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第4話

「ふは、なにそれ。おかしな貴史」  ナナが、俺を見つめて無邪気に笑う。口づけに掴んだ細腕がするりと抜け出し、俺の両頬に添えられた。七緒のふっくらする唇が近づく。  俺は今度は、おねだりされた唇をちゅっと啄んだ。  この安らぐ時間が心から好きだ。名高い家の圧力に、耐えられない日々のなかで、俺は彼を心のよりどころにしていた。どれほど彼に救われていたか。  なのに俺は彼を――裏切った。そうせざるを得なかった理由があったとしても、俺が彼の手を放したのは事実だ。  手放せないものはたった一つだけだったのに。恵まれすぎていた俺は、何が本当に大事なのか理解できていなかった。若すぎて。まだ若すぎて。  友情も恋情も――愛情も。区別できていなかった。  七緒をなくし、俺の心は消えうせたのだ。ただ敷かれたレールを進むだけ。結婚も就職も何もかもが色あせて、世界が廃墟と化したのだ。俺は死んだも同然だった。  もう二度と手放さない。一生ここで、幸せにしよう。彼を決して裏切らないと天に誓う。この新緑がなびく、幸福な空の下で。  もしかするとこれは最近よく見聞きする、過去にタイムスリップした現実か。もしくは、死の間際が見せる幻影か。それともクリスマスの夜に、俺の願いが届いたのか。  どれにせよ、天が俺に、人生をやり直す機会をくれたのだ。少なくとも手にする体温も感触も、七緒の子どものような日向の匂いも。俺の五感はすべてが本物だと感じている。  唇を離すと、ナナも幸せそうに微笑み返してくれた。俺が本当に欲しかったのは七緒だけだ。ナナがいればそれでいい。  俺はもう見失わない。七緒も、死なせない。ずっと俺とともに生きて欲しい。心からの思いをこめて、俺はもう一度ナナの唇に吸いつく。  もしも、願いが叶うなら。君に伝えたいことがある。俺は、君を心から――。 「愛してるよ、七緒。お前を心から愛している」  背の低い七緒の額に、俺の額をくっつける。切実な思いはどこまで届いたのだろう。目と鼻の先で、七緒が色っぽく口角をあげた。 「ん、俺も。俺も、好きだよ。貴史がいてくれたら何もいらない。だから、ずっと一緒にいようね」  ナナも俺に微笑み返す。俺たちはもう二度と、離れたりしないのだ。

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