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第4話 妻との朝

 台風がきっかけで妻は実家に戻ることになった。産み月にはまだまだ早いが、 「あんな嵐の日に、お腹の大きな娘が一人でお留守番してると思ったら、私もお父さんも心配で心配で……できれば早めに佳苗を実家に帰して下さらないかしら?」  義母に切々と訴えられたのだ。  翌週の日曜日には荷物をまとめて佳苗は義母と共に実家に帰って行った。残された夫が一人で食べられるように冷凍庫には手作り総菜をどっさり仕込んであった。  当の祥真は運転手よろしく大荷物を携えた二人を実家に送ったのだった。内心せいせいしていたのだが、決してそんな顔は見せなかった。  お茶をご馳走になって義実家を辞する時、 「あなた、そのメガネ何か変じゃない?」  妻に言われて初めて気がついた。  メガネを外してためつすがめつしてみれば、ツルが少しく歪んでいるのだった。あの屋上で強風に吹き飛ばされて落ちた際に歪んだらしい。それを無理に使っていたから、いよいよ歪みが悪化したのだろう。 「新しくしなくちゃな……」 「新しいメガネが出来たら見せてちょうだいね」  というのが妻との別れ際の会話だった。  実はその時、祥真が思い出していたのは竹田理知のことだった。彼にも新しいメガネを見て欲しい。けれど連絡先を教えてもらえなかった。  なのであの日からもう会ってはいない。  夜毎あの日の交わりを甘く思い出すばかりである。  一人で運転して妻の実家から戻るはずが、何故か翔真は車を中野坂上に向けていた。  車はアパート前に路上駐車して、理知のアパートのドアチャイムを鳴らした。何をどうするつもりなのか自分でもわからなかったから「はい?」とドアの隙間から顔を出した理知に、翔真は言葉を飲み込んで棒立になるしかなかった。 「ああ」との声に少なくとも忘れられてはいなかったと安堵する。  理知は先日とはかなり印象が異なっていた。アイロンの利いた清潔なシャツを着て、整えた髪からは整髪料の爽やかな香りがする。 「先日のお礼をしたいので、ご都合のよろしい時にご連絡をいただけたらと……」  祥真はにわかに体勢を立て直し、ポケットから名刺入れを取り出すと両手で名刺を差し出した。その姿は我ながら絵に描いた社畜のようだった。  対照的なのは理知だった。名刺を片手で受け取るなり、反対側の手を祥真の腰に回して身体を引き寄せたのだ。そして濃い口づけをして来た。祥真は間髪入れずに相手の身体に手を回し唇を開いていた。押し入って来た舌を夢中で舐る。  理知の口中はミントの香りに満ちていた。まるでたった今歯を磨いたかのようである。互いに身を擦りつけるようにして唇を貪っていると、二人の顔に挟まれたメガネがおかしな具合にずれて肩に弾んで下に落ちそうになった。 「あっ」と祥真が声を出すより早く「ラク」素早く身をひねって片手でそれを受け止めたのは理知だった。  その瞬発力に驚く間も与えずに、理知はメガネを持った手を祥真の首筋に回してキスを続行しようとしている。互いの下肢は密着しており充分に硬いものが感じ取れる。  そこに派手なクラクションの音が響いた。細い路地に駐車した翔真の車に対して、通れない車が鳴らしているらしい。ぎょっとして身をすくめた祥真を身体から引っぺがすようにして、ドアの外に押し出す理知である。いちいち行動が素早い。 「このアパートの専用駐車場は裏にあるから」  もつれるような足取りで玄関を出て行く祥真に、 「すぐ戻って来いよ。お礼は……あんたでいいから」  ドアの隙間から顔を出した理知は、唇からちろりと舌を出している。祥真はもう頭に血が上って、いや下半身にも血が集まっていたのだが、必死で車を移動しに走ったのだった。  そうしてその夜もまた淫乱の限りを尽くしたのだった。  理知はすっかり身体の準備が整っており、祥真はその逞しい身体に己の物を心行くまで突き立てた。後になって知ったのは、 「本当は二丁目に行くつもりだったんだ」  とのことで、なるほど整髪剤やらミントの香りやら全てが準備万端のはずだった。 「んっ、んっ、んっ、んっ、んっ……」  攻められるたびに常とは異なる切ない声をあげる理知に、祥真は全身総毛立つような快感を覚えて昇り詰めるのだった。  向後はこの声を独り占めしたいと思ったり、自分のような年上より理知は新宿二丁目で若いウリセン相手にこの悦楽の声を出したいのだろうと思ったり、心は千々乱れる。  だが逆に自分が攻められれば、この年まで知り得なかった快楽に嬌声を上げては何度も身を震わせるのだった。  五十嵐祥真は、妊婦の妻が実家に戻った日に浮気をしたわけである。しかし妻が孕んでいるのは浮気相手の子なのだから、お互い様である。  罪悪感が頭をもたげそうになる度に、そう思ったりするのだった。 ✻ ✻ ✻   その日から祥真は理知の部屋に入り浸るようになった。会社にもそこから出かける。  時に必要な物を取りにマンションに戻ると、室内に籠った女の匂いとフライドポテトの臭気に辟易するのだった。  窓を開け放って空気の入れ替えをして、ふと思いついて冷凍庫に詰め込まれた手作り料理をレジ袋に入れると夫婦の部屋を後にする。冷凍の料理は理知と共に食べることになる。  理知の部屋、会社、マンションというトライアングルに、週末は妻の実家も加わって子供が生まれるまで祥真の生活はこの四点を行き来して成り立っていた。  メガネを新調したのも理知の部屋に近い商店街の店だった。 「これがいいよ。もっと派手なのにしろよ」  と理知が勧めるフレームは派手というより珍奇に思える。キャンディバーのようなねじねじ模様のメガネが似合うのは、サラリーマンではなくコメディアンである。  せめて以前より少しばかり派手な赤いフレームにしてみるのだった。それを見た妻は、 少しく眉をひそめながら、 「また冒険したわねえ」  などと言うのだった。 「祥真さんも親になるんだもの。今までと違って陽気なイメージになりたかったのよね」  義母は婿を庇ったつもりで図らずも今までは陰気と思っていたことを露呈してしまうのだった。  だが別にもうどうでもよかった。  嫁も義実家のことも生まれて来る子供でさえ。  まして自分の実家の家族など。  一度として同性愛に関して打ち明けたことのない人々である。多分死ぬまで隠すのだろうと思っていた。そうして実際そうなった。  大体が祥真の人生はただの成り行きだった。自分のような規格外れな人間は自己主張などせず周囲に合わせて生きればいいのだと思って来た。高校も大学も成績と学費が許す範囲の学校に入ったし、会社も合格範囲内を選んだだけだった。そして勧められるままに結婚して今やこのざまである。  思春期以降に目覚めた性欲を解消する努力だけは必死でした。今のようにSNSも検索もない時代でも出会いはあった。同好の士に向けた雑誌(紙媒体である!)やガラケーでの出会いもあったのだ。だがあくまでも肉欲のみである。   竹田理知と出会って初めて〝恋愛〟と言えるような感覚を味わった。  もちろん「好き」だの「愛している」だの宣言したことはない。せいぜい、いつまでも名字で呼び続ける理知に、 「たまには五十嵐じゃなく祥真って……」  と、せがむぐらいだった。 「ダメだよ」  即答だった。  終わってまったり枕に頭を寄せ合っていたのが妙にきっぱり断言していた。 「慣れたら俺、外でもそう呼んじゃうから」 「いいよ? 別に」  少々無理をして言った。名前で呼ばれたかったから。くすりと笑って理知は指先で祥真の耳たぶを玩んだ。 「よくないだろう。こんな若造に名前で呼ばれるサラリーマンて変だろ。ばれるぞ?」 「…………」 「だから五十嵐は五十嵐でいいの」  少なくともその気遣いが理知の祥真に対する〝愛〟だと思うしかなかった。  それ以上のことは言えるわけもなかった。こちらは妻帯者なのだから。  抱き合って女性とは果たし得ない行為を繰り返しては、これこそが恋愛なのだと思うばかりだった。    

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