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第3話

 女の子の名前を叫ぶ女性の声が聞こえ、目の前に馬の影が迫る。怖くなったステラは女の子を抱きしめてギュッと目を閉じた。しかし想像した衝撃はこない。こないどころか、ふわりと体が浮き上がる感覚に驚いて目を開く。そこに見えたのは誰かの肩越しの空だった。  ズシンと衝撃があって反射的に目を閉じる。ステラは自分の腕の中の女の子に「大丈夫?」と声をかけようとしたが……。 「大丈夫か?」  男性の声でそう聞かれる。顔を上げると、太陽を背にした金髪の美しい男性の顔があった。知らない顔なのに、以前から知っているような不思議な感覚を覚える。しかし逆光でよく見えない。  覆い被さっていた男性が離れていくと、腕の中の女の子が烈火のごとく泣き出した。ステラの視線はそちらへと移る。  通りの反対側から女性が走ってくると「ママ!」と叫んで女の子は立ち上がって駆けていく。どうやら怪我はなかったようだ。一人でホッとしていると、目の前の男性に腕を掴まれた。 「君の腕と膝は、大丈夫じゃないようだな」 「え? あ……」  そう言われてステラは膝を見る。ズボンの布が大きく破れて出血していた。腕にも擦り傷があり、それを見た途端に痛みが襲ってきた。男が胸のポケットに入っていたハンカチーフを取り出し、血の流れる膝に手早く巻いてくれる。しかしその白くて綺麗なハンカチーフもあっという間にステラの血に染まった。 「このままではよくない。私の邸へ来なさい」  ステラはそのとき初めて真正面から男性の顔を見た。そして息を呑んだのだ。 「あ……」  ステラの脳裏に一人の男性の顔が浮かび上がる。それはいつも側にいてやさしく微笑みかけてくれた、とても大切な人の顔だ。 (この人だ。わかる。この人が僕の恋人……いや、僕の前世の、タクミの、恋人だ)  男性の顔をじっと見つめたままステラは固まっていた。長い金髪は少し波打っている。金の長い睫に縁取られた瞳は、空色の美しい青だ。鼻筋は通っていて、その下の唇は魅力的で目が離せなくなる。思わず手を伸ばして白皙の頬に触れたくなってしまう。まるですべてが芸術品のように思えた。  ステラがあまりに凝視するものだから、男は怪訝そうな顔をする。そして業を煮やしたように、ステラの膝裏に腕を通して華奢な体を難なく持ち上げてきた。 「わあぁあっ!」 「動かないで。動くと落とすかも」  ステラは反射的にその男性の首に腕を回してしがみついていた。金色の長い髪がステラの鼻先に当たる。なんともいえない甘い香りがして、無意識に思い切り吸い込んでいた。もっとこの人の顔を見ていたかったのにそれもできなくなる。 (どうしよう、すごくドキドキしてる……なんだろうこれ)  異常な胸の高鳴りに、ステラは自分がどうかなってしまいそうな気がして怖くなる。さらに周囲の視線がやたらとこちらに向けられていることに気づいた。 「あの、すごく目立っているので、お、下ろしていただいてよろしいでしょうか……? ここまでしていただかなくても……」 「一人で歩けるのか? 私が助けた以上、最後まで責任を持つのが普通だと思っている」  立ち止まった男がそう聞いてくる。立って歩いてみないとステラにもそれはわからなかった。返事を渋っていると、男がそっとステラを下ろしてくれる。足をついて立ってみるとふらつきはしなかったが、一歩踏み出すと、想像以上の痛みが走った。 「ぃっ!」 「ほら、ダメだ」  ふらついた体を支えられる。すみません……と顔を上げると、男性の顔が目の前だ。ドクンと心臓が跳ねる。そしてステラは再び抱き上げられた。 「私はこの一帯の領主をしているラウール・バルヒエットだ。まあ知らない人は少ないだろうが。君の名前は?」 「あ、ぼ、僕は……えっと、ステラ・オークレンです。今日はリコッタ村から用事で来ていて……」 「そうだったか。暴れ馬に遭遇するとは運が悪かったな」  ラウールの声はやわらかく耳触りのいいやさしいものだった。懐かしい気持ちになって涙が出そうになるのを必死に我慢する。  領主であるラウールの邸は、想像以上に大きくて豪華絢爛だった。遠くの方に見える邸を見つめ、ステラは驚きを隠せない。  まだかなりの距離がある道のりを、抱えられたままというのはやはり申し訳なくなった。どうしよう、と悩んでいると、後ろから馬車の走ってくる音がするのに気づいた。 「旦那様! 旦那様!」  男性の声が飛んでくる。さすがにラウールが足を止めた。すぐ隣までやってきた馬車が停まり、御者が顔を青くして下りてくる。 「旦那様、歩いてお邸まで帰られたと聞いて追いかけて参りました。しかも人を抱えていらっしゃるなんて……」 「リーズリー、そう怒るな。歩いたってそんな距離はないだろう」 「なにをのんきにおっしゃっておられるんですか。見てください。邸までの距離を! しかも人を抱えておられるんですから……」  二人のやりとりを見ながらますます申し訳ない気持ちになる。馬車の前に飛び出して助けられなければ、こんな面倒にラウールを巻き込むことなんてなかっただろう。 (邸まで歩かせるなんて思わなかった……)  馬車の後ろにはいくつも荷物が載せられてある。領主が自ら街に買い出しに行ったのだろうか。普通なら使用人が指示されたものを買いに行く。 「ステラ、邸はすぐそこだがリーズリーがうるさいから、馬車に乗ってもらえるか?」 「あ、でもあの……」 「頼むよ」  やんわりと微笑んでいたが、否と言わせないその声音に、ステラは断れなかった。領主がいち村人に「頼むよ」なんて言うのをあまり聞いたことがない。 「は、はい……っ」  そう返事するしかなくて、ステラは丁寧に馬車の中へ運び込まれた。屋根のついている馬車に乗るのは初めてで緊張する。街に野菜やらを大量に運ぶときはステラも馬車を使うが、大きな木の箱に車輪がついただけの簡素なものなのだ。ガタガタ揺れて尻が痛くなるし、気をつけないと荷台の荷物が衝撃で跳ね上がって落ちることもある。  それに比べてこの馬車は違っていた。走り始めても下から突き上げられるような衝撃がほとんどないのだ。馬の蹄の音と金具がカチャカチャと擦れる音しか聞こえない。 (こんな静かな馬車があるんだ。すごいや。でも物語の中にこんな場面あったかな……?)  自分の記憶の中にこれと同じ瞬間があったかを考えるが、細かいところまでは思い出せない。 「おとなしいな。傷が痛むか?」 「え、いえ、それほど、痛くはないです。なんだかご迷惑をおかけしてすみません。それと、助けてくださってありがとうございます」  いろいろと落ち着いてきて、礼を言ってないことに気がついた。ようやく口にできてホッとする。 「別に構わないさ。もう帰るところだったから。君が女の子を反射的に庇ったように、私も君と女の子を暴れ馬から反射的に救っただけだ。やっていることは同じだ」 「でも、僕は庇っただけで助けられたかどうかはわからないですが、ラウール様はちゃんと助けてくださいました」 「でもほら、怪我をさせてしまったから、完璧とは言いがたいな」  ふふふ、とラウールが笑う。この一帯の領主がラウールだというのは知っていたが、正直、顔を見たのは初めてだった。いつもは村で家の仕事をして、作物を持っていくのは父親の仕事だったからだ。今日は納める野菜が少量だったので、無理を言ってステラが配達に来た。  実際の目的はラウールの邸へ行くことだったが、思わぬ形で邸を訪れることになってしまった。  ラウールと話しているうちに、馬車はあっという間に邸の前までやってきて停止する。御者が下りて馬車の扉を開けてくれた。 「待って、私が先に下りるから、君は私の手を掴んで」 「あ、はい。ありがとうございます」  馬車を下り立って邸を真正面から見上げる。三階建ての煉瓦作りで、屋根は赤煉瓦よりも濃い色だ。煙突がいくつも立っていて、明かり取りの窓もたくさんある。出入り口からは使用人が何人も姿を見せた。 「お帰りなさいませ。旦那様。そちらはお客様ですか?」 「そうだ。怪我をしているから治療を頼む。絵画の展示は進んでいるか?」  ラウールがそう言いながら、大きな邸に度肝を抜かれているステラを、街でそうしたようにスイッと抱え上げた。 「わっ! も、もう大丈夫ですっ」 「大丈夫ではないことを先ほど確認しただろう。とにかく、君は黙って私に抱かれていればいい」  ラウールが涼しい顔でそう言いながら邸の中へと入っていく。周りの使用人は目を丸くして驚いている。どう思われているのかと想像するだけで恥ずかしい。  通されたのはラウールの私室のようだった。大きくて立派なデスクが部屋の奥に鎮座し、足元は金糸で模様の描かれた真っ赤で豪華な絨毯が敷かれてある。ふかふかのソファに下ろされてステラは落ち着かない。壁には造りつけの棚がたくさんあり、見たこともないような綺麗な背表紙の本がびっちり詰まっている。壁には絵画がかけられてあり、縦長の窓には真っ赤なカーテンが下がっていた。 (こんな場所、初めて来た。すごい……すごすぎる)  部屋の随所に綺麗な花が生けられてあり、明かりを灯すための燭台もピカピカに磨かれてあった。

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