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第9話 一人の夕暮れ
〈喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます
今年三月に父 竹田理知が50歳で永眠致しました
ここに本年中に賜りましたご厚情に感謝致しますと共に
皆様に良き年が訪れますようお祈り申し上げます〉
差出人の宮沢夏希という人物は九州は別府市に住んでいるようだった。
父というからには祥真が知らないうちに迎えた養子なのか?
祥真はその人物と社用スマホで連絡をとりあい、年明け早々九州に飛んだのだった。成人式の前日である。
祥真が二十才の頃は成人式といえば一月十五日に固定だった。けれど娘の志穂里が成人する頃には、一月の第二月曜日となっていた。日曜日に続けて連休になったのだ。
だから庭先で振り袖を着た志穂里の写真を撮ったのは仕事が休みの祥真だった。記念写真はスマホではなくデジタルカメラで撮っていた。娘を真ん中にして家族三人の写真も撮った。
あの頃はまだ祥真の髪に白いものなどなかった。今や半白の頭でまぎれもない初老の男が一人、連休前の満席の飛行機に乗り込むのだった。
電話の声で察していたが、宮沢夏希 は女性だった。鉄輪 温泉の小さな旅館の女将だったのだ。湯気の上がる坂道を下って行くと湯治客向けの小振りな旅館が群れ建つ地域が現れて、その旅館はすぐに見つかった。
脱ぎ捨てられたサンダルや靴が並んだ玄関を訪うと、前掛けを付けた中年女性が出て来た。
祥真が名乗るより先に、
「五十嵐さんですね。宮沢夏希です。よくいらっしゃいました」
旅客を迎えるかのように頭を下げるのだった。
反射的に頭を下げた。祥真は会社に行く時と同じコートの下にダークスーツを着用していたがノーネクタイだった。肩に掛けたビジネスバッグも日常の通勤用だった。その中には黒いネクタイや香典袋も入っていたが、
「どうも、この度は……」
と頭を下げながら、喪のネクタイを締めて来なかったことを激しく後悔していた。
ちぐはぐな格好は何とも消化しきれない心の表れでもあった。
六畳程の仏間に通されて、仏壇の前にある写真にと胸を衝かれる。
登山装備の竹田理知が大きく笑っていた。浅黒い肌にくっきり笑い皺が刻まれた壮年の山男。藍にも近い青空と赤い大地の背景はおそらくグランドキャニオンだろう。
焼香をしながらも、まるで現実感はなかった。
お茶を供されて、宮沢夏希の話をただ「はあ」「ええ」と聞いて帰って来たのだった。
「今夜のお宿はお決まりですか? もしまだならうちの旅館にお泊りになりませんか?」
帰り際、玄関先で提案する中年女将に祥真は首を横に振った。
「飛行機のチケットをとってありますので。夕方には帰ります」
玄関ロビーの古ぼけたソファに〝ぐんまちゃん〟〝くまもん〟といった各地のゆるキャラぬいぐるみがいくつも並んでいるのをぼんやりと眺める。
「日帰りなんて……お忙しいんですね。お仕事ですか?」
「ええ。まあ……」
頷いたが嘘だった。今や連休返上で働くほどの仕事はない。
ただ、到底この地にゆっくりする気になれなかったのである。
そうして夕刻、陽が沈んでから福岡空港からまた飛行機に乗った。これもまた満席だった。座席にぎちぎちに詰め込まれて感慨にふける余裕もなかった。
羽田空港に着いたものの、まっすぐ家には帰りたくなかった。無駄に空港内を歩いて蕎麦などで軽く夕食を済ませて、つい空港近くのホテルを取った。
〈飛行機に乗りそこなった。空港のホテルに泊まって明日帰る〉
いつからか家族との連絡はLINEになっていた。話さなくて済むのはストレスフリーである。
なるべく具体名を出さないメッセージを心がけていた。部下からの連絡なら「5W1Hがない」と叱責するレベルである。
毎回、妻からは〈了解〉とハートマークのスタンプが来る。
今回に限ってそれを見た途端に胸が詰まって泣きそうになった。かろうじて抑えたけれど。
あの台風の日の電話をまざまざと思い出したのである。何十年前の話なのだ!?
何のあてもなく空港の屋上に出て発着する飛行機の明りをいつまでも眺めていた。
「私、チャッキーです」
宮沢夏希はそう言ったのだ。
「ロスのシェアハウスに住んで……いいえ、中学生の時に短期留学で滞在しとったとです。ジェフにチャッキーってあだ名をつけられて。ちょうど五十嵐さんが遊びにいらした頃です」
祥真が思い出せないと思ったのだろう、あれこれ説明するのだが言われた途端に理解していた。
そうしてチャッキーは祥真が理解したくないことも説明するのだった。
宮沢夏希は竹田理知の娘であること。
〝宮沢〟はこの旅館の主人、今の夫の名字である。旧姓は竹田夏希だったという。
「父と母は地元福岡の同級生でお互いに18才の時に結ばれて……私が生まれたとです。そして二人は結婚しました。若かったけん両親に反対されよったけど、父は授かった命に責任をもちたかと……」
「しかし……彼は一人暮らしだったのでは?」
「ええ。籍を入れただけです。一緒には暮らさんかったとです。父は一人で東京の大学に行って、母は実家に暮らしながら私を育ててくれました。地元の大学には受かっていたけど、初めての子育てで勉強どころじゃなかったけん。父はアルバイトをしながら九州の母に仕送りをしてくれました」
「それで、あんなにバイトを掛け持ちして……」
「ほんなごと母の実家はそこそこ裕福やったけん、仕送りがのうなってもやって行けたと思います。でも、父の覚悟やったんでしょうね。青春の過ちやったけど……」
「いや、青春の過ちって……」
「ほんなこつ失礼なこと言よるオヤジばい」
チャッキーはにやりと笑ったものである。誰かに似ている。
「ばってん事実らしかです。幼馴染で気の合う女友だちと好奇心で試してみたら……出来よった。それが私です」
思わず頷いていた。
自分の性自認に確信が持てずに試してみたかったのだろう。祥真はとうとう一度も出来なかったが、理知は可能だったらしい。そういう隠れ同性愛者は大勢いる。
「父は責任を果たしてくれたとです。私が宮沢に嫁ぐまで仕送りを続けてくれました」
ただ呆けたようにチャッキーの話を聞いていた。
柔らかい言葉のイントネーションはこの地方特有の訛らしい。理知の口調に似ているのは単なる方言に過ぎない。無理にも自分に言い聞かせて、ただひたすらに耳を澄ませていた。
「実は一時父と母は離婚したとです。父がアメリカに永住して、別の人と結婚すると言い出して……」
「結婚て誰と?」
「さあ? 私もよう知らんかったけどアメリカ人だったようです。……ちなみに、アメリカでは同性婚も認められているとですが、ご存知ですか?」
神妙な顔で頷いた。何となく祥真の頭に赤毛の大男の姿が浮かんで、
「ジェフ?」
口をついて出たが、チャッキーは笑って首を横に振った。
「ジェフにはもう旦那さんがおったとです」
「旦那さん?」
「あのシェアハウスには、LGBTQが多かったとです。私も後になって知っとうと」
「…………」
「謎のアメリカ人との結婚は数年で破綻しよって、父は日本に戻って来たとです」
奥日光の温泉で永住をやめたと宣言したのは、そういう意味だったのか?
「それで……母が父と再婚したのは、もっとずっと後……病気がわかってからです。癌でした。ステージ4で見つかってもう治療しやんな言うけん緩和ケアをメインにホスピスに入院したとです。その時、他人では何もかんも都合悪かけん、また入籍したそうです」
「ラクじゃなかったんだ……」
「はい?」
理知の死を知った時、山で滑落して今度こそ命が助からなかったのだろうと想像した。
「ラーク!」「ラーク!」「ラーク!」という声が下方に繋がる間をスマートフォンが岩にカンカンと弾んでは落ちて行く。
それに遅れて人の身体も下へ下へと落ちて行く。
その姿はまるで生きている人間ではなく、マネキン人形のようである。
やがてスマホが轟々と渦巻く谷川に落ちて流れて行き、その後にひときわ大きな水音が谷間に響いて……その度に「わッ!!」と暗闇で飛び起きる祥真だった。
全身が脂汗でびっしょり濡れるような悪夢の連続だった。
宮沢夏希に会って、理知の最期を正確に知りたい。
年が明けるなり慌ただしく別府に駆け付けたのはそのせいもある。
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