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第2話 初めての夜
「久しぶりだった?」
見事に言い当てられたのは、正午過ぎに部屋を出てからだった。思わず赤くなってうつむいてしまう。
「すっげ濃かった」
そっと横を見れば理知はちろりと舌を出している。夕べ初めて飲んだ祥真の精液のことらしい。何ひとつ言い返せなかった。全身が燃えるように熱くなり、耳まで真っ赤になっていた。
けらけら笑いながら理知に肩を叩かれて、
「メシ、ここでいいか?」
とフライドチキンの店に誘われた。店内からは揚げ油の臭いが漂って来る。
翔真は足を止めて、辺りを見回した。目についたラーメン屋を示して、
「あっちの方が……」
と足を向けた。
だが、カウンターで目の前にラーメンが出された途端に激しく後悔した。
丼の上には比喩ではなく山盛りの野菜や肉が乗っている。ひょっとすると麺よりモヤシやキャベツの方が多いかも知れない。
所謂 二郎系ラーメンだった。そうと知っていれば店には入らなかった。
「この店、残すと怒られるぜ」
と理知は慣れた風に割り箸で麺と野菜をひっくり返すと、わしわし口に運んでいる。実に見事な食べっぷりである。翔真といえば見ているだけで満腹になりそうなのに。
カウンターの内側ではタオル鉢巻の強面の店員が逞しい腕をぶんぶん振っては麺の湯切りをしている。
こわごわ野菜の下の麺をほじくり出していると、
「半分食うよ」
理知は自分の丼を差し出した。
「五十嵐には無理だろ?」
何をもってしてそう判断したのか知れないが(確かに翔真の方が痩せてはいるが)従うしかなかった。
「ごめん」
と箸とレンゲで大量の麺を持ち上げて隣の丼に移した。
それもまた見事に理知の口中に消えて行く。
「さっさと食わないと麺がスープを吸ってもっと重くなるぜ」
言われてあわてて麺を啜る。
「そんで、五十嵐っていくつ? 俺は20才 。大学三年生だけどさ」
言われて驚く。
祥真は既に三十路に入っていた。それを聞いても理知はさして驚かなかった。
「ふうん。ちょっと年上なだけかと思ってた」
と呟きながら角切りチャーシューを丈夫そうな顎で咀嚼している。
「じゃあもう結婚してんの?」
またこくんと頷く。
理知はにわかに顔を上げて、
「それは……」
まっすぐ祥真を見た。
「……結婚してるのと、昨日屋上にいたことは関係あるの?」
これも頷くしかなかった。
「……子供が出来なくて」
それだけ言ってラーメンを無理にも口に押し込んだ。
「ふうん」呟くように言いながら理知は丼を持ち上げてスープを飲み干した。
「妻ならあのラーメンも完食するかも知れない」
店を出てからぽつりと言った。
「痩せの大食い……今はポテトばかり……」
言いかけて黙り込んだ。ゲップが出てしまう。半分ほど理知が食べてくれたのに、それでも翔真は腹いっぱいなのだった。
「子供が出来ないんじゃなく、僕が……出来ないんだ。女と……妻と……」
地下鉄の駅に向かっていた。理知と祥真は並んで歩いている。昨夜ふざけてキスをしながら歩いた道だが、通行人も多い昼下がりの今そんなことは出来ない。ただ歩くたびに動かした腕や手が触れる距離だった。
「女とは出来ない。勃たない……」
「じゃあ何で結婚したんだ?」
「上司に勧められたから。親戚の娘さんで……どうせいつまでも独身でいられないし」
「それで結婚したけど奥さんと出来なくて、子供も生まれなくて……それで、屋上に行ったわけ?」
祥真は口を引き結んで答えなかった。
そんな風に簡単にまとめて欲しくない。
けれど適確なまとめであるのは確かだった。
「じゃあ、君はみんなに言ってるのか? 自分が男と……そういう人間だって」
妙につっかかるように言ってしまう。理知は祥真よりほんの少し背が高い。まっすぐ目を見るには、わずかに顔を上げなければならない。何だか自分が大人に突っかかっている子供のような気がする。
「誰にでも言うわけじゃないけど。知ってる人は知ってるよ」
「だろうね」と皮肉な口調で言いそうになる。
何故か竹田理知という男は自由人に思える。同性愛者であることも恥じることなく身近な人に打ち明けているのだろう。それは羨ましくもあるが、どこか危うく思えることでもあった。祥真が典型的サラリーマンだからそう感じるのかも知れないが。
「昨日、地下鉄に乗る前に電話してたのは奥さん?」
「……台風で電車が止まりそうだから、友達の家に泊まるって」
そう答えた時には二人は地下鉄の入り口に着いていた。
「じゃあね」と踵を返した理知に、
「電話番号を……」
と携帯電話を出したのは祥真だった。
あの頃はまだスマートフォンはなかった。パッカンと二つ折りになるガラケーが最新機器だった。理知は祥真が広げたガラケーを黙って見ていた。
「別に、もういいだろ」
理知は自分の携帯電話を出すこともなく「じゃ……」と今度こそ祥真に背を向けて、来た道を戻って行った。
「もういい」って……何だそれは?
ひどく見下された気分で、つい今しがたまでの甘い後味は消えていた。
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