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種あかし
「信じられない……こんな事ってあるんですね」
検体の迅速結果を目にした伏見を横目に、藤永は心の中で胸を撫で下ろしていた。
刑事にあるまじき行為をしたのだ、もし結果が自分の予想を反する事だったらと思うと、警察手帳を返却するのも辞さない覚悟をしていた。今さらながら指が震えてやがる。
「俺も……半信半疑だった。弟から話を聞いていたとは言え、こんなことが実際に人の体に起こっているのかってね」
指先を隠しながら、藤永は脳内で何度も眞秀に感謝を呟いていた。
「でもこれで由元の犯行は確定ですね」
「ああ。もう言い逃れは出来ない」
「先輩、あんなことまでやっちゃってますもんね」
「うるさい。あれしか方法が浮かばなかったんだ」
「にしても、男の──アレをアレするなんて、警察始まっての前代未聞の珍事ですよ。きっと後世まで語り継がれます──っ痛って」
先輩を茶化す後輩の頭を軽く叩くと、藤永は結果の用紙に改めて視線を落とした。
唾液、髪の毛、爪、血液とこれらは全て同じDNAだった。だが、残った検体──精液だけは別人の個体という結果だった。
結果は連続殺人の、被害者達に残った| 精液 と同じDNAだった。
「人間の体って本当、不思議だよな……」
「でも先輩、よくあいつに水飲ませること出来ましたよね。あの中に催淫剤入れてたんでしょ?」
「ああ、アレな。口腔内の検体採取する時、浦上さんに頼んでたんだ、綿棒ににがりをたっぷり染み込ませといてくれって」
「にがり? にがりってあの、豆腐作るときに使うアレでしょ? あれってそんなに苦いんですか?」
「すっごーく苦い。俺は小学校の時、豆腐屋のダチの家に遊びに行って騙されて舐めさせられたんだよ。それを思い出したんだ。アレを口にしたら早く口の中、洗い流したいって思うんだ」
「ひえー、そうなんっすね。覚えときますよ」
苦虫を噛み潰したような顔をする伏見を真顔で凝視し、藤永は申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「悪かったな、巻き込んで。お前は何も知らず、俺に命令されて手伝わされたってことにしてくれよ」
「先輩! 俺はわかってて一緒にやったんだ。懲罰を受けるなら俺も同罪ですよ。それにこうでもしなけりゃ、誰もこんな結果を知り得るなんて出来ませんでしたからっ」
声を荒げて言い放つ伏見の言葉に、口角を緩ませた藤永は「ま、そうだな」と、スッキリとした胸中を自覚した。
「あ、そうそう。福寿さんが由元の母親と会えて、話を聞いてきたそうです。でも、あの母親、親戚に預けた後の由元のことなんて何も知っちゃいなかったって」
「そうか。どえらい大地主の元へ嫁に行けたなら、自分可愛さに捨てた子どもを迎えになんて行けないもんなのか」
「生きてるかどうかも不確かだったそうです。この事件で警察から聞いて初めて知ったってことですね」
「憐れだな……」
「借金のためとは言え、男のもとを渡り歩いた挙げ句、子どもを捨てて玉の輿、か。迎えに行ってあげてれば、奴も何か変わってたかもしれませんね」
伏見の言葉に藤永は心の中で想像してみた。
もし、千乃と柊が一緒に仁杉の元で暮らしていたら、二人は正式な義兄弟としてどんな風に成長していたのだろうか。
もし、そんなことになっていたら千乃の性格を考えると、これまで経験した以上に過酷で辛い人性になっていたかもしれない。
相続を奪い合うという、争いに巻き込まれて……。
「どっちに転んでも、周りにいる人間が変わらなければ同じ……か」
「何か言いました? 先輩」
「あ、いや何でもない。それより始末書でも先に書くとしようか」
「俺の分も書いといてください。さっき、巻き込んで悪かったって言ってくれてたし。それくらいは──痛って。もう、暴力反対!」
不貞腐れる伏見の鼻の頭を指先で弾くと、藤永は自席へ戻ろうとした。
タイミングよくドアが開かれ、せり出した腹が見えると福寿がヌッと顔を出す。
「お、ちょうどよかった。藤永、由元がお前と話したいそうだ」
「由元が?」
「送検される前にどうしてもだとさ」
「……わかりました」
今さら俺に何の話しが……。
首を傾げながら、藤永は取調室で待つ柊の元へ向かった。
「恨言 でも言いたいのか。いや、あいつはそんな玉じゃないか」
想像しながら、ドアを開けると以前の飄々とした柊は消え、無表情に近い顔つきで壁を見つめている。西日を背にしているせいか、少し憂いて見えた。
「マキちゃ──いや、刑事さん。お見事でした、俺の生体を見抜くなんて本当凄いよ。絶対にバレない自信はあったからね」
「そうだな。俺も弟のヒントがなければ、きっと永遠に分からなかったかもしれないよ、こんな生命の神秘みたいなもん」
「神秘ね。俺も自分の体ながら不思議に思うよ。小さい頃、まだ母親と一緒に暮らしてた時に、生まれる前は双子だったっての聞かされてたけど、まさか……ねえ」
「……幾つか聞きたいことがある。どうしてお前は気付いたんだ、睾丸と他の体が別の遺伝子だって。それと、犯行場所に使ったホテルを選んだ理由はなんだ?」
椅子をゆっくり引きながら、藤永は柊の前に腰を下ろした。
結果にも驚いたが、事実を柊自身が知った経緯も不思議で仕方なかった。
「普通に生きてればこんなこと気付かないし、調べもしないもんね。そりゃ気になるわ。ああ、先にホテルの話しを先にするけど、答えは簡単だ。単純に他を探すのが面倒だっただけ。防犯カメラに映ってても、指紋が残ってても精子が違うから、例え疑われても捕まらない自信があった。場所はどこだってよかったんだ」
「なるほどな。けど、相当な自信家だな。じゃ、次はその精子のことを教えてもらおうか」
神経を逆撫でしないよう、極力静かに尋ねると、手枷のついたままの手で髪をかき揚げ、柊が深い深呼吸をひとつ溢した。
「母子手帳ってあるじゃん? 俺にも一応そういうのがあって、親戚の家でこれから過ごすって時の荷物に入ってたんだ。そこに書かれていた血液型はB型だった」
「まあ、そうだな。確かにお前の検体はすべてBだった、睾丸以外はな」
「俺さ、高校のときに金欲しさでアルバイトしたんだよね。ダチがどっかから持ってきたバイトでさ。不妊治療の治験に使うとか何とかで、いろんな精子がいるって。提供すれば、まあまあな額を貰えたんだよ。で、そんときに知ったんだ、俺の精子はA型だったって」
「A型……」
「最初はデータが間違ってんじゃねーかって思った。だから念のためそこの医者に調べてもらったんだ。結果はやっぱり同じA型判定。それで俺は色々調べたよ、そしたら『キメラ』って言うのにたどりついた。もうそりゃ驚いたね、こんなことあるんだーって」
パイプ椅子の背もたれが悲鳴をあげるほど背中を預ける柊が、天井めがけて溜息混じりの深呼吸をした。
「殺人を犯した理由はなんだ。なぜヤった」
手首の枷の金属音が哀しげに音を奏でると、天井に視線を預けたまま柊の唇は開いた。
「俺には絵を描くことしかなかった。でも、描こうとすればするほど、アイツにされたことが頭を過ぎる……」
「大家の岩城か」
「知ってたんだ。アイツは俺を散々好き勝手していた、こっちが逆らえないのをいいことに。俺はアイツに色んなことをさせられたよ。女の格好させられたり、ケツに突っ込まれながら、首を絞められたことが何度もあった」
「首、か」
「そんで決まって言うんだ、お前の描く絵は美しい……って。俺ができなかったことを、お前が実現させろって。そうやって俺は絵を描く執着を植え付けられた。アイツのもとを俺が離れて行かないようにと、高価な絵の道具を見せびらかされたんだ。親戚に見放されていた俺は、絵を描きたいがために、身体を差し出した。でもさ、母親と一緒に暮らしてたときよりはマシだったよ」
「マシ? どういうところがマシだった」
「俺さ、母親が連れてくる男達のサンドバッグだった。酔っては殴られ、逆らえば蹴られ。その痛みよりは、岩城のやつにヤラれてる方がマシだってこと」
柊も千乃と同じだ……。大人に逆らえず、ただ暴力だけを与えられ続けた。
ふと、千乃を救った時に、柊のことを心配するような言葉を言っていたのを思い出した。
自分と同じように、犯人にも過去に何かがあったと察したのだろうか……。
「じゃあ、なぜ殺人を繰り返した。絵を描くことにだけ特化していればよかったんじゃないのか」
黙って描いていれば、莫大な金額を支払ってくれる太客もいた。それだけじゃ物足りないってことなのか。
「刑事さん、煩悩ってあるじゃん。俺は描いてるうちに普通の絵を描くことに限界を感じてたんだよね。もっと、もっと凄いもんが描けるんじゃないかってさ。アイツにあんな目に遭わされてまで得た技術だ、もっと見返りを欲してもいいんじゃないかってね」
「人間は誰しも持ってるだろう、欲望──煩悩ってやつは。お前だけじゃない、俺にだってある」
「俺の求めるもんは普通のことじゃ埋まらなかった。子どもの頃の経験が引き換えなんだと自分に言い聞かせ、詰め込んだ弾丸は引き金を弾くのを躊躇わなかったよ」
「その、引き金を弾くきっかけは何だったんだ」
「きっかけは俺の絵を買った金持ちに、ある催しに連れて行かれたことだ。そこは海に浮かぶホテルを異名したクルーズで、乗客は皆同じように金と暇を持て余した連中ばっかだった。酒を飲み、胸焼けしそうな高級食材を前に始まったんだよ、スワッピングが」
「スワッ、マジか……。本当にそんな世界があるんだな」
大人の男であれば、一度は耳にしたことのある単語だ。ふしだらな行為の意味は、真っ当に生きている人間からすれば生涯経験することのない行為だ。
引くほどの内容であることを、藤永でも想像は出来る。
「男も女も、老いも若いもそこら中で盛ってやがった。だが、俺が呼ばれたのはそこに参加することじゃなかった。女のイキ顔を写生しろって言うんだ。変態もここまでくれば異常者だなって、俺は思ったね。けど、あるゲイカップルが首絞め行為をやってたんだ。俺はそれを見て、自分がアイツにされたことを思い出した。けど同時に、男の苦しむ顔を綺麗だと思ったんだ。肌に纏う汗、揺れる茶色の髪。上転している瞳。全部が美しかった」
見上げていた視線をもとに戻すと、柊の目は真っ直ぐ藤永に向けられた。
「お前はそれを……」
「ああ、無心で描いたね。描いてる途中でアイツの声が耳ん中に流れ込んでくるんだ、もっと描けって呪文のようにさ。そこから俺は俺自身の欲求を満たすよう、モデルにした男や女とセックスした。俺はゲイだから女とするのは嫌だったけど、首を絞めるためだ。けど大抵は嫌がるんだよな、苦しいってさ」
「そりゃ、そんな性癖の人間に出会う確率なんて少ないだろう」
腕を胸の前で組み替えながら、藤永は柊の続きの言葉を待った。
「ある時、バーで飲んでたら男がナンパして来た。セックスをせがんで来るから、公園でヤッた。で、男が言ったんだ、首を締めてくれって。俺はその言葉にゾクっとしたね。でも初めてでつい力を入れ過ぎて殺してしまった、それが一人目。それからの俺はそん時の興奮が忘れられなくて、発展場で引っ掛けたやつと公園でやったんだ。切れかけた街灯の下で突っ込んでやった。その時の男の顔が艶やかで、俺の創作意欲は更に掻き立てられたよ」
柊の話しを事件と照らし合わせながら聞いていた藤永は、平然と殺害した経緯を話す柊に、ある種の同情を抱いていた。
由元柊と言う男の心は、幼少期に経験した悲しい出来事が、彼の心をじわじわと喰い潰していったんだと。マレフィセントで聞いた呪文のような言葉は、柊自身に向けられていたのかと……。
「その公園って」
「ああ。それが二人目か。薄暗い中に浮かび上がった男の苦悩する顔がたまらなかった。首を絞める手の力が押さえられず、気付いたらまた息はしてなかったな。失敗だった」
「その絵を描いたのか」
藤永の問いに柊は首を縦に折った。
「帰ってすぐ描いた、無心でね。その時の作品が俺をまた一段と世に出してくれたよ。そっからは藤永さんの想像してる通りだと思うけど」
「イヴさんを標的にしたのは? 」
「ああ、それはたまたまだよ。彼氏が悩んでっから、イヴって子は別にいなくなってもいいのかなって。見た目も俺の好みだったしさ」
淡々と自供する柊の顔に、人を殺めた反省の色はなかった。
それどころか自分の犯した罪を、どこか武勇伝のように話している。よくやった、と子どもが褒めて欲しいかのように。
「そうか。全ては作品のためか。だったら千乃を連れ去った理由は何だ。また好みだったから殺そうとしたのか」
『千乃』と言う名前に、柊の目の色が変わった。
暗く淀んで暗雲が纏っていた目に小さな焔が見え、枷のついた手を固く握りしめ小刻みに震わせている。
「どうした」
「──あいつは」
次第に感情を露わにする柊の異変は、これまでと打って変わり、分かりやすい人間らしい怒りだった。
「あいつは俺の欲しかったもんを全部持っていたんだ」
「どう言う事だ?」
「あいつは仁杉の息子で、家も金も当たり前のように側にあった。何不自由なく大学に通って、ダチと、のほほんと美術鑑賞出来るほどに。それに、俺の母さんまでも……。本当なら、本当なら俺がそこにいたかも知れないのに!」
心の奥底にある泥濘に埋もれていた叫びが激しく吐出し、見開かれた柊の眼光には今にも滲み出しそうな雫が潤んで膨れ上がっていた。
「お前、本当にそんな理由で千乃を殺そうとしたのか」
「そんなだと? あんた、今そんな理由って言ったか! 俺がどんな目に遭って育ったか──誰もこんな気持ちわかんないんだっ」
座っていた椅子を跳ね除け、怒りに任せて立ち上がった柊を、藤永は上目遣いにギロリと睨み返した。
「ああ、わからないね。千乃のことを何も知らずに、自分勝手に恨んでるようなやつのことはな」
「知ってるさ! あいつは仁杉の息子に生まれ、裕福に暮らしていた。親子三人で仲睦まじく週刊誌の記事にまで載ってな。あの人は俺の母親なのに……。俺からすれば、あいつを殺す理由に充分──」
「お前はっ! お前こそ、千乃がどんな思いでこれまで生きてきたかわかっちゃいない! あいつは、千乃はずっとあの家で虐げられて生きてきたんだ」
思わず声を荒げてしまった。
藤永は冷静さを取り戻すように頭を振ると、切なくやるせない感情を胸に抱き、それが涙を誘った。
「……な、何であんたが泣くんだ」
慮外 な態度を目にし、驚きを隠せない柊へ言葉にするのを躊躇いながら藤永は、憫然 な中でも、必死で生きてきた千乃の成り立ちを静かに語った。
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