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第35話 推しのお家にお邪魔します
エレベーターを降りてから、再度
「今夜、俺の家泊まりにきてよ」
と希逢が伝える。すると由羽はわかりやすくおろおろとする。その様子がかわいくて、希逢は見飽きない。細い眉が困り眉になっている。由羽の困った表情が自分のツボだと気づくのにそう時間はかからなかった。
「明日は仕事?」
「いや、明日は休み……」
「そ。じゃあ俺といっしょだね」
真顔のまま希逢が答えるので、由羽は目を丸くさせて驚いている。うさぎみたいなつぶらな瞳。返答に困っている様子だ。
「俺の家来るの嫌なの?」
畳み掛けるように聞くと、由羽はふるふると首を横に振った。希逢がしょんぼりとした表情を故意に浮かべたからだった。
「行ってみたい」
由羽が前のめりになって答えるから、自然と2人の顔が近づく。由羽はその距離にハッとして自ら一歩後ろに下がる。
「いいこ」
新宿駅前の大通りで希逢がタクシーを捕まえる。2人で後部座席に乗り込むと、希逢が運転手に行き先を伝えた。由羽はその様子をぽーっとした頭でぼんやりと見つめていた。
まさか推しのお家にお邪魔するなんて……いいのかな。
由羽はとくとくと鳴る心臓の音が希逢に聞こえませんように、とコートのボタンをしっかりと閉める。運転手がいる手前、なんだか恥ずかしくて話しかけられないでいた。
「20分くらいで着くよ」
「……うん」
そっと、由羽の手が希逢に取られる。つんつんと指先に触れられ、身体が熱くなる。
その後は互いに無言だった。由羽からはとてもじゃないが話しかけられない。それに、希逢はスマホを見ている様子だったから、必然的に話す必要がなくなり安心していたのに。希逢の手のひらだけは、由羽の手指をおもちゃのようにして遊んでくるのだから、由羽はぐぬぬと耐える。恋人みたいなことをしている気がして気恥しいのだ。
タクシーが停車する。会計は希逢がスマートに支払いを済ませたので、由羽は目の前にそびえるマンションを見上げた。すごい。身体を上に向けないと最上階が見えない。これがタワマン、と1人感心していると希逢に手をひかれた。あっ。今度は普通の手握りだ。友達同士でやるようなそれ。寒空の下だからか、希逢の手は氷のように冷たい。無意識に手を温めるように、由羽が希逢の手をきゅ、と握った。それに希逢はぴくりと眉を反応させたが、由羽は気づいていない様子だった。高層階のエレベーターに乗り込む。20階のボタンを押した。すぅぅうとエレベーターが上昇する。その間、互いに無言だった。
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