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蛇の餌

 寒さで目が覚めた千乃は、仄暗い景色の中を刮目しながら見渡した。  薄っすらと見えるものが全て横向きだったのは、自分が地面に横たわっていたからだとわかった。  体の側面に触れている感触が冷え切ったコンクリートで、壁と屋根があるだけでここは外と何ら変わらない空気が漂っている。  一つ違うと言えば、埃っぽい臭いが鼻につくことくらいだった。  頭が痛くてこめかみに手を当てようとしたが、自分の手が動かないことに気付き、薄闇の中で目を眇めると、両手首が縛られていた。足首も同じように麻紐で拘束されている。 「……どうして、こんなことに。ここはどこ、だ。柊さんは……」  朧げな記憶を手繰り寄せ、千乃は柊と一緒にスペイン料理を堪能していたことを思い出した。 「そうだ。柊さんに誘われてパエリア食べに店に入って、それから、サングリアが甘くておいしくて……その先は……」  酒を飲んだ記憶もないのに、頭が割れるように痛い。左右に何度か頭を振ってみても、途中からの記憶は全く思い出されなかった。  辺りを取り巻く暗晦(あんかい)な景色に目を凝らすと、目が闇に慣れて閉ざされた空間の天井が異様に高い事に気付く。その高さは五メートルほどあるように思え、四角い明かり取りの窓が遠くに見えたが、そこからの日差しがないということは昼ではないということだ。   「と、とにかくどうにかして外へ出ないと……」  手足を縛ってある麻縄は仕事道具で扱っていたとはいえ、人の手で固く結ばれていては簡単に解けそうにない。おまけに、今いる場所は冷凍庫の中のように寒い。外の方がまだ温かいかも知れないと思えるほど、千乃がいる場所は冷たく()てついていた。  何か道具でもあれば、と馴染んできた目で部屋の中を注視してみたが、埃まみれの潰れた段ボールがいくつか転がっているだけだった。一番太い柱に目を向けたとき、千乃はギョッとして、息を呑んだ。  柱のそばにあった古い麻縄が、地面でトグロを巻く蛇に見えたからだ。  縄が擬態で蛇に見えたのは、自分の置かれている状況が異常だからかもしれない。 「……どうしよう──あっ、俺のカバン、スマホ、どこだっ」  辺りを探したものの、ささやかな希望は直ぐに敗れ、私物は部屋のどこにも存在しなかった。  やっぱ、あるわけない……か。  千乃は深く深呼吸をし、冷静になるよう自分に言い聞かせた。  寒くてかじかむ手に息を吹きかけ、それを繰り返していると、明かり取りの窓からほのかな明かりが部屋の中へ差し込んでいることに気付く。  心許ない灯火が降り注いできたことで、夜が明けたのではと考え、千乃は光に吸い寄せられるよう、体を捩らせながら移動してみた。僅かな日差しで見えた場所は物置小屋のようなものを想像させ、人の気配がないことを突きつけてきた。  不明瞭な現状はあらゆる妄想を引き出し、千乃に恐怖心を植え付けてきた。 「誰かっ! 誰かいませんか!」  咄嗟に叫んではみたが、自分の声が反響するだけで状況は変わらない。焦る気持ちのまま差し込む一縷の光を頼りに、今度は出口らしい扉まで這うよう近づいてみる。だが引き戸になっている強固な扉は隙間なく閉ざされ、千乃の不自由な体では開けることが不可能だった。 「真希人……さん」  真っ先に思い出した人の名前を呟いただけで泣きそうになる。  ここがどこかもわからない状況で、助けを呼んでも無駄なことだった。  今までも一人で何とかしてきたんだ、自力で何とかしなければ。 「とにかくここから出ないと……」  千乃は自分を鼓舞し、入り口の扉を蹴破れないかと考えた。  氷のように冷えた地面に横たわると、拘束された両足で扉を蹴ってみた。背中が砂利と埃で擦れてかなり痛い。  細かな傷に耐えながら、何度も何度も扉を蹴ってみた。 「だめだ、ビクともしない……」  一枚ものの頑丈な扉は頑なに動かず、千乃の体力だけが消耗して吐く息の回数が増すばかりだった。  いつしか足は根を上げ、扉からずるりと落下させて地面に両足を投げ出した。  足がダメなら手でもと、縛られたままの両手で扉を押したり叩いたりしたけれど、一ミリも動かない。  寒さと疲れで上半身を壁にもたれさせると、落胆したまま高い場所にある小さな窓を見上げた。  冷えた体とは反対に、こめかみを伝う汗の感触を感じる。これは動いてできた汗なのか、恐怖からの冷や汗か。  千乃は唇を噛み締めたまま、ぼんやりと明かりがさす場所を見つめていた。  誰が自分をこんな場所に監禁したのか、見えない相手に怒りが湧いてくる。 「誰かっ! ここから出せっ」  なけなしの力で声を張り上げたとき、外から金属音が聞こえると重い引き戸がごとりと少しの隙間を作った。  誰か……来る。  壁に預けていた体を離し、身を捩らせると、食い入るように扉を凝視した。  重そうに鈍い動きをする扉が徐々に開かれ、外の景色がゆっくりと千乃の目に映り込んでくる。そこに人ひとり通れるスペースが生まれると、差し込んで来る足が見えた。  部屋の中に全ての体が入ったことがわかると一気に緊張が増し、一歩一歩近づいて来る度に輪郭が鮮明になり、千乃の心拍数も上昇していった。  正体を確認しようと目を凝らし、瞬きもせず薄闇を見続けていると、浮かんできた人物との距離が縮まって来る。  ザリザリと砂利を踏みしめる音が止まり、明かり取りからの僅かな光りを浴びた顔を見て、千乃は言葉を失った。   「ユキちゃん、起きたんだ」  記憶にある呼び方をされ、全貌が明らかになった柊を真っ直ぐに見上げた。  ゆるりと佇む彼の表情は、一緒に食事をしたときと何ら変わらない微笑みに見える。だが見下ろしてくる目に感情はなく、不気味に思えた。 「もう、いくら誰もいないからって、大声出して暴れ過ぎだよユキちゃん。この蔵戸は(けやき)で出来てるから、君の華奢な足で蹴ったところで簡単には壊れないよ」 「しゅ、柊さんが、俺をここに閉じ込めたんですかっ」  ようやく声をだして尋ねると、「そうだよ」と、悪びれた顔もせず、平然として答える柊を見てゾッとした。  つま先に力を入れ、臀部を引きずりながら後退りをしようとした。だが、震えた足に力は入らず、おまけに砂利で足裏を滑らせて思うようにうごけない。その間も、じわじわ近付く柊との距離は縮まるばかりだった。 「……どうして。どうしてこんなことするんですか」 「どうして? そんなの簡単だよ、ユキちゃんを殺すためだよ」  軽口を言うように返答する柊の口元に歪な笑みを見つけると、一気に体が震えてきた。 「あれぇ、震えてるね。怖い? 怖いよなー。でもいいじゃん、今まで裕福で幸せに暮らしてきたんだろ? 豪華な仁杉の家でさ」 「な、何を言ってるんですか。裕福って──」 「その態度。いい加減、煩いよユキちゃん。俺を苛立たせないでよ」  柊が吐き出す言葉の意味が分からない。おまけに思考力も恐怖で追いついて来ない。  怯える千乃をよそに、徐々に明るくなる日差しで、視認性(しにんせい)の上がった部屋を柊がゆっくりと見渡している。 「ここは変わらないね。相変わらず埃まみれだ」  小さく呟いた柊が水の入ったペットボトルを地面に置き、千乃に背を向けると部屋を出て行こうとした。 「待って! 待ってください! 理由を、何で俺を殺すのか、理由を教えてください!」  なけなしの勇気を奮い立たせ、千乃は去って行こうとする背中に投げかけた。その声に足がほんの少し反応したものの、振り返ることはなく蔵戸は閉められ、再び千乃の周りは薄闇に制圧されてしまった。

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