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第10話 一人の夕暮れ
「亡くなる二日前でした。ラーメン食べたか言うけんUber Eatsで取り寄せたとです」
「ラーメンですか?」
ホスピスに入院する時、通り道にラーメン屋があるのを見つけて、
「退院する時に、あそこで食べて帰ろ……」
そう言いかけて理知は口をつぐんだという。
ホスピスを退院するのは(例外もあろうが大概は)死んだ時である。それに気づいたのだろう。
かつてヨセミテで滑落事故に巻き込まれて入院した時、退院してタクシーでロサンゼルスの街を通った時にラーメン屋を見つけて入ったという。
「日本の豚骨ラーメン屋のロス支店です。ほんなこつ食べたかは二郎系や言うたくせに替え玉まで食べよって。やっと退院した気がする言うたとです」
その二郎系のラーメン屋がホスピスのそばにあったというのだ。
「出前を取って欲しか言うけんUber Eatsですよ」
もう食餌制限もない生活だった。というか殆ど食べられなくなっていたという。だから夏希も喜んで取り寄せて温め直した二郎系ラーメンを理知の夕食に供したが、
「野菜が山のごつあって驚いたとです。父は嬉しそうやったけど、麺やもやしを少しばあ啜ってスープを飲んで……もう食べられんやったです。後は私に食えと言うけん、全部食べましたよ。スープの一滴も残さず飲んだとです」
理知の一人娘は涙ぐんで言うのだった。
「その次の次の日……朝、父は目ば覚ましませんでした。お医者様は明け方に息を引き取ったんやなかかと……眠っとるような、穏やかな顔でした」
「眠ったまま……?」
宮沢夏希は厳かに頷いた。
「ホスピスにいる間に私の出生について詳しく聞いたとです。子供の頃は親が別々に暮らしとうとは、父の山の仕事が忙しいからと聞かされとったとです」
「お母様と二人だけでは寂しかったでしょうに……」
「何も。母の実家やったけん、祖父母や親戚もおって賑やかな家で育ったとですよ。父がいない寂しさはなかったとです」
「そうでしたか」
「……それなりにいい父親でしたよ。まめに絵ハガキや地方のゆるキャラとか、いろいろ送ってくれたとです」
一通り話してから、宮沢夏希はにわかに畏まって祥真に向かって頭を下げたのだ。
「父が亡くなった折、すぐご連絡が出来んと申し訳ありませんでした」
「いや、とんでもないことです。どうぞお気になさらず」
「父からスマホを預かったとです。もしもん時にはスマホのリストの人達に連絡をしてくれちうて頼まれとったです」
「おそらくリストに私の名前はなかったと思います。もう何年も会わなかったですし……」
逆に祥真の方が頭を下げた。
今だって祥真個人のスマートフォンに竹田理知の名前はない。
社用のスマホには〝山岳ガイド〟などと登録してあるし、宮沢夏希に到っては登録もしていない。
もし仮に自分の身に何かあっても、家族が理知や夏希に知らせらることもないのだ。
夏希が理知に託されたスマートフォンもおそらく似たような具合だったのだろう。
「父が入院中に呼ぶ人も仕事関係ばかりで、引き継ぎの話などしてました。もっと個人的なお友達を呼ばんくていいのかち私言ったとですよ」
だが、理知は首を横に振るばかりだったという。
「……きっと父は忘れられたくなかったとです。葬式なんかなかったごつして、いつまでもみんなん心ん中に自分ば生かしときたかったとでしょう」
祥真はただ口を引き結んでいた。
もしそうなら理知の思惑は大成功だったわけだ。祥真だって、あの喪中はがきが届くまで理知は世界の何処かでまだ生きていると信じていたのだから。
理知の一人暮らしのアパートはホスピスに入院する時点で解約したという。荷物も引き揚げたけれど、整理する余裕もなく物置に入れっぱなしだった。
亡くなって半年もしてから、ようやくそれらを少しずつ開封した。手書きの住所録やメモ帳、古い郵便物などを見つけ出して、年末の喪中はがきを書くに到ったと言う。
「喪中はがきも宛先不明で戻って来るんも多かったとです。ほんでも五十嵐さんのように、わざわざお焼香に来てくださる方もいらっしゃいました」
チャッキーは翔真と理知の関係について特に深く尋ねることはなかった。
「ジェフもこん夏には来てくれるとです。旦那さんと二人で。ついでに日本の観光もする予定や言うちょりました」
そんな風に世界各国に住む知り合いの一人と受け止めたようだった。
祥真が泊まらずに日帰りすると聞いた夏希は「待っとうと」とばたばた奥に戻ると茶封筒を持って来た。
中にあるのはメモやノートなど紙類が雑然と入ったクリアホルダーだった。表面に黒マジックで〝SHOMA〟と殴り書きされている。
「父が仕分けしとったファイルです。私のは〝Chucky〟ですけん。私が送った手紙やバースデーカードを保管しとったとが、母の手紙や他の物も混じっとりました。適当なオヤジです」
「ありがとうございます。後で拝見します」
と受け取って帰って来た。
古ぼけた玄関ソファに並んだ何体ものゆるキャラが祥真の背中を見送っていた。
✻ ✻ ✻
七月七日長生殿 夜半無人私語時
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
天長地久有時尽 此恨綿綿無絶期
七月七日の長生殿 人もいない夜半に二人だけで誓った。
「天にあっては比翼の鳥に 地にあっては連理の枝に」
悠久の天も恒久の地もいつかは果てる時が来る。
けれどこの悲しみだけはいつまでも続き絶えることはない。
白楽天の「長恨歌」は玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を詠ったものである。
高校の古文で習ったものを何故だか覚えていた。
それを自分と理知のことに例えていた。
ちゃんちゃらおかしい。
翔真は理知のことなど何ひとつ知らなかった。
出会った時、既に理知には妻子があったのだ。
なればこそ翔真の苦悩をわかってくれたのだろう。
羽田空港のホテルに一泊した翔真だが、それでも妻の待つ家に帰る気にはなれず、無暗に空港をうろついていた。
昨夜は飛行機の発着音を聞きながら、ベッドに理知が残したクリアホルダーの中身を広げていた。帰り際、夏希がくれた物だった。
翔真が会社から送った異動の挨拶状だの年賀状だの、色気のない紙切ればかりが挟まれていた。そして、それらには理知の字で走り書きがあった。受け取った日や感想だの、あれやこれやと思いつきが乱暴な文字で書き殴られているのだ。
日記代わりにこういったメモを残してはクリアホルダーに放り込んでいたようである。比較的新しい物ばかり入っているのは、年毎にクリアホルダーを刷新していたのかも知れない。
だがファイリングはかなり適当だったらしく、チャッキーこと宮沢夏希からの古い手紙まで混じっていた。
〈パパはいつもチャッキーにごはんは全部食べなさいと言います。でもMr.イガラシのパスタを半分食べてあげた。ずるいと思います〉
便箋の鉛筆の文字はすっかり擦れている。何十年前の娘の手紙だ?
その裏側に走り書きがあるのは、たぶん返事の下書きなのだろう。
〈チャッキーはまだ育ち盛りだから、たくさん食べて栄養をとらなきゃいけない。Mr.五十嵐はパパよりずっと年上だから、胃が小さくて少ししか食べられないのだ。お年寄りは大切にしなきゃいけないよ〉
こいつはほんの十才年上の自分を老人扱いしていたのかと一人でくすくす笑ってしまう。
二人で行った上高地ホテルの領収書にも走り書きがあった。
〈SHOMA said. 自殺を止めた人間には相手に対して責任が生じる〉
あの時、口走ったことが書き留められている。
ぼんやりそれを眺めていると視界が曇った。目元がひどく熱くなり祥真はぼろぼろと涙をこぼしているのだった。
レンズに涙が溜まったメガネを引きむしりベッドに放り出す。かつて理知と共に選んだメガネはとうの昔に廃棄した。近眼の度が進むたびに新調して、今や読書用メガネつまり老眼鏡と普段使いの遠用メガネとを使い分けている。
年をとるというのは想像を超えて凄まじいことである。十才年下の理知は老眼鏡を使うこともなくみまかったに違いない。そんなことを思うだけでまた涙が湧いて来る。
ホテルのベッドで眠りもせずに、祥真は一晩中咽び泣いているのだった。
空港ロビーにはスーツケースを引く旅行者の他に登山客のような大容量のザックを背負った者もいる。祥真はそんな男性を見かけるたびに近づいて行っては顔を確かめずにはいられない。
竹田理知であるはずもない。
そんなことはわかっている。
けれども何故か、あの男は出発ロビーや到着ロビーを歩いている気がしてならなかった。
そんな翔真の姿がよほど奇異に見えたのか、ガードマンがちらちらとこちらを見ている。
「お客様。どなたかお探しですか?」
うら若い女性職員に笑顔で問いかけられるに及んで、ついに翔真は空港を後にした。
羽田空港駅の地下ホームに止まっている電車は既に満員だった。
のろのろと乗車すると一人の青年が「どうぞ」と立ち上がった。意味が分からずぽかんとしていると再度「どうぞ。座ってください」と席を勧められた。
ガラス窓には半白頭でメガネの下に真っ赤な目をしょぼしょぼさせた老人の顔が映っている。
「どうも」と譲られた席にぐったりと腰を下ろす。
一体何だというのだろう。
若者に座席を譲られる年にもなって、恋人に去られたと涙に暮れる老人ときたら。
しかもその恋人について、何ひとつ確かなことを知り得なかった。
ただ時々合っては枕を交すだけの関係。
それで恋人と思っていたなど、ちゃんちゃらおかしい。
電車にゆられながら祥真はまた目頭を熱くしながらも一人皮肉に笑うのだった。
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