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二十一、この壺を壊してくれませんか?
「櫻花 !」
どん、と思いの外強く押されたその軽い身体は、押した者から離され、そのまま地面に尻餅をつくように後ろに倒れた。咄嗟に目の前に立ち塞がったその白髪の青年の後ろ姿を、紫色の怪しい煙が覆っていく。
手を伸ばして名を呼ぼうとしたが、その次の瞬間、ぽん、という間の抜けた音が耳に届き、辺りを覆っていた紫色の煙が、どこからか吹き荒れた強い風で宙に散った。櫻花 は地面に残された白い物体を発見し、目を瞠る。
「肖月 、大丈夫ですか!?」
慌てて立ち上がり、櫻花 は駆け寄った。そしてその場に膝を付き、ぐるぐると眼を回してのびている白蛇をそっと掬い上げるように両手に乗せ、心配そうに声をかける。
風が完全に止むのとほぼ同時に、そんなふたりの前に、ゆらりと黒い影が舞い降りた。
こうなってしまう前、ふたりに何があったのかというと――――。
「触れると運が奪われる壺、ですか?」
市井 の骨董屋の主人が、厄介なモノを拾ってしまったのでどうにかしてくれないかと、仙人の格好をしている櫻花 の袖を掴んで、必死の形相で頼み込んできた。
白蛇姿で櫻花 の道袍の腹の辺りに隠れていた肖月 は、こっそりとその小さな頭を衣の隙間から覗かせる。見るからに怪しいその骨董屋の店主の人相に、
(見るからに怪しいひとだな······、見た目で判断するのもあれだけど、)
と、その小さな青銀色のつぶらな眼を怪訝そうに細める。
「仙人様、どうか私を助けると思って、この壺を壊してくれませんか?」
「壊すなら、棒などでご自身で叩き割ればよいのでは? その壺を壊さずに何とかして欲しいわけでは、ないんですよね?」
もっともである。
うんうんと肖月 も頷く。どうやら櫻花 も少しおかしいと気付いてくれたようだ。いつものように、「私に任せてください!」と即答はしなかったので安堵する。
「それができないから頼んでいるのです!」
「は、はあ······ではどうして、できないんです?」
「話を聞いてくださるのですね!」
五十代半ばくらいの背の低い男は、いつまでも道袍の袖を離してはくれず、本当か嘘か、涙目で必死にこちらに訴えかけてくるのだ。
櫻花 は珍しく愛想笑いを浮かべて、困りましたね、と小さく呟いた。それは肖月 に向けてかけられた言葉だったが、白蛇姿の彼はもぞもぞと腹の辺りで動くことしかできない。
店の片隅に置かれているその壺は、とても見事な白磁の壺で、店主の言うような呪物には思えない。両の手の平に乗るくらいの小さな壺で、特になにか悪い気を放っているわけでもなく、所謂、骨董品の高価な壺にしか見えない。
「この壺、粉々に壊して捨てようが、土に埋めようが、次の日には元通りになって、このいつもの場所に戻って来てしまうんです」
そんなことが本当にあるだろうか、と櫻花 は思ったが、それが怪異の類であれば、可能だろう。
遠回しに断っているつもりだったが、それでも必死に頼んでくる店主に同情心が生まれる。
そもそも、困っているひとをそのままにしておけない性格の自分に、どんなに怪しかろうとも、"断る"という選択肢など初めからなかったのだ。
「····わかりました。では本当に壊してもいいんですね? あとで元に戻して欲しいと言われても無理ですからね、」
「むしろただで差し上げますので、好きにしてください! その代わり、二度とこの店の前に戻って来ないようにしてくださると、約束してください!」
店主はひと月ほど、その壺の異様さに悩まされていたのだという。できることなら二度とその壺を見たくないのです! と全力で拒否していた。
その目の下にできた浅黒い部分が、このひと月余りの店主の苦悩を物語っているようだ。
「そういうことなら、私に任せてください!」
その櫻花 の聞き慣れてしまった台詞に、肖月 は衣の隙間から覗かせていた小さな頭を引っ込める。
この二年間ほどで溜まった功徳 は、その前に櫻花 がひとりで溜めてきた五年分と合わせても、天仙になるにはまだ足りない。
余命はあと約三年しかないというに、肖月 の焦りなど露知らず、櫻花 本人はのんびりとしていて、こんな風に毎回寄り道をしてしまうのだ。
(まあ、九割こうなると思ってたけども····)
呆れるでもなく、それを引き受けたことにどこか安堵している自分も、だいぶ櫻花 の影響を受けている気がする。
そんな変化を嬉しく思いながらも、肖月 は新たな"厄介事"に頭を悩ませるのだった。
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