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第5話

 ラウールの邸で絵を見た二日後、平穏な日常が戻ると思っていたがそうはならなかった。 「ステラー! ステラ、起きなさい、ステラ!」  まだ夢の中にいたステラは、母親のけたたましい呼び声に飛び起きた。 「母さん? なにかあったの!?」  慌てて部屋から出ると、玄関の扉の前で顔を青くした母親が立っているのが見えた。誰か来たの? と声をかけて近づくと、母親がゆっくりと玄関の扉を開く。 「やあ、おはよう。ステラ」  そこに立っていたのは、二日前にステラを馬車に乗せて心配顔で見送ってくれたラウールだった。目を丸くして押し黙ったステラは瞬きすらも忘れてしまう。 「ちょっと、ステラ! あなたなにぼんやりしているの? 領主様があなたを訪ねてこられたのよ!? 挨拶くらいしなさいな!」 「えっ、あっ、えっと、お、おは、おはようございます!」  動揺しながら挨拶をすると、ラウールがにっこり微笑んだ。なにがどうなっているのかさっぱりわからず、ステラは挨拶をしたものの、その場に立ち尽くす。 「ステラ! ちょっとあなた、大丈夫?」 「え、ああ、うん。えっと……どうしよう、中に入ってもらう?」 「そ、そうねぇ」  ステラは母親と顔を見合わせる。二人は起きたばかりでまだ夜着の状態だ。着替えなくては……と考えたのは同時だった。 「す、すみませんラウール様。こんな格好なので、すぐに着替えてきますので!」 「いいよ、外で待っているから、声をかけて」 「は、はい!」  玄関の扉を閉めて、ステラは慌てて自分の部屋に戻って夜着を脱ぎ捨てベッドに放り投げる。クロゼットを開いて綺麗な服を探すも、一番綺麗な服はこの間ラウールにお下がりでもらったものだけだった。 (これしかないか)  慌ててその服に腕を通してズボンに穿き替え、いつものようにサスペンダーをつけた。そして大急ぎで玄関に戻る。扉の前で深呼吸をひとつして、ステラは意を決して玄関の扉を開けた。少し離れた場所に、二日前にステラが乗って帰ってきた馬車が停まっている。ラウールは中で待っているようだ。 (僕になんの用なんだろう。なにか用事があって来たんだよね? それにしてもラウール様がうちに来るような場面、あったかな……?)  物語の記憶を懸命に思い出そうとするが、まるで霧がかかったようではっきりしない。ステラはドキドキしながら馬車に近づく。すると扉が開き中からラウールが姿を見せた。 「お待たせしました。それであの、僕になにかご用でしょうか?」  ステラの格好を見て「おっ」となにかに気づいた顔をされる。自分があげたお下がりの服を着ていたことに気づかれたようだ。少し照れくささはあったが、ボロい服で会うよりいいと思った。  今日のラウールもやはりキラキラしていて完璧だ。油断すると見惚れてぼんやりしそうになる。 「そんなに重要な用で来たわけではないから、あまり緊張しないで。傷の具合が心配で、それで来たんだ」 「えっ、そうだったんですか……」  まさかステラの傷の具合が気になって、こんな辺鄙な村まで足を伸ばすなんて、とステラは目を丸くした。 「あ、傷はずいぶんよくなってます。でも体のあちこちがギシギシして痛む感じで、ブリキの人形になった気分です。なので迷子牛を探し回るのはできないですね」  あはは、と頭を掻いて笑みを浮かべた。傷はステラの言う通りよくなっているが、翌日になって体のあちこちが痛くて驚いた。おかげで迷子牛を探す仕事は父親がやっている。 「牛が迷子になるのか?」 「うちの子は一頭だけいつも帰ってこなくて、それで探しに行くんです。ラウール様の後ろに見える牧草地に今日も放牧しますよ」  ステラが指を差すと、ラウールが振り返る。青々と茂った牧草が風で揺れていた。 「そうだったのか。ここは広くて空気がよくて開放感があっていいな。よかったらその放牧とやらを、手伝わせてはくれないか?」 「は?」  突拍子のない申し出に、自分でも聞いたことのないような間抜けな声が出てしまった。 (そうだ、思い出した。領主様がうちの仕事を手伝うって言い出して、僕も両親も恐縮するんだった)  いざその場面がやってくると驚きは隠せない。 「そんなに驚くことか?」  ラウールが口に手を当てて肩を揺らして笑うのを見て、ステラは頬が熱くなるのを感じて下を向いた。 「だ、だって領主様がそんなことをされるなんて、そんな、ダメですよ」 「その領主様とかラウール様とか、かしこまって呼ばなくていいよ。というか、ステラがどんな仕事をしているのか知りたくなったんだ。それに、体が痛いのなら、手伝いが必要だろう?」 「で、でも、ラウール様は領主様ですし……なんと呼べば……」 「普通に、さん付けでいいんだよ、ステラ」  そんな……本当に? という驚きの顔をラウールに向ける。その顔を見たラウールがまた声を殺して笑った。彼の前では顔が熱くなることが多い。 「それではあの、お言葉に甘えて……ラウールさん、牛を……放牧したいんですか?」  怪訝な顔でラウールを見上げると、興味津々で青い瞳を輝かせて頷いた。どうやら本気のようだ。しかしラウールの格好は、到底作業ができるようなものじゃない。作業で泥が跳ねるし、服が汚れるのは避けられないだろう。 「いや、ステラの仕事を手伝いたいんだ。ダメだろうか?」 「その、洋服が汚れるので……」 「いや、構わない」  頑として譲らないラウールに、ステラは押し黙った。これは引き下がらない感じだ。参ったな、とステラは頭を掻く。 (どうしよう。汚れてもいいとは言われても、そうはいかないし……。あ、そうだ。父さんの服なら着られるんじゃないかな)  そう思ったステラは、父親の服に着替えるならという条件を出した。もちろんラウールは二つ返事で了承した。大急ぎで父親の服を取りに行ったステラは、シャツとズボンと長靴をひっつかんで戻ってくる。 「これ、サイズが合うかどうかわからないけど、着替えてください」 「ありがとう。じゃあこちらこそお言葉に甘えて借りよう」  馬車の中へ服と長靴を持って入り、しばらくして着替えたラウールが出てくる。サイズは微妙なところだ。 「袖は少し短いが、折り返せば問題ない。ズボンも裾が短いんだが……長靴に入れてしまえばわからないだろう」  身長は父親とそう変わらないのに、手足の長さが全く違うようだ。ラウールのスタイルのよさを目の当たりにして笑顔が引き攣った。 「ねえ、あの馬車……領主様じゃない? 紋章……入っているわよね」  ステラの家の前に豪華な馬車が停まっているので、村人に見つかってしまったようだ。興味を持っているのは主に女性の村人で、集まって遠巻きに見てはキャッキャと騒いでいる。 (まずい、目立ってる。いつの間にこんなに集まってきたんだろう)  振り返ったステラは注目を浴びるラウールを早くこの場所から移動させたかった。父親のボロい服を着ているラウールを、みんなの目に晒すのは申し訳ない。 「あ、あのっ、こっちです。こっち!」  これ以上ここにいられない、とステラはラウールの手を掴んで歩き出す。 「おっと、そんなに急がないで、ステラ」  駆け足で牛舎のある方へと向かった。建物の中に入ると、ステラは辺りをキョロキョロして警戒する。どうやら小屋を覗き込む厚かましい見物人はいないようだ。 「まったく……ラウールさんは見世物じゃないっての」  呟いたステラは、自分がずっとラウールと手を繋いでいることに気づいて慌てて離した。目の前には白地に黒い柄のある、メスの牛がこちらをじっと見つめている。早く外に出してほしそうな顔をしていた。 「それで、私はなにをすればいい? 牛は六頭だけ?」 「あ、はい。面倒を見られるのは家族だけなので、この頭数でも大変です。他にヤギもいるし、別の敷地では作物も作っているので」 「そうか。両親とステラだけなら、大変だな」 「毎日忙しくしていますけど、楽しいですよ」  ステラは牛の出入り口を塞いでいる柵を開き、小屋の外へ出るように促した。慣れた牛たちは、ステラのかけ声を聞いてゆっくりと歩き出す。 「この子たちを牧草地の方へ誘導してください。みんな大きいですけど、気性は荒くないので暴れることはないと思います」 「ねえ、もしかしてあの子が……」  ラウールが小屋の一番奥でのんびりしているメスの牛を指差した。 「あれが迷子牛です。あ、名前はルーっていいます。ほら、ルー! 外に出るよ!」 「ゥモォー」  ルーがひと鳴きしてこちらを見る。そしてようやく小屋の外に出るため歩き始めた。本当にマイペースでおっとりしている。 「かわいいな。ルー! ほぉら、外に出るぞ~」  ラウールが近づいて慣れた手つきでルーの首筋を撫でている。まるでずっと世話をしていたかのような感じだ。 「ラウールさん、牛の扱い上手いですね。初めてじゃないんですか?」 「いや、遠くから見たことはあるが、触るのは初めてだよ。でもルーの目がとてもやさしいから、大丈夫だと思ったんだ」  ラウールの度胸にステラは目を剥いた。初めて間近で牛に接して、こんなに余裕で操るなんて驚きだ。そうして六頭の牛の放牧を終える。そのあとは、小屋の中の掃除だ。これが一番大変なのである。汚れた藁と牛の排泄物を集めて農地のある方へ移動させる。これは堆肥になるので貴重なものだ。  そして井戸から水を汲んで運び、小屋の中を水で流しながらブラシをかけていく。最後に綺麗な藁を敷き詰めて、牛小屋は完成だ。

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