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第12話 風呂掃除の後は
🐻
ありったけの夢……じゃなくて、掃除道具を鞄に詰めこみ。いざゆかん。元汚部屋。
一番大きい鞄を選んだのに、チャックが閉まらない。
「ぐぐ……。くそ。仕方ない。このままで行こ」
肩に斜めにかけ、重さにふらつきつつ家を出る。目的地は歩いて十分そこらの、近所からは外れた微妙な距離にある建物。
アパートが近づくと伸一郎の姿が見えた。
嬉しくなって駆け出す。
「伸一郎さん」
「ん? ああ。藤行か」
いかにも夏の姿と言わんばかりのデカい男が振り向く。汗が光る鍛えられた肉体を見せつけるようなタンクトップが、伸一郎にとても似合っている。
彼はビニールプールにホースで水を入れているところだった。大掃除の時に発掘した子ども用プール。
「まさか入るの? サイズ間違ってない? 足湯用?」
「こいつ用」
大きな手がぽんぽんと叩くのは、黒い縞模様が美しいスイカ。
「あ。スイカ冷やすために?」
「そうそう。大玉過ぎて俺の冷蔵庫に入りやがらねえ」
蛇口を閉め、スイカを煌めく水面に沈める。
「ついでにこいつらも」
段ボールを逆さまにする。ぼちゃぼちゃとダイブしていく野菜たち。トマト、きゅうり、シシトウ、なす。跳ねた水が藤行のズボンを濡らす。慌てて避けたが、すぐに乾くからいっか。
それよりも瑞々しい野菜に目をぱちくりさせる。
「伸一郎さん。農家の人なの?」
「ニートだが?」
「……。じゃあ、この野菜たちは。盗品……?」
空になった段ボールをぽいっと捨てる。
「貢ぎ物」
伸一郎の横顔をまじまじと見つめる。
いかにも「セフレたくさんいます」みたいな顔をしている男だ。その人たちから、だろうか。
「誰に貢がれたの?」
「ジジババ」
全然違った。
「あ、おじいさんたちから、なの?」
この男の親族だ。きっと身長三メートルはあるに違いない。
「ああ。だから食うものには困ってない」
「ハロワ行かないの?」
じろっと黒い瞳が向けられる。
「お前こそ。平日の朝から何してんだ」
「俺も働いてないよ」
みーんみんみんみーーーーん。
朝からフルスロットルの蝉さんが鼓膜を震わせる。
「……ハロワ行かねえのか?」
ちょっと心配するような眼差しに苦笑で返し、暑いのでアパートの影に避難する。
のろのろと伸一郎もついてきた。
「俺は主夫やってるから」
母は海外。父は好きを仕事に。両親がバリバリ働いてくれているおかげで家と弟のことに専念できる。
伸一郎は地べたに腰を下ろす。
「どぉーりで掃除手慣れて、人妻オーラを放ってるわけだ」
「人妻じゃねええええよ」
地団太を踏みそうになるが、ぐっと堪える。
「……」
「……」
気まずくない沈黙が流れる。
「長男なのに働けとか、言わないの?」
「俺も働いてねえ」
「……いやあの」
「両親働いてて学生の弟がいるなら、誰かは家の事やらなきゃいけねえんじゃねえの?」
どうでもよさそうな顔。だが彼にそう言ってもらえて、心が軽くなった。いや。「言わせて」しまったか。
でも嬉しい。
「う、うん。ありがと……」
膨らんだ鞄を奪い取られる。
「あっ」
「重てえな。なに持ってきたんだ。エロアイテムか?」
「掃除道具に決まってるだろ!」
文句を言いながら階段を上がっていく伸一郎についていく。
「もしかして重そうだから、持ってくれたの?」
「階段から転げ落ちそうだったからな」
部屋に入り、目を丸くする。
昨日よりちょっと磨かれたフローリングに、薄紫のラグと小さいテーブルが部屋の中央に置かれていた。雑に敷いたのか薄っぺらいラグは端がめくれてシワになっているが。
これだけで一気に生活感が出たように思う。
藤行は目を輝かす。
「どうしたんだよ。伸一郎さん。人間の部屋みたいじゃん」
「昨日帰りにホームセンター寄って中古の買ったんだよ。人間の部屋ってお前……」
壁にはグラビアのポスターが貼ってある。おかげで人型のようなシミは見えない。
「おお。すげえでかい……」
「なんだその童貞感想は」
「このポスターより、アロエちゃんの方が良くない?」
「良くない」
ラグの上に鞄を置く。
「で、今日は何やるんだ?」
「お。やる気?」
「なにかを真剣にしているお前の横顔が魅力的でな。もっと見たいんだ」
すんごい恥ずかしいことをさらっと言われた。藤行の顔が赤に染まる。
「ど、どうしたんだ? 伸一郎さん。頭ぶつけた?」
「殺人現場風呂をきれいにするのどれだよ」
勝手に鞄を漁られ、どんどんテーブルに薬品を並べていく。
「おい。なんでラップが入ってんだ? 何に使うんだ?」
「風呂掃除。タイルに撒いた薬品がより染み込むようにラップで封をするんだ」
持ってきた使い捨てビニル手袋も取り出し、装着する。
「んなまどろっこしい……。ガシガシ擦ればいいじゃねぇか」
「人類皆伸一郎さんみたいな熊じゃないんだよ」
黒エプロンと三角巾(高校の時の)も装備して、準備は完璧だ。
しゃがんだままの伸一郎は藤行をじろじろ眺める。
「エプロン付けたお前を見てるとすっげえムラムラする」
「早く風呂に薬撒いてきて」
我が家でも使用しているスプレーを押しつける。伸一郎は手袋もマスクもせずに風呂場へ向かう。
「おおい。伸一郎さんの分も手袋あるから、使えって。マスクも!」
「農薬の霧の中で深呼吸してもなんもなかった」
ポッケに片手を突っ込み、恐れることなくシュッシュッと噴射している。肺気管まで強いのかよ。どうなってんだ。良い子は真似しないでね。
「スプレーしたらラップ貼って置いて。俺はアホみたいにフローリングと窓を磨くから」
「普通に磨けよ」
丸めた新聞紙で窓ガラスをきこきこと擦る。小学生の頃、職業体験で教わった知識だ。
無心で掃除するのはなかなかに楽しい。
「ピカピカになった!」
べたつかないフローリングに外が見えるようになった窓。ついでに磨いたキッチンのシンク。達成感と心地よさににんまり笑顔になる。
「やったー! 偉い、俺。世界一偉い」
頑張った自分を褒める。両手を上げて一人盛り上がっていると「なんだなんだ」と家主が風呂場から顔を出した。「横顔が~」云々言ってたため、ちょいちょい俺の顔を見に来て、気が散ったぞ。
「暑さで頭やられたか? 水シャワー浴びるか?」
「お。風呂場の方はどんな感じ? 浴槽の方は手伝うよ……」
巨体を押しのけ風呂場の用を確認。風呂場に一歩入るなり目を見開いた。
鑑識を呼びたくなるほどひどかった風呂場が。タイルが。浴槽が。
鏡のように輝いている。
「……」
開いた口が塞がらない藤行に、汗を拭いながら伸一郎がドヤ顔する。
「ま、こんなもんだな」
「……」
「知らなかったぜ。汚れって、擦ったら落ちるんだな」
「感想が掃除素人すぎだろ」
ここまでの実力を持ちながらなぜ今までやらなかったのが気になる。誰かと一緒でないと掃除する気が起きないタイプか。
天井まで、白く輝いている。
「どうだ? この風呂場なら、お前でも入れるか?」
「う、うん。俺の家の風呂よりきれいかも……」
「じゃ、一緒に入るか」
「え?」
何か言われた気がする。
見上げるとニヤリと笑う顔があった。
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