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第8話 誰も居ない場所
「あら。温泉でも行ったの?」
奥日光の温泉から帰った時、妻は言い当てたものだった。
玄関から自室に向かう祥真に向かって、鼻をひくつかせていた。
「硫黄みたいな匂いがする」
「あ……ああ。日光支社の会合で、いい温泉に招待してもらったんだ」
〝日光甚五郎煎餅〟という手土産を渡しながら言った。
ホテルの売店で理知が、
「この菓子なら軽くていいんじゃないか?」
と勧めてくれた土産である。別に浮気のアリバイ作りではなく、単に山岳旅行ガイドとして客に勧める習性がそうさせたのだろう。
自分でも〝ぐんまちゃん〟のぬいぐるみなどを買っている。観光地に行けば何かしらそういった土産物を買う理知である。
「誰にお土産なんだ?」
なるべく嫉妬がばれないように、さり気なく尋ねたこともあるが、
「旅行ガイドの心得だよ。今はこういうゆるキャラが人気らしい」
などと返されるだけだった。
あの後、理知と現実に顔を合せることは二度となかった。
体内のボルトを外す手術はロサンゼルスの病院で行ったのも事後報告だった。入院中に暇を持て余して電話を寄越したのだ。もはやため息をつくしかない。
ロサンゼルスの夜七時、寝る前に会社に電話を寄越す理知は、もちろん祥真が仕事中と承知している。社内で恋人と話すのに上司の耳を意識しないで済む程度には、祥真自身が上役になっているのだった。
「夏になったらしばらく日本に滞在する予定だ。山岳ドキュメンタリー番組の撮影クルーを案内するんだ。その時にまた会おうぜ」
などと以前よりこまめに電話で話した。
それで満足してしまったのか、いつか会おうと思いながらまた十年がたっていた。
その間に、コロナ禍と呼ばれる厄災が訪れた。三密を避けマスクに消毒、不要不急の外出禁止。理知が日本にいる間のことでよかったと思ったものである。
件の撮影クルーのガイド以来、里心がついたのか理知は出身地の福岡に一人暮らしを始めたようだった。九州の山を専門にガイドして回っていると、また会社にはがきが届いたばかりだった。
しまいには国内の移動も制限される緊急事態宣言が出た。仕事がリモートになったのをいいことに、祥真は理知ともリモートで話すようになっていた。
それでいよいよ実際に顔を合せることはなくなっていた。
年をとればとる程、時間の進み方は早くなる。
昔はとんでもなく長い時間に思えたのに、今や十年なんぞ一年に等しい気がする。
あの時、結婚した娘には既に小学生の息子がいる。妻は娘以上に孫息子に夢中である。
実は奥日光から帰った年、妻に離婚を切り出したのだ。
「僕はずっと夫の義務を果たさなかった。君につらい思いをさせて来た。だからもし……君が望むならいつでも離婚を……」
妻は即答したものだった。
「いやよ。私は離婚なんかしないわよ」
何だか妙に唇を噛みしめて祥真を見つめている。
「私はずっとあなたが夫で、志穂里のお父さんだと思ってるわ。別れる理由なんかないじゃない」
「…………」
佳苗が何を言いたがっているかは薄々察してはいたが祥真はただ、
「君がそれでいいなら……」
そう答えて自室に戻った。自室とはかつて義父が書斎にしていた洋間である。
理知がアメリカへ移住する前のことだった。
佳苗の浮気相手、というより志穂里の実の父親らしき男が家に訪れたことがあるのだ。
名古屋支社に転勤になった頃だった。当時は社宅の2LDKマンションに家族三人で暮らしていた。娘はまだ小学生だった。
定時で仕事から帰るとリビングのソファにテーブルをはさんで妻と見知らぬ男が対峙していたのだ。祥真に気づくなり妻は弾かれたように立ち上がり、
「こ、高校時代の同級生が、ぐ、偶然こちらに住んでらして……」
祥真に縋るように飛びついて来たのだ。
「お邪魔しています。いや、佳苗さんが名古屋に引っ越したと聞いてご挨拶にね」
「それは、ご丁寧にどうも……」
と、頭を下げる翔真の背後に隠れんばかりの妻である。
「も、もうお帰りいただこうと思っていたのよ。そろそろピアノ、志穂里のピアノ教室にお迎えに行かなきゃならないし」
なので翔真もやんわり伝えた。
「せっかくですが、今日はこれで……娘を迎えに行きますので」
男は愛想笑いなのか、奇妙な笑みを浮かべて翔真と香苗を見比べた揚句に腰を上げた。
男が何者であるかはすぐに察せられた。
だが少なくとも今ここは自分の家庭なのだ。
面倒事はまっぴらだった。
エレベーターの中で男は祥真をじろじろ見ながら、
「旦那様のお留守中に失礼しました。別に何もなかったから大丈夫ですよ」
などと言う。
途端に祥真の腕に掛けた妻の手がぎゅっと強く力を入れたのがわかった。
「いいえ。こちらこそご挨拶にいらしたのに、お茶も差し上げずに失礼しました」
そう返したのは、リビングのテーブルにお茶一つ出ていないことを見ていたからである。義母に厳しく躾けられた妻にはあり得ない接客だった。
ちなみに男からの手土産らしき物もまるで見当たらなかった。それだけでも男の目的が妻本人と知れるのだった。
たまたま同じ名古屋市内に引っ越して来た同級生と同窓会の淫靡な夜を再びと思ったに違いない。
その辺は祥真とて男だから(対象が異性であれ同性であれ)わからないこともない。自分こそ理知のアパートに再訪問したのだから。
男の目論見は果たせなかったらしいが、それすら祥真にはどうでもいいことだった。
その日は三人で家の玄関を出てエントランスで男を見送った後、地下駐車場の車を出して夫婦で娘を迎えに行ったのだ。そして帰りにファミレスで夕食をして帰った。〝ファミリーレストラン〟とはよくぞ名付けたものである。
以来時々夫婦でお稽古ごとの娘を迎えに行き、夕食を共にする習慣も始まった。その度に佳苗は何かと祥真を持ち上げた。
「お父さんは知らない所に転勤になってもすぐ馴染んで働くんだから、偉いわよねえ」「お父さんは単身赴任してもちゃんと家事が出来るのよ。すごいわねえ」「お父さんは……」「お父さんは……」と、べた褒めである。
あの男が祥真が司る家庭を訪れることは二度となかった。自分が単身赴任をしている時も、妻は娘の教育に専心しているようだった。
そうして娘が嫁いだ後も妻は離婚を望まなかった。
おそらくこの件に恩義を感じているからかも知れない。
どうでもいい……祥真は心底そう思っていた。
もちろん長年共に暮らして子供を育てていれば、それなりに情愛は生まれる。〝家族愛〟と言ってもいい。肉体関係がない点で言えば、実家の親や姉に対する気持ちと似たようなものである。
そういうわけで清らかな結婚生活は続き、今や安定の〝ジージ〟と〝バーバ〟である。
祥真としては、今更セックスレスについて罪悪感を募らせるつもりもない。
けれど自身の性的指向を満足させるのに、いちいち家族に嘘をついて外出するのも億劫になっていた。
独り身になって誰憚ることなく同性愛者として生活したいとも思うのだった。
けれど、竹田理知はもういない。
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