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第4話
そわそわ落ち着かないステラのもとにやってきたのは、なんと邸に常駐している医者だったのである。まさか邸に医者までいるなんて驚きだった。
年齢的には六十代くらいで、頭の毛はほとんどなかった。口ひげを蓄え、丸い眼鏡をかけた男性だ。
「ダグラス、彼の……ステラの傷を見てやってほしい。足は少しひどい」
「わかりました、旦那様。では見せてください」
足に巻かれたハンカチーフを取ったダグラスが「おや」と呟いた。
「縫うほどではないですが、傷口を洗って薬をつけて、傷に当てる布を毎日取り替えるといいでしょう。腕は足ほどではないので、清潔な包帯を巻いておきますよ」
ダグラスの処置は迅速かつ的確だった。破れたズボンを脱いで、足を洗い薬をつけられる。少ししたら使用人のメアリーという女性が洋服を持ってきた。
「旦那様がもうお召しにならないお洋服をお持ちしました」
「ありがとう。ステラ、私のお古で申し訳ないが、これなら着られると思う」
「えっ、あの、服までそんな……っ、大丈夫です!」
「大丈夫?」
ラウールの視線が、傷を治療するために切り裂かれたズボンに移動する。それを着て帰るの? という表情でこちらを見られて、じわっと頬が熱くなった。
「あの、お言葉に甘えて……お借りします」
「いや、もう私は着ることがないから、そのまま着替えて帰るといい。帰りも自宅まで送ろう」
「え! そんな……」
申し訳ないです、と言いかけたが、ここからリコッタ村まではかなりの距離がある。それを手当てはしてもらったとはいえ、怪我をした足で帰るなんて到底無理だろう。
「ん?」
どうかしたか? と言いたげなラウールの眼差しに、ありがたく申し出を受けるとステラは伝えた。その返事にラウールも満足げな顔で向かい側のソファに腰を下ろす。
「本当になにからなにまでありがとうございます」
「いや、気にすることはないよ」
使用人が持ってきた紅茶を優雅に飲みながら、ステラが治療を受けているのを見ている。あっという間に治療は終わり、汚れていた服はラウールのお下がりをもらい綺麗になった。ブラウンの上質なパンツに白い襟付きのシャツ。ボタンのひとつひとつも高そうだった。ずっと履き古しているくたびれた革の靴とはちぐはぐな印象だ。しかしそれはもうしかたがない。
立ち上がってみると、痛くて歩けないと思っていたが、治療と少し休んだおかげでどうやら大丈夫そうだ。
「今日は、ラウール様がお邸で絵画を公開されると聞いて、街まで来ました。でもこんな形でお邸を訪ねることになるなんて複雑な気持ちなんですが……」
「ああ、そうだったのか。もう見ることができるから、心ゆくまで見ていくといい。案内しよう」
「えっ、いいんですか? 案内まで……ありがとうございます」
ラウールの顔を見れば見るほど、記憶の中の恋人と重なる。彼にもし前世の記憶があるならそれはきっと……。まだ確信はないし、どうやって聞けばいいのかわからない。
いろいろと考えているうちに、絵画が展示されてある建物に案内された。そこでは街の人々がもう絵を鑑賞しているようだ。
「ああ、素晴らしいわ。この女性の絵は美しいわね。薔薇もとても綺麗だわぁ」
「ねえ、こっちの風景画もすごいわよ。私こんなのを見たの初めてだわ」
人々が口々に感想を言い合いながら鑑賞していた。
「私は奥の部屋にいるから、ゆっくりと見ていくといいよ」
「ありがとうございます」
ステラもみんなと同じように入り口まで歩いていき、そこからじっくりと見始める。一枚目は女性が鍔の大きな帽子を被り、一輪の美しい薔薇の花の香りを楽しんでいる様子だ。やさしいタッチの淡い色使いだ。目を閉じた女性が今にも開眼しそうな感じである。
「これ、やっぱり知ってる」
ステラはそう呟いた。脳裏に浮かんだのは様々な構図の絵だった。ステラは奥歯を噛みしめ、今にも泣き出しそうな感情を必死に腹の中に押しとどめる。知っているのに見たことがないような不思議な感覚だ。寒くもないのに全身が震える。
「本当に、あの人が描いたんだ……」
「当たり前よ。だからここにあるんじゃない」
隣で絵を見ていた女性が、ステラの独り言に返事をする。驚いて声のする方を見れば、村人の格好ではなく街でよく見るカラフルで小綺麗なドレスを身につけた女性だった。
「ラウール様はこの一帯の領主であり、流星の騎士であり、天才的な芸術の才能の持ち主なのよ。こんなすべてに万能な人がいるなんて信じられないわ。ねえ、リアンナ」
「本当にそうよね。こうして自分で描いた絵をみんなに見せてくださるなんて、心のお広い方でおやさしい。それにあの美しい容姿。この国の女性はみんなラウール様をお慕いしていますわ」
女性二人が頬を赤らめながら話している。確かにラウールの眩しいほど美しい金髪に、目が離せなくなる美貌は女性の視線を縫い止めるのに余りある。
ステラはこの絵を見て確信した。この描き方の絵を知っている。記憶の中の様々な絵と酷似していた。もしかしたらラウールにもステラと同じようなことが起こっているかもしれない。前世の記憶がなんらかのタイミングで蘇っていたら……。
(確認するにはどうすればいいのかな)
ステラはその方法を考えながら、壁にかけてある絵を順番に見ていく。どの絵もステラの胸に懐かしさをもたらした。最後まで見終わったとき、信じられないほど涙をあふれさせて泣いていた。
「あなた、大丈夫?」
女性に声をかけられそちらを向く。泣くほど感動したのね、と勝手に解釈をした女性が綺麗なハンカチーフを渡してくれる。ステラはぼんやりとしたまま受け取った。
(こんなの、こんな気持ち……どうすればいいの? 会いたくてしかたがなくて、懐かしくて切ない。僕の気持ちじゃない。タクミの想い……)
女性にもらったハンカチーフで涙を拭う。とにかくラウールに聞いてみたい、その気持ちだけで絵画を見終わったステラは、邸の奥に入っていく。
(確か、ラウール様はこっちの方へ歩いていったような……)
奥の部屋にいるからと言い、その場から離れたラウールを探して歩き回る。中庭らしい場所に出たが、邸が広すぎて奥の部屋がどれか全くわからない。迷子である。
「おかしいな……こっちじゃないのかな」
中庭には大きな背の高い木が植わっており、建物の壁沿いには薔薇の蔦が這っている。きちんと手入れがされていて、色とりどりの薔薇からは甘い香りが立ち上っていた。足元は手入れの行き届いた緑の鮮やかな芝生で、奥の方には小さな噴水まであった。
「うわあ……なんだろうここ。夢の世界みたいだ」
あまりに美しい中庭に感動し、ラウールを探す目的を一瞬忘れてしまう。ステラは美しい中庭にうっとりと見惚れながら、青銅製のベンチに腰かけた。真上から差し込む日差しが、芝生に様々な模様を作っている。顔を上げ、木々の間から落ちる木漏れ日を見つめた。
「おや、ステラ? こんなところでどうしたんだ? もう絵画鑑賞は終わった?」
声をかけられ、そちらに顔を向ける。建屋と中庭を繋ぐ扉の前に、ラウールが立っていた。その顔を見て感情を抑えられなくなってステラは泣き出していた。
「おい、どうした?」
「すみません。ちょっと、自分でもわからなくて……」
ラウールが近くにやってきてステラの隣に腰を下ろす。どうして泣いているんだ? と聞かれても、ステラはそれがなぜだかわからず、俯いてただ首を振るだけだ。
「変なことを聞くが、どこかで君と会った気がするんだが……」
濡れた睫を跳ね上げ、隣のラウールの顔を見つめた。涙の膜が目の前のラウールをいっそうキラキラ輝かせている。
「……コウ」
ステラは無意識にそう呟いたが、ラウールは怪訝そうな顔をするばかりだ。ステラの涙はしばらく止まらなくて、ラウールを困らせてしまったのである。
ようやく涙が止まったステラは、ラウールの計らいでリコッタ村まで馬車を出してもらうことになった。別れ際、泣き腫らした目で礼を言うと、ラウールはとても心配そうな顔をしていた。それが脳裏に焼きついている。
馬車に揺られながら、ラウールが記憶の中の男性「コウ」とダブって見えて、そればかりを考えている。前世の記憶があるかどうか本人に確認をしようと思ったのに、いざ本人を目の前にしてなにをどう言っていいのかわからなかった。それよりも不意に湧き上がってくる感情に涙があふれ、なにも言えずじまいだった。
「はぁ……。やっぱり似てるんだよな……」
屋根のついた馬車の窓から、外を眺めながら考える。風がステラの前髪をふわふわと揺らしていた。
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