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第11話 やがてひとつになるまでは
元は妻の実家だった横浜の家に戻るなり、祥真は熱を出して寝込んだ。
「連休の混雑した飛行機で風邪を拾って来たのね」
などと妻が言うのが正解だろう。
別に恋人に逝かれたショックで寝込んだわけではない。
そうして一週間ほど休んで出社した会社で、ぎりぎり賞味期限に間に合った土産の〝博多とおりもん〟という饅頭の菓子折りを部下に渡すのだった。
ショルダータイプのビジネスバッグは九州に持って行った物だった。中にはあのクリアホルダーも入ったままである。これは家に置くわけにはいくまい。とりあえずデスクの袖机の一番下の引き出しに保管することにした。ホテルでは読み尽くせなかった物がまだ残っている。涙はとうに出尽くした。
後はちびちび読んで楽しんでやる。あるいは理知がアメリカで結婚した奴の正体がつかめるかも……などと何やら意地になって、分厚いクリアホルダーを引き出しにぎゅうぎゅう詰め込んだ。
「あ、ほれと部長がお休みの時に来た郵便物…ほほひ置いとひましたよ」
饅頭を頬張りながら話すから若い部下の口調はもごもごしている。片手では祥真の机の未決箱を指差している。
「口の中の物を飲み込んでから話しなさい」
たしなめるのはまるで娘に言うかのようである。
「女のくせにはしたない」などとコンプライアンス違反のことは言わない。昔から祥真はその辺は慎重だった。何となれば「男のくせに」とゲイのタレントが嘲笑されたりするのを、身に棘刺される気分で聞いていたからである。
今ならそんな言葉に対しては「コンプラ」と一言で済むのに。
いい世の中になったものである。
理知と出会った頃とは雲泥の差である。
思わず知らずため息をついて、読書用メガネにかけ替える。
郵便物の中で最も大きな袋から開封する。
宮沢夏希から香典返しが送られて来ていた。九州銘茶セットと称する八女茶、知覧茶の詰め合わせだった。
そして印刷の挨拶状が入っていたが、末尾に手書きの追伸が添えられている。
〈P.S. 改めてChuckyのファイルを確認したら、SHOMA宛の手紙も混じっていたので同封します。本当にテキトーなオヤジでした〉
手紙のように折り畳んだ紙が入っているのが、それのようだった。
広げて見ればルーズリーフを引き千切った罫線入りの紙だった。
文字を読み進むうちに目頭が熱くなり、あわててメガネをもぎ取ってハンカチを目に当てた。デスクに両肘をついて両手で目を抑えていると、
「どうひまひた、部長?」
まだ〝博多とおりもん〟を食べている女子社員が声をかけた(何個食うつもりだ?)。
「いや……老眼が……久しぶりに書類を見るといかんな」
言いながら手紙をポケットに入れて席を立った。
トイレの個室に籠って改めてルーズリーフ用紙を広げて見た。
老眼鏡を忘れて来た。
けれどサインペンの黒インクははっきりと読み取れた。
何度も何度も繰り返し読んだ。
それを大切に胸ポケットにしまうと、顔を洗ってからトイレを出た。
仕事に戻るつもりだったが、何故か足はエレベーターに向いていた。
ぼんやりとボタンを押してやってきた箱に乗り込むと、十二階のボタンを押した。
まったくもって順番が逆である。
自分の方が理知より十才も年上なのだから、いつ倒れてもおかしくないのに。
心筋梗塞、脳溢血、くも膜下出血、その他いろいろ……この年なら何が起きてもおかしくない。
そうなった時に、あの引き出しに詰め込んだSHOMAと書かれたクリアホルダーは誰が見るのだろう。
チャッキーがやったような事後処理をしてくれるのは、妻の佳苗か娘の志穂里か?
誰も真実の祥真を知らずに弔うのだ。
その身は焼かれただの白い骨と化す。
何やら果てしなく虚しい思いに捕われる。
理知と出会った頃と大差ない希死念慮が今もふわふわ頭の中を漂っている。
もはや還暦も過ぎているというのに……。
頭の中も髪の色も漂白されたように真っ白なのに。
何も今更、積極的に死に向かわなくともいいのだ。じきお迎えが来るのだから。
そんなことを思いながら屋上に足を向けている。
十二階建てビルの屋上はドアノブの真ん中についた鍵を回せば誰でも解錠できる扉だった。そっと開いて外に出ると、
「ラーーーク!!」
唐突に大音声が響いた。
見れば屋上の柵外に立った作業服の男が地上に向かって叫んでいるのだ。
「誰か落ちたかっ!?」
祥真があわてて駆け寄ると同時に、男は柵を飛び越してこちら側に戻って来た。危うく正面衝突しそうになって相手の腕を掴みながら、
「何だ!? 誰が落ちたんだ?」
血相を変えて怒鳴ってしまう。
「えっ、いや……そうじゃなく!」
男は祥真の腕を払うように装着していたハーネスを外すと、
「すいません! スクイジー落としちゃって。拾って来ます!」
まるで上司に対するように頭を下げると走ってドアの中に入って行った。少年のようにも見える若い作業員だった。
捻じれた蛇の抜け殻のようにフルハーネスばかりが残された柵際で、こわごわ下を覗いて見る。
十二階下の地上にはまばらに人が歩いている。それらの人が何かをよけて歩いているのがわかる。
見ている間にビルから飛び出して来た作業服の男が、地上に落ちた道具を拾ってこちらを見上げた。手にしているのは窓を拭く際に使うT字型の道具である。
柵の手摺りに両手を掛けた祥真は、黙って頷いてそれを見ていた。
この柵を飛び越して、空に飛べば今度こそ全てが終わるのに……。
毎度おなじみの希死念慮だった。
だが、あれだけ人が歩いていれば巻き込み事故を起こしかねない。
それだけは避けなければ……。
「誰にも当たらなくてマジよかったっす! うっかり手を滑らせちゃって。めっちゃビビった!」
ばたばたと戻って来た作業員を、柵にもたれて祥真はぼんやりと眺めていた。
「君は……登山をやるのかい?」
「はい?」とまたフルハーネスを装着しながら青年は首を傾げている。
「〝ラク〟と言ったろう。登山者が物を落した時に言う言葉だ」
「へえ、そうなんすか。先輩に教わったんです。窓掃除してる時に物を落したら、地上にいる人に向かって〝ラーク〟って大声で叫べって」
祥真は思わず息をつめて問うた。
「その先輩というのは……何て名前の人だい?」
童顔の作業員はきょとんとした顔で、
「え、先輩の名前? ええと、柳……柳先輩っすけど?」
祥真は思わず吹き出した。
「そうか。柳先輩か」
げらげら笑いながら言っている。
〝竹田理知〟という名前が出てくることを期待していた自分がおかしくてたまらない。
青年は薄気味悪そうに祥真を眺めながら、また窓拭き作業に戻ろうとしている。
「君。君は前に……去年の暮れに、知らせてくれた人だろう?」
「はい?」
柵を越えて、さっさと作業に戻りたそうな風情の青年に祥真は尚も言葉を続けた。
「私が机にお茶をこぼしたのを教えてくれた。窓の向こうからその道具でガラスを叩いて……」
ようやく青年の表情が明るくなった。
「あっ、あのジジイ、いや窓際……じゃなく、あのおじさんでしたか」
「窓際ジジイの五十嵐だよ。よろしく」
にやにやしながら言ってしまう。
「あ、セミっす。ミンミン蝉のセミじゃなく、瀬戸際の瀬に見るの見」
と青年は作業着の胸に刺繍された名前をつまんで見せた。
〝瀬見千春 〟とある
「千春くんか。君はもう成人かい?」
「えっ? はあ、二十 っすけど」
「それなら、酒を奢らせてもらうよ。あの時のお礼だ。仕事は何時に終わるんだい?」
「三時半っすけど?」
「じゃあ、三時半に一階の玄関で待ってるよ。好きな物を奢ってあげるよ」
「えっ! カツ丼でもいっすか?」
「いいよ。何でも」
「やりっ!! あざーっす!!」
叫ぶなり青年は柵の向こうに飛び降りて姿を消した。
ぎょっとして身を乗り出して下を覗き込むと、ロープに繋がった青年は既に窓ガラスに両手を掛けて掃除を始めているのだった。
「千春くん! 三時半に一階の玄関でな!」
大声で言って、相手が手を振り返すのを見た。若い作業員がてきぱきと窓を拭いて行くのに見入っていると地に吸い込まれそうな気がして来る。
向き直って祥真は柵に背中を預けると空を見上げた。
胸に手を当てる。
内ポケットの中にはあのルーズリーフが入っている。
太く黒いサインペンで殴り書きされた理知の言葉である。
一体いつ書いたのかはわからない。日付の記載はなかった。
筆圧は弱かった。羽田のホテルで読んだ他の文字の鉛筆やボールペンによる強い筆圧とは異なる、サインペンでなければはっきり読めないような弱々しい筆跡だった。
一人暮らしのアパートに残っていた記録なら、余命を知った入院前に震えながら書いたのだろうか。
もはや知る由もない。
〈自死を遮った自分には
SHOMAの命に責任があるらしい
つまりは命の親である
ならば親として命令する
生きろ!!!
どんな状況にあっても
どんな瀬戸際にあっても
生き延びる道を探せ
決して自ら死を選んではならない
これだけは心に刻め
命の親の遺言だ
決して自死をしてはならない
やがて天寿を全うした時に
自分とSHOMAは
ついにひとつになれるのだ〉
ついにひとつになれる……。
理知はそう思っていたのか。
つまり自分達は、比翼の鳥にも連理の枝にもなれるのだ。
では、それまでは少しばかり遊ばせてもらおう。
ちらりと柵の外を見下ろせば、若者が生き生きと窓を磨き上げている。
そうとも。
高いビルは飛び降りる為にあるのではない。
ただひたすらに天を目指して建っているのだ。
もはや自分は単なる〝窓際ジジイ〟である。
娘より若い男の子とどうこうなろうとは思わない。
ただカツ丼を奢ってビールなんぞを吞みながら話を聞くだけである。
何なら国際山岳ガイドになった窓拭き作業員の話でもしてみようか。
それもまた善し。
ふいに柔らかい笑みが浮かぶ。
冬なのにぽかぽかと温かい小春日和の青空だった。
屋上の柵にもたれて五十嵐祥真はいつまでも空を見上げていた。
〈了〉
〈了〉
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