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第27話 ひそかに応援していたアパートの住人たち
🐻
弟が合宿に行ってしまい、暑い日々を抜け殻のように過ごしている。今日もスーパーの帰り道、ずっしりしたエコバッグを肩にかけ歩いていると、見知った顔を見つけた。
「伸一郎さん……?」
タンクトップに上着を羽織り、半ズボンを履いた夏らしい恰好。後ろ姿だけで彼だと分かる。嬉しくなり駆け出そうとした足が止まる。
「ねえ、伸一郎ぉ? このあと空いてるぅ? デートしようよ~。デート」
彼の腕に、スタイルの良い女性が腕を絡ませている。
伸一郎はアイスを舐めながら歩いているようで、女性はそれも欲しそうに唇を近づけている。
彼はアイスの持った手をあげる。手を伸ばしても届かない。
「ああん。けちんぼ」
「うるせーなー。こっちで我慢しとけよ」
そう言うと、彼女の唇に優しくキスした。
「……」
目の前の光景が信じられない。
「あん。もう。伸一郎ったら」
「嬉しいくせに」
「なによ……。きゃっ」
躓いた女性を、伸一郎が抱きとめる。
「あっぶね……。無理にヒールのある靴を履くからだろ。草履にしろ、草履に」
「草履って! このスカートに草履が似合うわけないでしょ? ……でも、ありがとうね」
お礼を言ってキスをして、照れた少女のような表情をする女性。
ギチ、っと絶対に壊れてはいけないところが軋んでしまったような。そんな音がした。
伸一郎は優しい。
だがその優しさが自分以外の誰かに向けられている。
当たり前だ。だって俺は彼氏でもなんでもない。
伸一郎が他の誰かに優しくしている。
その光景が嫌で嫌で仕方なかった。
灼熱の太陽が、真っ黒な影を生む。それは藤行の心のようだった。
(帰ろう……)
背を向けてふらふらと歩き出す。
がっと肩を掴まれた。
「え?」
「よお。藤行」
伸一郎だった。腕に絡ませた女性も一緒だ。まともに見ると、その女性がとんでもない人なのだと知る。
艶のある茶髪は緩やかに波打ち、瞳は薄い灰色。明らかに異国の血が混ざっている美しさ。それなのに顔立ちは妖精のように愛らしい。
背が高く体つきも申し分ない伸一郎と、見事に吊り合っていた。レモンの形をしたピアスも彼女の魅力を引き立てている。
妖精は唇に人差し指を当て、伸一郎を見上げる。
「知り合い? きれいな子」
伸一郎はそれには答えず、上着を脱ぐと藤行の頭に被せた。
「え?」
「日傘くらいさせよ。せっかくの雪の肌がお前。勿体ねぇ」
「……」
面白くなさそうに女性が頬を膨らませる。
「私にはこういうことしないのに。この子にはするのね?」
「オメーは日焼け止め持ってるだろが。ほら。貸せ。荷物持ってや――おい!」
上着を投げつけると、藤行はその場から走り去った。
いたたまれなくなった。
暗い心に感情が浮かばず、ただ重くて捻じれた何かだけがあった。
しばらく何も手につかなかった。
ひたすらぼーっとして、心がないような。
皿を洗おうとすれば皿を全部割ってしまうし、洗濯しようとして洗剤の量を間違えたかもしれない。家の一階の何もかも泡まみれになった。
飯を作れば食った親父が「うごぉ……」と呻いてトイレに行ったきり戻ってこないし、掃除機をかければ花瓶や割れるものを次々割った。
見かねた親父に「もういい。部屋で休んでいろ」と言われる。親父の顔色が悪かったが、どうしたのだろうか。
部屋で明かりも付けずに、録画したアロエちゃんを見る。
かわいいな……
『アロエ! 本気なの? 本気であの男に告白する気⁉』
推しが告白?
藤行は真面目に首を吊ろうかと思った。
いや、まだだ……。せめてエンディングまで視てから。
『う、うん。グレープちゃん、応援してくれないの?』
『あんたわさびのことが好きだったんじゃないの?』
え? 百合?
生きる活力が湧いた。
『ええ? わさびちゃんは友達だよ……』
『よりにもよって、なんであんな男なのよ。あんたにはもっといい男がいるはずよ』
真剣に頷いている藤行。
『でも、好きになっちゃったんだもん……。止められないよ。好きな人がいるグレープちゃんなら、分かってくれるでしょ?』
『それは……。でも、だからってあんな……』
思いを告げに走って行ってしまうアロエを見送るグレープ。かつてアロエにきつく当たっていた彼女だが、幹部との戦いで絆を深めたのだ。あの回を視るたびに脱水症状を起こすほど泣いてしまう。
アロエは想い人に告白した。
『す、好きです! ヨウカン君』
『ごめん。俺、尻の大きな子が好きだから、幼児体型なお前に興味ない』
ぶっ殺してやろうかヨウカンてめぇ! 世界一の女の子が告白してくれたってのに。そのメガネは飾りか?
しかしアロエは微笑む。
『きっぱり振ってくれてありがとう』
『怒らないの?』
『おかげで前に進めます』
泣いていたが、彼女の笑顔は輝いていた。
「……」
呆然とエンディングを眺める。
(俺、もしかして前に進めてない……?)
捨てられるのが嫌だと足踏みして、そのくせ彼が他の人といるところを見ただけで逃げ出してしまう。
自分でも何がしたいのか分からなくて嘲笑した。
いや、分かり切っている。
藤行は長くため息をつき、心の錘をぽいと捨てた。
こんなうだうだうじうじしている男が、アロエちゃんに吊り合うはずがないのだ。
(ありがと。アロエちゃん)
親父が声をかけてきたが初めて無視して、夜中なのに藤行は家を飛び出した。
「こんな時間になにしてるのー?」
「一緒に遊びに行かね?」
一見真面目そうなお兄さん方に絡まれてしまった。いつもは適当にあしらうのに、焦っているせいかこういう時は適当な言葉が出てこない。
「す、すいません。急いでいるんで」
「まあまあ、そう言わず。一杯飲んで親ぼくを深めようや」
「おススメの店あるよ?」
じりじりと壁際に追い詰められそうになる。走ったとしても逃げ切れるかどうか。
そのとき自転車の音がして、キキィっと藤行の後ろで停車した。
「え?」
振り返るといつぞやの猫背の方だった。伸一郎と同じアパートの住人で以前「同じにおいがする」と爆弾発言してくれた人。
「……」
お兄さん方がぽかんとする中、縮れ髪の猫背の人は親指で自転車の後ろを指差す。
「……。失礼します!」
意図を汲み取った藤行は自転車の後ろに飛び乗る。
猫背の方の両肩に掴まると自転車はすぐに動き出した。前のカゴに荷物と二人も乗っているので初めはふらついたが、次第に速度に乗り出す。
ぽけっとしていたお兄さんたちが我に返る。
「あ。おい!」
「待ちやが――ぎゃあああっなんだ!」
振り返ると、トイレで顔だけ出していたスーツの男性が電柱から顔を出していた。
驚いたお兄さん方は尻餅をついているのが見えたが、自転車はすぐに角を曲がったので、見えなくなった。
アパートに着くと、藤行は自転車から下りる。
「あ、あの」
「……」
何も言わない人に、藤行はにこっと笑う。
「ありがとうございます。助かりました。――お姉さん」
「!」
縮れた髪の隙間から、見開かれた目が見えた。
「なん、で……?」
「え?」
「なんで、女だって、分かったの?」
藤行は本気で首を傾げた。
「え? どっから見ても女性じゃないですか? さっきはかっこ良かったです」
「……」
がしゃんと丁寧に自転車を留めると、ブルーシートに荒縄、シャベルを持って二階へ上がって行ってしまう。なんでそんな死体でも埋めに行きそうなものを。いや、考えるな。きっとガーデニングだきっとそうだ。
(助けてくれるなんて。アロエちゃんみたいに素敵な人だな)
ところであのスーツの男性は何だったのか。
(伸一郎さん……)
まだ明かりのついている彼の部屋を見上げる。
部屋の前まで行き、呼び鈴を押そうとする。
「……」
いきなり来ちゃって、申し訳ないな。
ていうか、あの女の人といちゃついているんじゃ……? それか他のセフレの人と……。
ええいっ。キリがない。
頭を振って、呼び鈴を押す。
すかっ。
「ん? あ! まだ呼び鈴直ってないんじゃん!」
ガスガスガスと連打するもうんともすんともいわない。
「はあー。ここまで来てこれって……。帰ろっかな」
「藤行?」
扉が開き、上半身裸の伸一郎が出てくる。
「ぴゃっ! なんで服着てないの?」
「暑いから」
夜なのにクソあちぃなーと言いながら腕を掴んで当然のように藤行を引きずって行く。
「ちょっと! あの」
心の準備が!
「あー? 晩飯作りに来たんだろ? 冷やし中華作れよ」
「麺類から離れろ!」
部屋に通されるも他の人の姿はなかった。少しだけ、ホッとした。
「じゃあ、夜だしがっつり食えるもんでも……」
「伸一郎さん。あの、話が、あるんですけど」
冷蔵庫を開けようとした彼の手が止まる。
「あ? やっぱ冷やし中華か?」
「大事な話だから座れ。お茶淹れるから」
机を挟んで各々座り、彼の前に湯呑を置く。
「話って?」
「し、伸一郎さん……。俺、実は」
あなたのことが――
「……」
うつむいてしまう。
「?」
湯呑に口をつけながら、伸一郎はテレビをつける。わいわいとテレビの音が、どこか遠くに聞こえる。
この関係が終わってしまう。
(覚悟決めただろ! 情けない。言えっ。言うんだ!)
藤行はぐっと拳を握った。
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