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第6話

 掃除が終わった頃にはシャツは汗で濡れていたし、泥跳ねや牛の糞で汚れている。二人は小屋の脇にあるベンチに腰かけて休んでいた。 「ラウールさん、汚れちゃってますね。拭くものを持ってきますから、待っていてください」  立ち上がって離れようとしたとき、ラウールに手を掴まれた。 「あの、ラウールさん?」 「待って、このままちょっとだけ、一緒にいてほしい。いいかな?」  思わぬ提案にステラは驚いた。二人とも馬糞と泥で汚いし臭いのに、そんなことを言う貴族がいるなんて、という顔だ。 「いい、ですけど……。嫌じゃないんですか?」 「嫌じゃないよ。私は貴族でステラとは身分が違うけど、こうして同じような格好で泥だらけになっていると、同じになれた気がしてうれしいんだ」 「ラウールさんって、変わってますね」  ふふふ、と笑いながら言うと、作業を手伝うよ、と言ったときと同じようなキラキラした瞳でこちらを見つめてきた。 「ステラは、笑うととても魅力的だな」  突然ラウールが変なことを言うので、笑顔のままで固まった。 (え……っ、ラウールさんって、こんな人なの? えっと、こういうときはどういう反応をすればいいのかな!? というか、物語の中にこういうのあったっけ? え? え?)  パニックになりながら、ベンチにゆっくりと座り直す。その間もラウールはステラの手を握ったままで、それが気になってしかたがなかった。 「困らせたかな?」 「いえ、あの……そういうことを言われたことがないので、驚きました」 「そうか。なんというか、君を助けた日に初めて会ったはずなのだが、どうしてか以前にも会った気がしていて、それで気になってね」  魅力的だと言われたこととは違う話題をされてホッとするものの、初めて会った気がしないと言われてまたドキッとする。 (今なら、前世の記憶のこととか聞けるかもしれない)  そう思ってラウールの方を向いたとき、ちょうど同じタイミングで彼がこちらに顔を向けてきて目が合った。 「あの、変なことを聞いてもいいですか?」 「なんだ?」 「ラウールさんはその、僕を見て前に会ったことがあるかもって言われたのって、どこかにその、記憶があったりしますか? こう、今のこの世界とは違う場所の記憶というか、人の記憶が、あったりとか……」  上手く説明ができなくて、ステラは何度も言葉を詰まらせる。ラウールがステラの話を目を丸くして聞いていて、これはわかってもらえてないなとすぐに把握した。 「あ、すみません。なんか僕、変なこと言ってしまって……あるわけない、ですよね」  様子を窺うようにして言うと、ラウールがフッと笑った。ステラはドキッとした。その笑い方が記憶の中のコウとまるきり同じだったからだ。 (あ、まただ。……また泣きそう……なんだこれ)  ステラはシャツの胸の辺りを掴んで唇を噛みしめる。奥歯にぎゅっと力を込め、感情が吹き出しそうになるのを我慢した。 「この世界と違う場所の記憶は……ないかな。でもステラにはどこかで会った気がするのも、ステラのことが気になるのも確かだが……」 「そう、ですか……そうですよね。そんなこと、あるわけがないですよね」  ステラが気になる、とラウールに言われたことより、この世界と違う場所の記憶がないということに落胆していた。さっきまで感情が爆発しそうだったのに、それが一気にぷしゅっと萎んでしまった。 「こ、今度こそ拭くものを持ってきますから、待っててくださいね!」  ステラはなぜか泣きそうになっていて、ラウールがなにか言おうとしているのに気づき、それを振り切ってその場から離れたのだった。  その日から一日おきにラウールがやってくることを、ステラはわかっていた。いや、ステラの前世の記憶で知らされたといった方がいいだろうか。  結局、この世界にタクミの魂が転生したのはステラだけだった。あの日の出来事をここのところ毎日夢に見るようになっている。  満天の星空、隣にはやさしく微笑む恋人の顔。手を繋ぎ幸せだった。それなのに……。  夢から覚めたときはいつも涙があふれていた。  これはなんの涙なのか。  会いたい、寂しい、切ない。  そんな感情が胸から消えない。  ラウールがコウの魂を持って転生していたなら、どんなにうれしかっただろう。 (絶対にそうだと思った。あの絵を見て、ラウールさんの瞳を見て……)  髪の色も瞳の色も違う。それでもラウールと会ったとき、そうだと思った。でも違っていた。 「ん……、また、あの夢だ」  ステラはベッドから起き上がる。頬は涙で濡れていて、それを手の甲で何度も拭った。この夢を見たときは必ずラウールがリコッタ村にやってくる。この間みたいに牛の世話をしたり、農作物を収穫したり、ルーを探して牛舎に追い込んだりする。  すっかりステラの怪我もよくなって、体の痛みもないというのに、それでもやってくるのはどうしてなのか。まだ聞けないでいる。  ステラは夜着から作業服に着替えた。今日も牛たちを放牧し、牛舎を掃除し、そのあとは両親の農作業を手伝う。夕方前には終わるから、久しぶりに丘の上の小屋で趣味の小説を書く時間が取れそうだ。  ステラの家の方に向かって誰かが近づいてくるのが見えた。どうやらラウールではない。 「ステラ! おはよう」 「おはようございます。早いですね、村長」  やってきたのはリコッタ村の村長で、なにやら腕に紙の束を抱えていた。 「なにかあったんですか?」 「それがね、昨日ミシラン村がドラゴンに襲われたらしいんだ。だからこれ、注意するようにって知らせが出回っててね……」  小太りで口ひげを生やした村長は、ズボンのポケットからハンカチーフを取り出して、流れる汗を忙しなく拭いている。村のみんなに知らせるために大急ぎで街で新聞を印刷してきてくれたのだろうか。 「ドラゴン……ですか。ミシラン村はここからそう遠くないですよね。ミシラン村に友人がいるんです……! 犠牲者は……出たんですか?」 「まあ、それは、そこに詳しく書いてあるから読んでくれるかな。私は他の家にもこれを配らなくちゃダメだから」 「そうですよね。ありがとうございました」 「それじゃあね」  村長は額の汗を拭き拭き来た道を戻っていく。ステラはすぐにもらった新聞に目を落とす。そこにはミシラン村の詳細が書かれてあった。村人の八割以上がドラゴンに殺され、村の再建ができないほど荒らされて燃やされたと書いてある。  あまりの惨状に、ステラはヨロヨロしながら家の外に置いてあるベンチに座り込む。読めば読むほど悲惨な状況だというのがわかる。 「そんな……ミシラン村が、壊滅だなんて……」  ミシラン村には友人もいる。たまに足を伸ばすこともあるし、あの村は美しい川と水田が広がる風景が幻想的で、目を閉じると今でも思い出せる。その村が壊滅と知って震えが止まらない。  その日を境に、ラウールは姿を見せなくなった。きっとドラゴンが城下街の近くの村まで襲い始めたことで、ルシェフ騎士団が緊急招集されたのかもしれない。 「リコッタ村も、ドラゴンに襲われる……なんとかしなくちゃ」  なにをどうすればこの危機を回避できるのかまだわからない。しかしなにもしないままいるわけにはいかなかった。

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