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2-12 ありがとう

 猪突猛進のごとく、目の前の興味に釣られて無明(むみょう)は珊瑚宮にある小さな湯殿へと向かう。白笶(びゃくや)は足元も前もよく見ていない無明を、小さな子供を見守るように、その少し後ろをついて行く。  珊瑚宮は来客用の小さめの宮殿だが、そこで暮らしても問題ないくらいの広さと部屋数があり、簡易的な調理用の厨房も湯殿もある。  習慣的に毎日ということはないが、数日に一度は湯につかるのが普通である。身体を拭いたり髪を洗ったりするのもその地ごとに違うだろうが、目に見えて汚れるようなことがあれば、その都度、というのが当たり前であった。  それは自分たちが公子であるからであって、その地の民たちにはまた違った習慣があるようだが。 「普通、身体を洗ったり髪を洗う時は穀物、主に米とかヒエのとぎ汁が一般的だけど、これはどんな穀物が使われているのかな?」  正直、そのひとり言は、白笶には「?」しか頭に浮かばず、無明がなぜそんなにも楽しそうなのか理解はできなかった。  前に碧水(へきすい)の地で、義兄の白冰(はくひょう)となにかの研究をしていた時のように、彼の探求心をくすぐるものなのだろうという事だけは、確か。 「無明、そのまま水を触ると衣裳が濡れる」 「あ、そうだった! 白笶、袖を持っていてくれる?」  わかった、と白笶は頷き、無明がその細腕を捲り上げたのを確認して後ろに立つと、その両袖をそっと掴んだ。 「へへ。なんか、楽しくなってきた!」 「楽しい?」 「うん、白笶とふたりでいられることも、こうやって好きなことをするのも、楽しい!」  白笶は、小袋を掲げて無邪気にそんなことを言う無明の後ろ姿を見下ろしたまま、無言になる。  それは不意打ちで、きっと何の気なく紡がれた言葉だと知っているからこその、嬉しさ。思わず口元に笑みが浮かんでいた。  それは、普段無表情な白笶にとって、自然に零れた笑みだった。 (君は、私に色んな感情を思い出させてくれる、)  かつての神子といた時のように、たくさんの感情をくれる。神子の代わりなどと思ったことはない。それでも、こういう時に思い出してしまう。同じだけど違う、その感情は、紛れもなく。 「····びゃ、くや?」  ぎゅっと後ろから突然抱きしめられ、無明は思わず掲げていた小袋を落としそうになる。  腹の辺りに回された白笶の腕は、よく知るぬくもりを無明に与えてくれる。両腕をゆっくりと下ろし、回された白笶の腕に触れた。 (俺、またなにかやらかした?)  碧水(へきすい)の時のように、無自覚になにか白笶を刺激するようなことを、自分がしてしまったのだと、流石に反省する。  あの時は、白冰の提案を実行しただけだったのだが、その後に押し倒された事実がある。 (顔が見えないから、余計に····なんだか、心臓がおかしい)  例の如く、白笶はなにも言わないし、回した腕を放す気もないようだ。背中越しに白笶の心臓の音が聴こえてきて、無明は頬が熱くなるのを感じた。 「····私といると楽しい、なんて。君は、変」 「どうして?」  急に白笶が口を開いたので、無明は首を傾げる。 「そんなことをいうひとは、宵藍(しょうらん)以外は今までいなかった」  宵藍、という名に無明は思わず目を細める。 「俺は、また、神子と同じこと言ったんだね、」  少し前なら、その名を口にされるのがなんだか嫌だった。白笶の口から奏でられるその音は、どこか悲し気で、寂し気で、後悔が混ざっていて、自分の胸まで痛いと悲鳴を上げてしまいそうだった。  でも、今のその音は、優しくて、あたたかかった。その変化に、無明はなんだか嬉しくて、微笑む。同じだけど違う。  自分の真名を、呼ばれること。不思議な感覚。記憶はなくても、その"想い"はもうずっと前から"ここ"に在る。 「君は私に、たくさんの感情をくれる。私は君に、なにをしてあげられるだろうか」  耳元で囁かれるその低い声に、触れられているあたたかさに、無明は思考が上手く働かなかったが、ただひとつ、はっきりしていることがあった。 「いつも、傍にいてくれる。味方でいてくれる。それだけでじゅうぶんだよ!」  満面の笑みを浮かべて、無明はあえて明るく言った。自分らしく、誰でもない、自分自身の言葉で。 「へへ。俺ね、こうやって白笶とくっついてるのも好きだよ、」  万歳でもするかのように両手を掲げて、精一杯の想いを伝える。  白笶が好き。  大好き。  ずっと傍にいて欲しい。  それだけで、きっと、頑張れる気がする。 「俺ね、知らなかったんだ。紅鏡(こうきょう)にいた時は、ずっと痴れ者を演じて、偽って生きてたから」  竜虎(りゅうこ)や義妹の璃琳(りりん)にさえ、見せなかった。 「寂しいとか、悲しいとか、心が痛いとか、泣くってことも。普通のひとが持っているだろう感情を、俺、知らなかったんだ」  笑顔で偽って、仮面で隠して。  それはたぶん、全部、諦めていたから。  友達も、術士としての将来も、なにもかも。  外に出なければ、得られなかった、モノ。 「その全部を、君は俺にくれたんだ」  貰ってばかりなのは、自分の方だ。 「俺を見つけてくれて、ありがとう」  その言葉に、白笶は思わず抱きしめている腕に力が入った。そのひと言は、これまでの延々と繰り返されてきた空虚なセカイを塗り替えてしまうくらい、彩を与えてくれた気がした。  心のどこかで諦めかけていた、こと。  何度繰り返しても、君に逢えない。  もう、君はいないのかもしれない。  このまま、消えてしまえたら、どれだけ楽だろう、と。 「もう一度、私の前に現れてくれて、ありがとう」  これを運命というなのなら、それでもいい。  あの時、あの場所にいなかったら、その(えにし)はまたすれ違っていただろう。それを考えると、怖くなる。偶然でも必然でも、出逢えたこと。  君が、君でいてくれたこと。 「じゃあ、気を取り直して、実験実験! 白笶、袖を持ってくれる?」 「わかった、」  離れていくぬくもりを寂しいと思いつつ、無明は本来の目的に取り掛かる。振り向いたり、顔を見せることができなかった。精一杯の強がりで、滲んでいる視界を堪える。  純粋に、嬉しかったのだ。  そんな風に言ってくれたこと。思ってくれていたこと。この感情は、君にだけなんだと。  わかってしまった、から。

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