施設を経営してたみたいです。つばめの子って施設名でした。今は廃業しているらしいんですけど」  奥歯にものを挟んだような話し方をする伏見に、「その施設に問題でもあるのか」とルームミラー越しに聞いた。 「きな臭いんです。犯罪一歩手前って言うか。子どもを虐待してたって近所で噂があったみたいなんですよ。逃げ出した子どももいるとか何とか」 「経営者が親戚で幡仲はそこで育ったのか」 「幡仲は真面目な、良い子だったようですよ。成績も良くて常に首席だったみたいですね。大学を卒業してから講師になって、現在の地位を築きあげたって言うんですから立派ですよね」 「立派……ね。伏見、もう少し詳しくその施設のことを調べてくれ」  ミラーに映る伏見に声をかけると、了解っすと片目を(しばた)かせてきた。 「由元の方はどうだったんだ」 「あー、彼は勉強はそこそこ。親戚の人間とあまり合わなかったのか、よく外泊する子どもだったみたいですよ。特に、近所のアパートの大家に可愛がってもらってたみたいです。頻繁に出入りしてらしいですね。絵もその大家に習ったそうです」 「今の由元を作ったのは、近所のおじさんってことか。その後、母親とはどうなった?」 「それが、由元を親戚に預けたまでは分かったんですが、その先は居場所を転々としていたようで。仕事は水商売してたようですね」  ふと藤永は、マレフィセントで由元が口にした蛇の話を思い出していた。 「迎えに来なかった母親を恨むだろうな」 「先輩は由元が濃厚と考えてるんっすよね」 「どっちにしても、二人の事をもう少し調べる価値はあるな」 「でも、DNAが一致してませんよ」  またそこに戻るのか……。どうしたってあの精液が壁みたいに行く手を阻んでくる。 「他人の精液を予め用意して、それを現場にわざと残して行ったかも知れない。そう言うが由元と幡仲に可能かどうかも調べるんだ」 「行為……か。俺は性的マイノリティの知り合いがいないんでよく分かりませんけど、バイでない限り男が男のを手に入れるのは、難しいんじゃないんですかね」 「……そうだな。どうにか確認することが出来ればな」 「先輩、由元と仲良くなったんでしょ? だったらちょっと突っついてみたらどうですか?」  ふざけた口調で言う伏見の後頭部を軽く叩き、藤永は大きく溜息を吐いた。 「俺は刑事だってもうバレてんだよ、多分な」 「暴力反対ですよ。でも何でバレたんっすか。先輩らしくない、ヘマでもした──」 「馬鹿なことを。千乃と一緒にいた眞秀が俺の弟だって知ったんだ。きっと眞秀から職業も聞いてるだろ」  後部座席の背もたれに落胆するようもたれると、藤永は流れる車窓に目を向けた。  千乃が自分のいないところで柊と出会ってしまったことに、僅かな不安が引っかかっている。  偶然だったとしても、千乃や眞秀の存在を柊に知られてしまった。それが、指先に刺さった棘のように気になって仕方がない。 「じゃあ、もう先輩はあのバーに行けませんね。今度は俺が行って接触してきましょうか」 「お前は顔に出るからすぐにバレる」 「えー、そんな事ないですよ。俺、演技力あると思うんだけどな」 「とにかく余計なことはせず、さっき言ったことを調べるんだ」 「はいはーい」  能天気な返事を放った後、小鳥のように啄む声も控え、外から聞こえる喧騒が車内に染み込んでくる。  静寂の中で迷走する思考を持て余しながら、藤永は自然と唇を噛み締めていた。  指紋もカメラの映像もある、血液型も一致する人間はいた。だが、DNAだけが全員と一致しない。堂々と放置された犯人の痕跡が予想を反し、事件を追う足枷になるとは──。  茫漠(ぼうばく)とした視界に手応えはなく、どこか調子を狂わされる。まるで犯人に馬鹿にされてるようにさえ思えた。 「……なんだかムカつきますね」  不意に放った伏見の一言に、藤永のモヤがかる感情に合点がいった。  そうだ、俺はムカついているんだ──。

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