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第7話 誰も居ない場所 

 そうして次はいつ会おう?  と思っているうちに月日が過ぎた。  最後に理知に会ったのはいつだったろう。  ……志穂里が結婚した年だった。  四年制女子大を卒業した志穂里は銀行に職を得て、一年後には社内結婚をしていた。  その頃、祥真はといえば出世コースと思われていた海外輸送部門からまた元の国内輸送部門に戻っていた。定年が近いからと言うのは外付けの理由で、例の仲人部長が亡くなったからである。  自分では意識していなかったが、祥真は仲人部長の子飼いの部下と思われていたのだ。それが消えても自分からは何も働きかけをしなかったから見事に出世コースから外された。まあ職があれば別にそれで構わない。  特にその頃、義父が脳梗塞で倒れて入院したのだ。仕事より親の介護をとったのだ。妻の実家には義母のみが残された。リハビリが必要な義父を見舞って毎日病院に出かける義母を、妻は車で送っていた。それはかつて幼い娘を習い事に送っていた頃のようだった。  その娘が嫁いだのだからと、夫婦は後々の介護も念頭に横浜の義実家に居を移したのだった。通勤に時間がかかるようになったが致し方ない。何せ実家の両親に関しては長男なのに姉夫婦にお任せだったから、義両親の面倒ぐらい見なくてはバチが当たると思っていた。  リハビリを終えた義父が暮らしやすいように古い家屋のリフォームも済ませた。けれど義父がそこに戻って来ることはなかった。孫娘の結婚式にはリハビリ病院から外出して車椅子で出席したのに。それで思い残すことはなくなったのか、ひと月もたたないうちに逝去した。  義母はしばらく悲しんだけれど、元気な事は相変わらずである。妻と共に毎日のようにお稽古ごとだランチだアフタヌーンティーだと出歩いている。  祥真はにわかに暇になった会社の仕事の合間に、昔買ったトレッキングシューズなどを持ち出して(靴底がボロボロに経年劣化していたから結局新品を買った)軽い山歩きを始めるようになっていた。  一人で山道をそぞろ歩きながらふと思う。  離婚しようか……?  自分は夫として重大な欠陥があったのだ。妻が望むなら財産(という程もない、老後の蓄え)を全て譲って一人になろうか。  最後に理知に会ったのは奥日光にある温泉ホテルだった。  アメリカに住んでいた理知は、逆にアメリカの登山客を日本の山に案内して仕事を終えたばかりだった。  二人で露天風呂につかって口元から白い息と共に「あー」とも「うー」ともつかぬ声を出した。 「やっぱり日本の温泉は最高だなあ」 「身に染みるよ」  言い合うのは爺むさい台詞ばかりだった。まだ当時は祥真は五十代、理知は四十代なのだったが。  晩秋の露天風呂はまだ雪も降らぬのに湯気で辺りは真っ白だった。湯もまた乳白色である。二人の中年男は岩風呂に並んで濁り湯につかっているのだった。 「やっぱり永住はやめだ。山を下りてから温泉につかって熱燗をやれるのは日本だけだ」  祥真は思わず理知の横顔を直視した。 「え? だってアメリカの市民権とったんじゃないのか?」 「まあ……いろいろとね。実家の親も年取って来たし」 「ふうん」  祥真はそう呟くだけだった。  理知の実家が九州にあるというのは聞いた覚えがある。父親は早くに亡くなって母一人子一人で育ったとも。だが詳しい事情は殆ど知らない。祥真のようにあれこれ愚痴混じりに話すこともなかったのだ。  時に心に隙間風が吹くような思いにも駆られる。理知について知っているのは、ごく表面的な事ばかりなのである。  あれこれ詮索しないのは祥真の品位というものだったし、嫌われたくないという思いもあった。  ぼんやり湯に沈む理知の姿を見ているうちに、祥真は思わず目を瞬いた。入浴時はメガネを外すから常に視界不明瞭である。けれど硫黄香漂う白い湯にひどく奇妙なものを見た気がする。  そのタイミングで理知は、 「さて、夕飯の時間だ」  と立ち上がって腰にタオルをあてがった。 「いや、待てよ」  思わずそのタオルを引きむしっていた。 「何だよ。こんな所でやらないぞ」  笑いながら逃げようとする理知の手を掴んでその場に留めた。  相も変わらず引き締まった山ヤの身体である。殊に腰から脚にかけての筋肉は見惚れる程に見事なものである。  だが、背中から左腰にかけて大きな引き攣れたような傷跡があった。よくよく見れば太腿や脹脛にも点々と傷跡がある。思わずそれらの傷を手で触る。道理で脱衣所で話している祥真に構わず、さっさと脱いで風呂に入ったはずである。見られたくなかったのだ。 「何だよ……これ?」 「ちょっと岩場で落ちてな……ヨセミテで。上から滑落して来た奴に巻き込まれて。そいつは気の毒だったが、俺は幸いこうして生きている」 「何が幸いなんだよっ!!」  吠えたてた。 「いや、中に入ろうぜ」  改めてタオルで腰の傷跡を隠すと、理知は脱衣所に入って行った。慌てて後を追ってはあれこれ問い質す祥真である。  その夜のベッドは殆ど審問会だった。その事故について、いつどうなったのか。どれぐらいの期間、入院加療したのか。  それと祥真の元に届いた絵ハガキや電話で話した時期を重ね合わせては、 「何であの時、何も言わなかったんだよ! 僕が電話をかけたのは、入院してた頃だったのか? どおりで珍しく何度も電話がつながると思ったよ」 「暇だったからさ。チャッキー達が見舞ってはくれたけど」 「僕だって見舞いたかったよ。言ってくれればよかったのに!」 「だって、家が大変だったんだろう? 娘さんは結婚するし、お舅さんは亡くなるし……」 「それは今年のことだ! 君が怪我をしたのは……去年か、一昨年(おととし)か!?」 「いいじゃないか。もう治ったんだし……後は腰に入ってるボルトを取る手術をするだけだ」 「そ……ボルトって……いつだよ、その手術は?」 「さてね。まだ決まってない。次の診察の時に様子を見て決めるそうだ。この辺りに入ってる」  布団の下で祥真の手を取り自分の傷跡に触らせる理知である。何も言えずに誘われるまま腰の大きな傷跡や、腿や脚に散る細かな傷も撫で下ろす祥真に、 「どうせ触るなら、こっちも頼む」  陽物を押し付ける理知である。 「何を言ってるんだよ! おまえは」  と、腹立ちまぎれに睾丸(タマ)を握る。 「いッ! そっちこそ何考えてるんだ。やめろ!!」  ぎゅうと握り返され、誠に修学旅行の男子生徒さながらであった。  こんな風にはしゃげる相手はもう理知しかいない。そんな思いが頭に浮かぶ前に身を翻してじゃれ合うのだった。  

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