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第3話 妻との朝

 2LDKのマンションの玄関には女物の靴が常より多く並んでいた。ため息をついてリビングのドアを開けると油っこい臭いが押し寄せて来た。 「ただいま」と言うのに重ねるように、 「あら祥真さん、お帰りなさい」  声をかけたのは義母だった。  妻の佳苗(かなえ)は義母の向かい側のソファにへたり込んでフライドポテトを貪り食っていた。フライドチキン屋の大箱なのにチキンはなくポテトばかりが詰め込まれている。 「お帰りなさい」と言う妻ではあるが芋を頬張りながらだから「おあえりなはい」と聞こえる。それを「佳苗さんたら、だらしない」とたしなめる義母である。 「夕べは台風で電車が止まったんですって、祥真さん? 大変だったわねえ」 「……どうもすみません」  と口の中でもごもご言う。  妻の両親はここから電車で一時間程の横浜市内に住んでいる。一人娘だから何かというとやって来るのだ。 「こっちは台風の被害なかった?」  尋ねる夫に相変わらずポテトを咀嚼しながら頷く妻である。  室内にかすかに漂う女の臭いにひそかに眉をしかめる。妻や義母は常にきちんと化粧をしており甘い匂いを漂わせている。  こういった女の臭いが翔真を萎えさせる。一度として妻との性交渉が成り立ったことはなかった。  新婚初夜からしばらくは、結婚式で疲れている、新生活に慣れないと言い訳も出来た。  だが、いつまでたっても翔真は女体に興奮することなく勃起することもなかった。  空しく裸の身体を重ね口づけや愛撫を繰り返しては「ごめん」と謝る夜が続いた。  佳苗は処女で嫁いだから、勃ち上がらない夫にどう対処すべきかわからないらしく同じく「ごめんね」と謝るばかりだった。  けれどやがて性生活について学んだらしく、翔真のものにおっかなびっくり触れてもくれた。だがその細く柔らかい手指にぞっとして、ますます萎えるばかりだった。  妻が病院に相談に行こうと言い出したのは、翔真が離婚しようと切り出した時だった。 「僕は夫としての務めを果たしていない。早いうちに離婚した方がいいと思う」 「離婚なんて……もしかしたら病気なのかも知れないわ。二人で産婦人科に相談に行きましょう」 「いや。早目に別れて君はもっと立派な男性と結婚した方が良い。人生は長いんだ」  言い募る祥真に妻は言ったものだった。  「そうよ。人生は長いのよ。ほんの数ヶ月で結婚を諦めることなんかないわ」  妻は正統な女言葉を使う。仲人の上司が今どき珍しく言葉がきれいだと褒めていた。結婚後しばしば義母が訪れるに及んで、母親譲りなのだと知った。  このわざとらしいまでの女らしさもまた翔真を萎えさせる原因の一つだった。  人生は長い。  そんな台詞を吐いていた自分に教えてやりたい。  ああ、まったくだ。  うんざりするほど人生は長いのだ。  夫婦は結ばれることなく結婚一年目が過ぎた。  誰よりも早く〝赤ちゃん〟〝孫〟と言い出したのは妻の両親だった。何しろ一人娘である。  祥真は長男ではあるが実家の両親に〝跡継ぎ〟を急かされることもなかった。既に姉に二人も子供がいたから両親はそちらの孫に夢中なのだった。そもそも家名を残す程の大した家でもない。  そんなある日妻は唐突に嘔吐した。台所で朝食の仕度を始めた時である。シンクに顔を突っ込むようにして吐いたのだ。口から何も出なくなってもえづき続けた。  慌てて病院に連れて行こうとしたが、 「大丈夫。少し休めば治るから……」  と頑なにそれを拒んだ。  その日から妻は毎日のように吐いては寝込むようになった。食欲もないらしく、翔真が用意したレトルト粥も喉を通らない有様だった。 「大丈夫だから。何ともないから」  と言うけれど、もともと大食いな妻である。食べなければ痩せて行くばかりである。  抱きかかえて車に乗せて病院に行こうとする翔真に、 「じゃあ、産婦人科の病院に……」  と指定される。  婦人科系の病気だったのかと言われるままに病院に連れて行って、医師から言われたものだった。 「おめでとうございます。ご主人、奥さんは妊娠三ヶ月ですよ」  祥真はただ呆然とするばかりだった。体育の授業で使うマットを重ねてぼすんと頭を殴られたかのように頭が真っ白になっていた。しばらく意味が飲み込めなかった。 〝妊娠三ヶ月〟とは何の病気だろう?  というギャグに等しい疑問まで浮かんだ。  だってそうだろう?  こちらは何もしていないのだ。  医師の前で佳苗はにこにこ笑って祥真の手を握っていた。それを珍しい生き物の生態であるかのように眺めるばかりだった。  産婦人科から戻っても佳苗の嘔吐は止むことがなかった。 〝つわり〟なのだった。  ようよう気づいて、真っ白な頭の霧が晴れると今度は逆に視界が異常にクリアになった。 「同窓会?」  祥真はそう言い当てていた。  妻は強く唇を引き結んだ。  図星だったようである。  しばらく前に佳苗は横浜の実家に泊まって高校の同窓会に出席していた。  祥真は久しぶりに一人の夜を楽しんだものだった。はっきり言えばレンタルビデオ店でゲイのビデオを借りて来て(今のように配信がある時代ではなかった)自慰に耽ったのだ。出会い系サイトを覗きもしたが、実際に相手を探すのは思い留まった。    あの時、妻は生身の男と生殖行為に励んでいたわけである。おそらく高校時代の同級生と。佳苗の処女を奪ったのも妊娠させたのも夫の祥真ではなかった。  まるで陳腐なメロドラマである。  佳苗は必死で言い募ったものである。 「だって、子供が欲しかったのよ。あなたが嫌いになったわけじゃない。ただ子供が欲しかっただけ。お父さんもお母さんも孫を待っているのよ」 「孫が何だ!?」と言い返す前に妻はまた口元を押さえてトイレに駆け込んでいた。  深刻なつわりと思ったが、妊婦としては当然だと告げたのは家事手伝いにやって来た義母だった。  妻は夫に断ることなく医師の診断を実家の両親に告げていた。  このあたりから夫婦は意思疎通を欠くようになって行く。  決して話さないわけではない。傍には仲睦まじい夫婦に見えたかもしれない。何しろ胎児の父親が祥真ではないという秘密を分かち合っているのだから。  けれど肝心な事は伝え合わずに家庭内の物事がちぐはぐに進んで行くのだった。  初産を案じた義母が一時間の距離を電車に乗っては手伝いにやって来た。そうして何も食べられないくせに、フライドポテトなどという油っこい物ばかりを貪り食う妻と、滞りなく家事を進める義母に囲まれ、祥真はもう全てがどうでもよくなっていたのだ。  祥真が勤める輸送会社の食品輸送部の部長こそが夫婦の仲人だった。他の社員は営業に出かけ、仲人の部長と二人だけぽつんとオフィスに残っていたのだ。  デスクワークをしていた祥真は、窓からビル街を覆う台風の暗雲を見た時に、思わず席を立っていた。あの墨を流したような雲の中に紛れて消えてしまいたい。いや自分こそがあの暗雲そのものなのだ。  台風の低気圧に導かれるように部屋を出ると、エスカレーターで高層ビルの最上階に昇ったのだ。  そうして竹田理知と出会った。  今となってはあの本社ビルの屋上が何階だったか覚えていない。三十階だったか四十階だったか。  少なくとも今のこのビルよりはるかに高かったはずである。定年間際に出向になった関連会社はわずか十二階建てのビルだった。人が死ぬには十分の高さだが。 〝定年〟などという言葉を自分が使うようになるとは。  ああ、人生は実に長かった。

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