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 亜玲の指先は冷たかった。  その指に触れられていると、ゾクゾクとしたものが背中を駆けあがっていく。  ……頭が警告を鳴らした。このまま、ここにいてはいけないと。 「ふざけるな! 俺は、お前のことが嫌いなんだよ……!」  亜玲の手を振り払って、もう一度玄関のほうに身体を向ける。  ……時間の無駄だった。こいつと話そうとした俺が馬鹿だった。 (亜玲は、悪魔だ)  昔の天使のような亜玲は、もう居ないんだ。  今の亜玲は悪魔で、俺の不幸を願っているんだ。  ぎゅっと唇を結んで、俺は一歩を踏み出そうとした。……踏み出せなかったけれど。  それは、亜玲が俺の手首を掴んだからだ。 「なに、逃げようとしてるの?」  そう言った亜玲が、俺の身体を自身のほうに引き寄せる。気が付いたら、俺は亜玲の腕の中にいた。  驚いて目を見開けば、亜玲がぎゅうっと俺の身体を抱きしめてくる。……冗談じゃ、ない。 「離せ! お前にこんなことをされる筋合いは……!」  亜玲の腕の中から抜け出そうと、暴れる。が、そんな俺の抵抗を簡単にねじ伏せて、亜玲は素早く俺の身体を床に押し倒した。  そのまま亜玲は俺の身体の上に跨ってくる。頭の中でさらに強い警告音が響く。このままだと、ダメだと。  黒曜石のような目が、俺を見つめている。その目の奥に宿った感情は、一体なんなのだろうか。 (って、こんなことを思っている場合じゃない。さっさと、逃げよう)  だから、俺は暴れる。  でも、亜玲にいとも簡単にねじ伏せられてしまった。俺の抵抗は、亜玲には小さなダメージ一つ与えられなかった。  亜玲が俺の肩を掴んでまた床に押し付ける。……その力は遠慮がなくて、痛みを与えてくるほどだ。 「あのさぁ、祈」 「な、んだよ……」  俺を見下ろす亜玲の目が、怖い。  その所為だろう。俺の声は震えていた。……怖い。本能が、そう告げる。  そんな俺の気持ちなど知りもしない亜玲は、俺の頬に指先を押し付けて来た。先ほどと同じ、冷たい指先だ。 「なに、か言えよ……!」  沈黙が場を支配することに耐えられず、俺は震える声でそう吐き捨てた。  互いの呼吸の音だけが聞こえる空間。……辛い。いたたまれない。  にっこりと笑った亜玲が、俺を見下ろす。そして、奴の指が俺の頬から顎に移動し、そこを掬い上げる。 「……祈、可愛い」 「――っ!」  亜玲は、そう囁いた。  そして、俺の唇に自身の唇を重ねてくる。  ちゅっと音を立てて口づけられて、俺は目を見開いた。  ……こいつ、今、なにをした!? 「な、なっ!」  ゆっくりと離れていく亜玲の顔を、まじまじと見つめた。  なんで、なんでこんなことされなきゃならないんだよ! 「な、にするんだよ……!」  なのに、抗議の声は小さくて震えていて、弱々しい。  思いきり強く言いたかったのに、言えない。気が動転して、脳内が行われたことを理解したくないと訴えてくる。  そりゃそうだ。だって今、俺は、亜玲と口づけて――。 「可愛い反応だね。……キスだけで、こんなに可愛いなんて」  亜玲は俺の話なんて聞いていないようだった。そう呟いて、俺の頬を指先でするりと撫でる。  冷たい指先が火照った頬を冷ましていく。……心地いい、なんて、思ってはダメなのに。  どくんどくんと、心臓が嫌な音を立てている。……と、とりあえず、なんとかして、亜玲の下から抜け出さないと……。 「ふ、ふざけ、るな……」  なにか言わなくちゃ。  そう思った俺の口から出てきたのは、覇気のない言葉。 「遊びで、口づけなんてするな。……こんなの」 「こんなの、なの? 気持ちが通じ合っていないって言いたいの?」  亜玲は俺のことをバカにするような声でそう言った。  ……なんだこいつ。本当に、悪魔みたいな男だ。 「祈って、案外バカだよね。……キスなんて誰だってするでしょ。気持ちが通じ合っていなくても、遊びでも」  にっこりと笑った亜玲が、俺を見下ろした。  俺は、息を呑む。だって俺は、亜玲みたいな考えじゃない。

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