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生い立ち

 都会の喧騒から遠く離れた郊外。  周りにある田畑が景色の大半を占める小さな町で、柊は幼少期を過ごしていた。  (いにしえ)の群衆が生活するこの町も住人は減り、過疎化となっているようだ。その証拠に、藤永と伏見が町へ入ってから住人には一人もすれ違ってはいない。  だが、この状況こそが柊にとって好都合だったのだろう。空き家だった洋館をアトリエにして作業に没頭していると、アートディーラーの山脇が言っていた。 「普通の田舎町ですね。でも、この閑散とした雰囲気は同じ県内とは思えないっすね。長閑(のどか)すぎる」  運転をしながら伏見が呟くと、藤永は言葉に導かれるよう、窓の外に目を向けた。  田畑しかない見通しのいい場所で、ようやく遭遇した住民が畑仕事をしている。予想とおり、珍しそうに藤永たちの車を視線をジッと見ていた。  赤色灯などを灯せば、あっという間に警察が来たことが町中に広がるのがわかる、狭い井戸の世界だと想像できる。 「本当に好んでここにいるのか? こんな場所、やつには逆に過ごし辛いんじゃないのか」 「でも先輩。育った場所なら知り合いもまだ住んでいるのかも。それなら寂しくないかもしれませんね」 「あいつに寂しいなんて言葉は似合わない気がするけどな。どっちかっていうと、一人の方が気楽、てタイプだと思うが……お、おっと。随分と荒れた道だな」  舗装された道から外れて侵入したのは、車一台がギリギリ通れるかどうかの、獣道のようなじゃり道だった。  地面には窪みや土が盛り上がった箇所が所々あるせいで、タイヤがそこを通る度に舌を噛みそうになる。 「本当にこんな道の先に由元が住んでるんですかね。該当もないから夜になると真っ暗じゃないっすか」 「だるまみたいな体型の山脇が運転席してるんだ、お前なら余裕だろ。万が一対向車が来ればバックしないと、すれ違う幅もないだろうけどな」  藤永の言葉に運転が慎重になる伏見が、歩く方が速いんじゃないかと思えるくらいの安全運転をしている。  おいおい、そんな亀みたいな走りじゃ夜中になるぞ、と言いたかったが瞬きもせず真剣に運転をしている顔を見て茶化すのはやめておいた。  十分ほどら走ると、向かいから覚束ない足取りで杖をつく老婆を目にし、安全のために伏見は車を停車させた。 「おばあさん、こんにちは。この先に由元って人の家ありますか」 「あんたら、誰ね」 「あ、すいません。僕らは神奈川県警のもので……」  ニット帽を目深に被った老婆は、目を細めて伏見が差し出す警察手帳をマジマジと見ている。 「警察のもんが、こんな田舎に何の用じゃ」 「いや、だから由元柊って人の家をですね……」  運転席の窓越しに訪ねてくる伏見に対し、老婆が曲がった背中を少し伸ばしながら怪訝な顔を浮かべていた。入れ歯なのか、口をモゴモゴとさせて何やら考えていたが、細い目と口を見開き、地面を杖で数回叩いた。 「ああ、岩城(いわき)んとこの息子のお気に入りか」 「岩城?」 「ああ。もう今は継ぐものもおらん、空き家になってボロボロじゃが、昔は数人の住人が住んでいたアパートの経営者じゃ。そこに頻繁に遊びに来ていた孤児だろ。引きこもりじゃった岩城んとこの息子の、遊び相手じゃって、みんなは冷やかしとったよ。大人のくせに、中坊にしか相手にされないってな」 「おばあさんは、由元柊をよく知ってるんですか」  伏見と老婆の会話が気になり、車から降りた藤永は、買っておいたペットボトルのお茶を差し出しながら、話の続きを催促した。 「よくは知らないねぇ。けど、誰かが噂していたことがあったぞ、あの子は岩城の息子に乱暴されてるってな」 「乱……暴、それ本当ですか」  予想を反する老婆の話に、藤永は背の低い彼女の目線に合わすよう屈んで聞き返した。 「さあな。ワシは見とらんから知らん。けど見たって噂したやつは幾人かいた。もう殆どここには住んでない者じゃけどな」 「今はどうしてるんですか。その岩城さんは」  藤永は道の脇にある岩に老婆を座らせ、答えを待った。 「……岩城の息子は働きもせんと、家にずっと籠っていた。母親は息子がちっこい時に男と出ていったし父親も、その、由元って中坊が入り浸ってくる前に死んじまってる。こんな小さな町じゃ次第に人は離れ、アパートに住む人間もおらんようになって、最後は岩城の息子が一人で住んどったよ」 「その岩城って人の息子さんが由元と知り合い、いや、乱暴していたとしたら、二度と会いたくないはずなのに、由元はそこへ足を運んでいたと言うんですか」 「そんなこと知らんわ。何年か経って由元って子どもの姿も見んようになってしばらくしてから、息子がアパートの部屋で死んでるのを宅配の人間が見つけたんじゃよ」 「孤独死か……」 「もう十年ほど前のことだ。あれはバチが当たったんだ、みんなそう言ってた。子どもを手込めにした報いじゃ」  それくらいしか知らんけどな、と言って老婆は深い溜息を吐き、杖を手にヨイショと腰を上げた。 「……そうですか。あ、おばあさん、ありがとうございました。帰り道、お気を付けて」 「お茶、ご馳走さん」  杖を振って例を言うと、老婆はゆっくりと藤永たちが来た道を帰って行った。 「先輩、おばあさんが言ってた話、本当ですかね」 「さあな。目撃した住人も今はいないし、アパートも由元が育った親戚の家も今はもうない。真相を知るのは由元(ほんにん)だけだ」 「そう……っすね」  小枝が囁く程度の風が、老婆を見送る二人の間を駆け抜けていった。  微かな刺激が藤永の頬を撫で、陰鬱な気持ちから我に返ると「行くぞ」と行く先を見据え、後部座席へ体を沈めた。 「あ、はいっ」  藤永の声に伏見が慌てて運転席へ戻り、エンジンをかけると、ゆっくり加速する車の中で藤永は幼い柊の顔を想像し、そこに成長した千乃の姿と重ねた。  大人に弄ばれた、幼い二人の子どもを。  いつだって子どもは大人のいいようにされ、未来を狂わされる。犠牲者はいつも弱い子どもだ……。  行き場のない怒りを持て余しながら、藤永は緩徐に流れる車窓を注視するように見つめていた。

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