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 あの日から、慌ただしい日々を送っている。  夜会の話をしたとき、ナイムさんはものすごく申し訳なさそうな顔をしていた。あのときの俺はその表情の意味を理解していなかったけど、今ならばわかる。これはかなりの重労働だ。  夜会当日の設営への参加はもちろん、それまでに依頼者の要望を聞いてまとめる。それらを提出し、次は邸の使用人たちとの打ち合わせ。ここできちんと双方の意見をすり合わせておかないと、当日にトラブルが起きる可能性が高くなる。  そもそも貴族にとって自邸で開く社交の場とは特別なものだ。夜会だけではなくパーティー、お茶会、舞踏会など。それらすべてが家の評価につながってしまう。完璧にこなして当然。万が一ミスがあれば、その家の権威は失墜する。  ゆえに使用人たちはいつも以上にピリピリとする。そんな状態の彼らとの打ち合わせなので、精神的な負担も大きい。もしもミスがあれば、すべて部外者のこちらの責任にもされかねないし。 (はぁ、本当に疲れた……)  使用人、依頼者。それぞれとの打ち合わせを終え、俺は帰宅の準備をする。今日は店に寄らずにそのまま帰っていいということだったので、ありがたく直帰するつもりだ。  俺がこの業務に当たっている間、店の仕事はすべてナイムさんが一人でこなしている。心配は心配だけど、二軒隣の雑貨屋のおばさんが気にかけてくれるというので、その言葉に甘えていた。  配達業務も郵便配達の人に手伝ってもらうそうだ。外部委託の形になるため、収入は減る。でも仕方がないのだ。何事も健康第一、怪我がないことが一番だ。 (今日はルー、帰ってきたのかな)  ルーだけでなく俺も忙しくなったため、ルーとはここ数日まったく顔を合わせていない。  だけど、寂しいという気持ちはない。というのもアベラールさんの提案で、互いに手紙を書いているのだ。邸に戻ったときに便箋一枚に相手へのメッセージを綴る。それをアベラールさんに預けて、相手が戻ってきたときに渡してもらうというやり方だ。  このおかげか、以前より寂しいという気持ちは格段に減った。  ルーからのメッセージはいつもミミズが這うような乱雑な字で書かれている。受け取って最初にすることは、その文字の解読。ルーは時間の許す限り書きたいことをすべて書こうとしている。そのせいで文章はめちゃくちゃだし、文字は連なっている。側で見ていたアベラールさんが渋い顔をするほどだった。 『もう少し丁寧にお書きするようにお伝えしましょうか?』  あまりに見ていられなかったのか、アベラールさんが提案してくれたこともあった。その提案を、俺は断った。  だって、ルーは嫌がらせでこんな風に書いているわけではない。書きたいという気持ちが先走って、こんなハチャメチャなことになっているのだ。それがひしひしと伝わってきて、むしろ俺は嬉しくなる。解読の際中だって、ルーのことを考える時間が増えるわけだし。 「今日か明日には一度戻るって言ってたっけ」  最後の紙束を鞄にしまったとき。部屋の扉がノックもなしに開く。  顔をあげると、入口のほうに一人の若い男性が立っていた。その人の顔を、俺は知らない。 「え、っと。まさかまだ人がいるとは思わなくて……」  男の人は頬をポリポリと掻いた。気まずそうに泳ぐ目に、俺は緩く首を横に振る。 「本当にごめん。僕はピナール男爵の息子で、ジルと言います」  ピナール男爵とは今回の依頼者である。筋肉質で大柄、顎髭を蓄えた貴族というより、傭兵というほうがしっくりくる人だ。  比べ、彼のご子息だというジルさまは線が細く、儚げ。触れたら折れてしまいそうなほど虚弱に見える。 「こちらこそ申し訳ございません! すぐに出ていきますから……!」  というか、依頼者のご子息に謝罪させてどうするんだ!  俺は鞄を持って慌てて出ていこうとしたけど、テーブルの角にすねをぶつけた。予期せぬ痛みに崩れ落ちると、ジルさまは慌ててこちらに駆けてきた。彼の背丈に対して長すぎる上着は、ほとんど引きずっている形だ。 「だ、大丈夫⁉ 僕が焦らせてしまったからだよね、ごめん」 「いえ、俺の不注意です、お気になさらず……」  勢いよくぶつけたせいで、未だに立ち上がれない。悶える俺の前で、ジルさまはおろおろしていた。 「だれか呼んだほうがいい? もし必要なら」 「いえいえいえ! 本当に大丈夫です!」  このままだと従者かだれか呼ばれかねない。もし俺が貴族の客人ならば、彼の言葉に甘えただろう。でも、俺は花屋の従業員。そこまで気にかけてもらうような存在ではない。  少し休むと、痛みが引いていった。ようやく立ち上がり、俺は笑みを浮かべる。 「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」 「あ……うん、僕、役に立たなかったね。むしろ、キミに怪我までさせてしまって……」  ジルさまがまとう空気は、どんよりとしている。このままではキノコでも生やしかねない。 「僕はいつもこうなんだ。側にいると不運になっちゃう」  絨毯の上にへたり込み、膝を抱え始めたジルさまの頭の上にキノコが見える。幻覚だと分かっているけど、それくらい……その、じめじめした空気をまとっていた。

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