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第1話 初めての夜
〈喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます〉
はがきをひっくり返すが差出人は見覚えのない名前だった。
宮沢夏希。
誰だろう?
もう一度、はがきを返して文面を確かめる。
父親が本年三月に永眠したと伝えている。
今年の三月……。
訃報はなかった。
葬儀にも出なかった。
……何も知らなかった。
〈ここに本年中に賜りましたご厚情に感謝致しますと共に皆様に良き年が訪れますようお祈り申し上げます〉
ふと高校時代に習った詩を思い出す。
玄宗皇帝が楊貴妃を偲んだ言葉だったとか。
天に在りては願はくは比翼 の鳥となり
地に在りては願はくは連理 の枝とならんと
(在天願作比翼鳥
在地願為連理枝)
ぼんやりハガキを眺めていると、かんかんと奇妙な音が耳に届いた。
窓の外で男が掃除用具で窓ガラスを叩いている。
一人用のブランコのような物に跨って窓ガラスの清掃をしているのが、器具の先でガラスを叩いているのだ。偶然の音ではなく明らかにこちらに向けた合図だった。もう一方の手は机の上を指差している。
「部長っ! こぼれてる、お茶こぼれてますって!」
飛んで来た若い部下が、机の上に転がっているお茶のペットボトルを立て直した。
はがきをひっくり返して見た際に倒してしまったらしい。机の上には黄色いお茶が広がっている。
若い社員がティッシュでそれを拭くのを、他人事のようにぼんやり眺めていた。
窓の外の掃除人にはお礼の代りに片手を上げて見せた。
窓からは午後の日差しが差し込んでいる。その陰になり顔も姿も判然としない掃除人は、ヘルメットを被った頭をこくんと動かして、ブランコで下の階に下がって行った。
✻ ✻ ✻
あれは何年前のことだったろう。
十年いや二十年……いやいや、もっと昔だったはず。
少なくとも令和ではない。
平成になったばかりのはるか昔のことだった。
竹田理知 はビル窓拭きの作業員だった。高層ビルの窓拭きである。常設型のゴンドラに複数で乗って各階の窓を拭いて行く作業だった。
あの時、高層ビルにも関わらず屋上ドアが施錠されていなかったのは清掃作業中だったからである。
五十嵐祥真 がその事実に気づいたのはもっと後になってからである。
ただ飛び降りることしか考えていなかった。無意識にドアを開け屋上に出てふらふらとビルの端に近づいて行ったのだ。
あの日は台風の前触れで強風が吹いていた。夏が終わるなりやって来た大型台風が日本に上陸するのではないかと危ぶまれていた。
ゴンドラで清掃作業をしていた作業員達は全員一旦屋上に戻っていた。作業を中断するか上からの指示待ちのようだった。
それでなくとも高層階は風が強いのだ。祥真が首に掛けた社員証やネクタイは背中に向かってはためいている。しまいにはメガネまで吹っ飛ばさたのに、それにも気づかずひたすら足を前に運んでいた。
「落ちましたよ」
と理知が差し出したメガネを「どうも」と受け取り内ポケットに入れると、尚も先に進もうとした。
街中でならどうということもない風景だろうが、風吹きすさぶ高層ビルの屋上である。髪振り乱したスーツ姿のサラリーマンと、ヘルメットを被りハーネスを着けた窓拭き作業員のやりとりは傍目にも異様だったのだろう。数人の作業員がやって来て祥真を取り囲むのだった。
「ここは寒いから中に入りましょう」
理知は強引に祥真の肩を抱いてドアに向かおうとした。無言で抵抗する祥真の身体を他の作業員が押しては、
「風が強くて危険ですよ。窓拭き作業も中止ですよ」「台風が来るから。中に入りましょう」
などと建物の中に押し込むのだった。
おそらく殆どの者が祥真の自殺願望に気がついていたのだろう。
けれど室内に戻った後も青ざめて震えてる祥真に寄り添っていたのは理知だけだった。
「冷えたでしょう」
とグローブをした手で祥真の背中といわず腕といわず、身体を擦っているのだった。まるで雪山遭難者を温めるかのようだった。
これも後々知るのだが、竹田理知は登山が趣味で遭難救助のボランティアもしていた。ゆえに高所を怖れることなく高層ビルの窓拭きをアルバイトにしていたのだ。
逆に祥真は何よりも高所が怖く、だからこそ自分を殺す場所に選んだのだ。正反対の二人だった。
現場監督が本日の作業終了を告げた後で理知は祥真に声をかけた。
「よかったら吞みに行きましょう」
他の作業員達は喜んでエレベーターに飛び乗ると、地階に向かっていた。
「いや……私はまだ……六時まで仕事が……」
ぶるぶる震える手を出せば腕時計は三時半を示していた。
なのに理知は腕時計と祥真を見比べて、吹き出したのだ。とてつもない冗談を聞いたかのようにげらげら笑っている。
「いや、あんた。仕事もクソもないだろう。屋上から飛び降りるつもりだったんだろう?」
「いや……別に、私は……」
「早退しろよ。仕事なんかしてる場合か。こういう時は呑むに限る」
ばんばん肩を叩いて笑い続けた。
「一階の玄関で待ってるぞ。五十嵐 さん」
思わず頷いていた。
何故名前がわかったのだろう?
体調不良による早退と告げた上司は心の底から心配そうな顔をした。
「真っ青じゃないか。早く帰って、土日はゆっくり休むといい」
金曜日の夜だった。もう家に帰りたくはなかったのだが、おとなしく頷いて帰り支度をした。
一階に降りてエントランスに立っているガードマンが胸の社員証を見るに及んでようやく気がつく。
だって、社員証には〝五十嵐祥真 〟と書いてあるではないか。
そんなことにも気づかぬ程に取り乱していた祥真と理知の出会いだった。
理知に連れて行かれたのは浅草だった。まだ昭和が残っているようなさびれた町に、昼間から店開きしている呑み屋街があった。
今やそこは〝ホッピー通り〟などという名称の観光名所となっているが、当時はただのうす汚い呑み屋街だった。
モツ煮を肴に焼酎のホッピー割りを呑む。普段はビールから始まってウィスキー、日本酒と進むのだが、理知とビールで乾杯の後、焼酎に突入していた。
九月が始まるなりやって来た台風だった。いよいよ日本に近づいているらしく、風も強まり掘っ立て小屋のような呑み屋はギシギシ異音がしていた。酔っ払いどもは、
「電車が止まってるらしいぞ」「地下鉄なら大丈夫だ」
などと大声で言いながら腰を上げようとはしない。
理知は自分のことばかり話していた。大学生であること、登山が趣味で装備や交通費などやたらに金がかかること、だから窓拭きのアルバイトをしていること等々。
「家で呑み直しますか」
と浅草を出るまで、いや翌日になるまで祥真が何故屋上にいたのか尋ねることはなかった。
風はいよいよ強くなっていた。二人抱き合うようにして地下鉄駅に避難する。
銀座線から丸ノ内線に乗り変えて浅草駅から理知のアパートがある中野坂上駅まで。酔いに任せて肩を組んだり抱き合ったりしながら地下鉄を乗り換えて、中野坂上に着く頃にはすっかりその気になっていた。
地上はますます台風である。頭上の電線を鳴らして疾風吹きすさび、時折叩きつけるように雨粒が走って行く。
人気のない通りをもつれるように歩きながら、くすくす笑って顔を寄せては何度も口づけをした。理知はげらげら笑って祥真の唇も舌も受け入れた。
翔真のメガネを外して理知は頭部を抱え込んだ。改めて深いキスをするかと思いきや、酔いのせいか互いの前歯がガッチリ当たって「いってー!」とうずくまったり、子供のいたずらのような前戯だった。
台風に心も身体も煽られていた。
そうしてアパートの部屋に入るなり、明かりも点けずに抱き合った。
狭いキッチンで濡れたキスを繰り返しながら服を脱ぎ散らし、もつれるように六畳間に転げ込み肌を合わせた。
普段ならこんな性急なことはしない。相手が同性愛者かどうかも知れないのに、迂闊なスキンシップはしない。
けれどこの夜の翔真は理性など吹っ飛んでいた。理知の言葉を借りるなら、
「セックスしようぜ。遠慮なんかしてる場合か。こういう時はやるに限る」
とばかりに男の身体を貪っていた。
安アパートの窓はガタガタ激しく鳴る。外で吹きすさぶ強風よりも凄まじい獣の咆哮が聞こえる。と思いきや、祥真自身の嬌声だった。
こんな淫らな声を上げ、こんな恥ずかしい体位で交わるのは初めてのことだった。そもそもネコなど初めてだった。理知に誘われるまま身体を洗い、背後を明け渡していた。
泣いているのか喘いでいるのか自分でもわからない。身も心も淫欲に悶えるばかりで猥らな声を抑える事も出来なかった。
汗か涙か唾液なのかよくわからない淫液で互いの肌は濡れては滑りいやらしい音を立てている。これまで知り得なかった快感に悲鳴に近い声を上げては何度も絶頂に達した。
翌日も二人は抱き合った。
台風は進路をそれたらしく晴天の朝だった。安普請のアパートには外の道を楽しげに歩く家族連れの声が聞こえて来る。土曜日の朝しかも台風一過である。遊びに行けるのを喜ぶ子供らの歓声だった。
二人はといえばカーテンを閉め切った部屋で淫靡な行為に耽っていた。
今日は祥真も理知の背後を襲った。滑らかな背中に歯を立てて愛噛を残しては激しく攻めた。
「んっ、んっ、んっ、んっ……」
理知が堪え切れずに漏らす声は特徴的な響きがあった。それが祥真をより興奮させた。縋るかのようにシーツを握り締める手に指を絡めて心行くまで抜き差しして、
「あッ……ああッ、くっ、いいっ、イクーッ!!」
あられもない声を上げて精を放っているのだった。
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