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第3話

 ナナをしっかり見たいけれど視界が水滴に濡れるように歪む。どうして。ナナが、ここにいる。俺の目の前に。そんなふうに笑いかけてくれる。 「貴史、どうしたの? 変だよ。家で、また、なんかあった……?」  言葉と表情を詰まらせた俺に、ほっそりした七緒の腕が伸ばされる。七緒の、少しひんやりした体温が好きだった。  俺の頬にひやりする指先がそっと、いたわるように触れた。瞬間。俺は、喉を詰まらせて、ナナを薄い背中ごと掻き抱いた。 「わ……っ! ちょ、貴史……っ、苦しいったらっ」 「ナナ、ナナ、俺のナナだ」 「はいはい。七緒は貴史のナナですよー」  冗談めかして、七緒が歌うように口ずさむ。細い肩に埋まった俺の頭を、すらりとしたナナの腕が甘やかした。なでなでと優しく包み返される。  ああ。この腕が、この声が、温もりが、匂いも。彼のすべてが。愛おしかった。 「……ってか、貴史? ほんとにどうしたの? もしかして、泣いてる……?」  薄い背を抱いた指先で、こっそり内緒で目じりを拭う。小さく鼻をすすり、俺はナナから離れて顔を見つめた。  俺よりも低い鼻に、可愛く大きい瞳。ふっくらする唇。名前と同じで、女の子みたいだから嫌だと言う七緒の白い頬にそっと触れる。ふに、と柔らかい頬っぺたを、親指の腹で撫でた。  これがたとえ、死の境が見せた幻の世界でもいい。この体温と、温もり。そして彼の存在を感じ、抱きしめていられるのなら。 「何でもないよ。それよりナナ、今日って何日だっけ?」 「えー、忘れちゃったの? ほんと、らしくないなぁ。今日は五月十六日でしょ! ついこないだまで、梅雨入りしなかったらいなぁーとか、暑くなってきたし空梅雨かなーとか、これくらいでちょうどいいーとか、いろいろ話してたじゃん。今年は受験なのにぼーっとするなんて」  本気で心配そうに覗いてくる七緒に、俺はごめんと苦笑してうなずく。そうか。今年は高校最後の夏前か。七緒と夏休みを一緒に過ごし、そのせいで……関係が親にバレる前の。  冷静になって周りを見れば、確かにここは、高校時代に通っていた校舎の敷地だ。俺と七緒はよくこうして休みに抜け出したんだ。校舎の裏にある、ひとけのないベンチで逢引き気分を楽しんでいた。  俺は七緒の片手を取り、ちゅっと軽く口づけをする。 「悪い。思い出した。なぁ七緒。俺、どうやら幸せでさ。幸せの絶頂にいて、ほんとに頭がどうかしたみたいだ」

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