1 / 2

おもくてあまくてにがいもの

「店長、あの人からお笑いライブのチケット貰ったんですけど」  大都会東京、23区の中でも結構な賑わいを見せる街。大きな駅からは徒歩15分と離れた場所にある今時珍しい24時間営業の喫茶店で俺は働いていた。  ビルの一階に店を構えていて入口は表と裏の二つ。どちらにも昭和レトロな看板があって夜になるとネオンで彩られる。内装も今時のオシャレって感じではなくて、なんかイタリアとかヨーロッパとかそこら辺の老舗喫茶店みたいだ。曖昧なのは俺がそういうのに詳しくないから。  でもオシャレよりお洒落って感じの店である。  俺のお店の好きポイントはめちゃくちゃ座り心地のいいソファ。めちゃくちゃ高いらしくてたまに傷が付いたりしていると店長がめちゃくちゃ不機嫌になる。  さて、そんなお洒落な喫茶店で働いている俺が今手に持っているのは大人気お笑い芸人の漫才ライブのチケットだ。俺は結構前からこの人たちのファンなんだけど全然チケットが取れなくて、いつか行けたら良いなぁと思っていたある意味夢のチケットである。  夢を片手に満面の笑みで告げた俺を見る店長の顔は無表情から一気に険しいものに変わって俺はあれ? と瞬きをした。 「返してこい」 「え」 「返してこいって言ってんだよアホンダラ」 「えええでも俺この人たちすげえ好きで」 「んなこたぁ関係ねェんだよ。いいか、それ絶対に使うなよ」  尚も食い下がろうとする俺を今度こそ店長は睨んだ。  もう還暦を越しているまさにダンディって言葉が何よりも似合う店長は眉間に深く皺を刻んで鋭い目で俺を見据える。 「…で、でも、ほら、あの人良い人じゃないっすか…」  へら、と引き気味に笑って一歩後ろに下がった俺を見て低い声で「アホンダラ」と店長が呟いた。 「人殺してそれを“無かったこと“に出来る連中が良い人な訳ねえだろうが」  あまりに現実味の無いことを言われてフリーズした俺に溜息を吐いて店長はサイフォンの方に向き直った。丁度上がり始めた湯を眺め、専用の木べらで珈琲を混ぜて放置する。 「わかったらそれ返しとけよ。明日も来るだろ、あのにいちゃんは」  固まっている俺に目もくれず店長は珈琲と店内に気を配り、時間が来たらもう一度木べらで混ぜてゆっくりと濃い茶色の液体が降りて来るのを待つ。フラスコの真ん中より少し上まで珈琲が溜まるとそれが出来上がりの合図だ。 「おらボケっとしてんじゃねえ。これA5卓のお客様の分だ、へますんじゃねえぞ」  渡された物を受け取って返事をして、なんとなく足が浮いたような心地のまま仕事に戻った。   俺の働く喫茶店、喫茶カメリアは今時珍しい24時間営業の喫茶店だ。  そして今時珍しい喫煙可能な喫茶店でもある。  大都会東京の中でも指折りの繁華街の近くにあるこの店には様々なお客さんがやって来る。それこそ年齢性別職業問わず様々な人が。  あ、値段は大都会価格でお高めだから学生はそう頻繁には来ないかも。  それでもドリンクもフードも美味いと評判で内装も映えるとかなんだとかで連日連夜忙しいこの店だが、緊張が走る一幕が度々ある。  それがやってきたのはチケットの話をした翌日だった。  ジリリリリ。ジリリリリ。  年代物にも程がある電話の音が店内に響き、受話器を取る。そして低く荒い声が端的に用件を伝えてきて俺は「少々お待ちください」と受話器の片側を手で押さえて店長を見る。  それだけで誰からの電話でなんの要件か理解したらしく他の従業員に指示を飛ばした。それを見てからもう一度受話器を耳にあて何度か受け答えをして、通話が終了したのを確認してから受話器を元の位置に戻す。 「何時に来るって?」  サイフォンと向き合いながら店長が声を掛けてきた。 「30分後っすね」 「来たらこの前のやつ返しとけよ」  未だに俺がチケットのことを渋っているのを見越してか念を押すように告げられた言葉に「はい」と苦い声で返して俺は他の従業員と一緒にテーブルをセッティングし始めた。  この店のテーブルのほとんどが移動可能で今用意しているのは10名以上が座ることのできる大テーブルだ。4名席をふたつと2名席ひとつを合わせて完成となる。  内装に合うようにと店長が選んだ赤みの強い大理石風の化粧板があしらわれたテーブルを丁寧に拭いて椅子を整える。普通なら置いておくメニュー表をあえて置かないようにするのはすでに注文する品が決まっているからだ。 「ブレンドが3、アイコが3、オレが1、ココアのクリーム無しが1とチョコパが1、あとなんだ」 「あとピザトーっす漆間(うるしま)さん。あ、チョコソース多めのが良いっすよ」 「カフェオレは珈琲強めで良いって?」 「いつもと同じで大丈夫っす」 「わかった」  にわかに慌ただしくなる俺たちを一週間前に入ったばかりの新人が目を瞬かせながら見ていて俺はいけね、とバックヤードに手招きした。  調理場も全てが客席から見えるようになっているこの店で唯一お客さんからの視界を気にしないで良い場所がこのバックルームだ。表はそれは綺麗に丁寧に整理されているがバックヤードは物がとにかく多くて乱雑だ。おまけにめちゃくちゃ狭い。  二人横並びになれないくらい狭い。  そんな場所に呼び出された新人の女の子はまだ慣れない様子で俺のことを伺っていた。 「まだ慣れないっすよね。今日で何回目っすか?」 「さ、3回めです」 「おーピッチピチの新人だ。あ、ドリンクとかちゃんと飲んでる? ドリンカーの人に言ったらアイコかアイティーくれるから好きなの頼んでくださいね」 「あ、アイスコーヒーとアイスティーですね…!」 「そうそう、最初この略し方違和感しか無いっすよね。でもまあそのうち慣れますよ。で、どっち飲みます?」 「アイスティーがいいです」 「おっけ。店長、新人ちゃんアイスティー飲みたいってー」  俺の言葉が聞こえたらしい店長はドリンク用のグラスを持ってアイスティーを淹れた。それを調理担当の漆間さんに渡して、今度は俺が受け取る。 「シロップとかいらなかった?」 「大丈夫です。ありがとうございます」  俺もアイスコーヒーを淹れて貰って一口飲み、そもそもここに連れてこられた理由を問うような視線を新人ちゃんが向けているのに気がついて眉を下げながら笑う。 「そうだったそうだった、普通に一服しちゃってたわ。驚かずに聞いて欲しいんすけど」  フロアからは他の従業員の元気の良いオーダーの声が聞こえてくる。それに返す「かしこまりました」の声が渋くて笑いそうになるのは仕方がないことのような気がする。  天気も良く人通りも多い。常連さんの中にはブライダル系の社長だったりちょっと怪しげなコンサルの人だったり、多分アーティストの人もいる。けれどそういった普通の人だけが常連様ということはなくて。  たまに怖い人もいるのだ。 「今からヤクザ来るんすよ」  目を大きく開き口をぽかんと開けた新人ちゃんはそのまま数秒固まり、そして「え」とだけ呟いた。  ───  電話が来てからきっちり30分後、入店を知らせるベルの音が響いた。  彼らは案外時間を守る。そして店に入るときは必ず裏の入口からだ。理由は簡単で人通りの多い箇所を彼らは好まないということと、うちの裏手は少し離れた場所に駐車場があるからだ。もちろんそこに停めている訳ではない。  店の景観を損なわない場所に止めていて、その車を下っ端さん達に見させているという具合だ。  ベルが鳴って一番に入ってくるのは決まって下っ端の男だ。年齢は俺とそう変わらないと思うけど目つきがあまりにも鋭すぎる。初めて会った時はナイフかと思った。  その目力ナイフ男と目が合って俺が「いらっしゃいませ」と声を掛けて足早に近づく。この人たちの接客をする従業員は決まっている。俺か社員の誰かか店長だ。 「席は」 「こちらです」  裏口から一番近い場所に作っておいたテーブルに案内すると男は満足そうに頷いて一度店から出る。それから1分も経たないうちに見えた人影にドアの側で待っていた俺は招き入れるようにそこを開けた。 「いらっしゃいませ」 「いつも悪いなあユウキ君、今日も8人頼むわ」  ふわりと香る香水の中に混ざった煙草の匂い、声の余韻が消えるよりも前に俺の頭に手が乗ってぽんぽんと優しく撫でられた。 「…だからタツさん、こういうのは」 「すまんすまん、もう癖なんじゃこれ」  俺は別に背が低い訳じゃない、この人の背が高いだけなのだ。  見上げる俺に悪戯っ子のように口角を上げたやけに顔の整った派手な男はひらりと手を振って店の中を進む。その後ろからぞろぞろと人相の悪い男たちが7人続き、店内は異様な雰囲気に包まれた。 「注文は?」 「もうしてあります」 「おー、よおやった。後で小遣いやるわ」  背の高くて派手な男、タツさんが煙草を咥えるとすぐ様隣に座った舎弟みたいな人が火を付ける。深く吸い込んでから紫煙を吐き出す様がこんなに似合う人を俺は他に知らない。 「ユウキ、持っていけ」  店長の低い声と一緒にカウンターにココアとチョコパフェが乗る。  俺はそれをトレイに乗せて伝票にチェックマークを付け、異様な団体の方に足を進めた。 「失礼します。ココアとチョコレートパフェをお持ちしました」 「おお」  タツさんは薄黄色のサングラスの奥の目を子供みたいに輝かせて自分の前に置かれるメニューを見る。背が高くて顔が派手で体付きもしっかりしていていつでもオーダーメイドっぽいスーツを着こなしているタツさんだが、かなりの甘党だ。  以前ストレスが溜まったらホイップクリームを直飲みすると聞いてちょっと引いた。 「…今日なんかチョコ成分多ない?」 「タツさん甘いの好きだから増やしときました。あ、やんない方が良かったっすか?」 「…いんや、最高」  パフェから俺に視線を移したタツさんは嬉しそうに笑って「ありがとう」とお礼も言ってくれた。  それに俺も笑顔で返してカウンターに戻ると次々上がってくるメニューを持っていく。  時間の掛かるパフェを最優先にしたのはタツさんがこの8人の中で一番偉いからだ。厳しい縦社会らしいので下っ端さんたちはいつでもアイスコーヒーで順番も一番最後だ。  下っ端さんたちは常に何があっても良いように椅子には浅く腰掛けていて、ほんの少しアクシデントがあったら飛ぶような速さでカウンターにまでやってくる。  だが今日はそんなアクシデントもなくタツさんのパフェタイムが終了したようで7人は先に店の外に出てタツさんだけが残される。座ったままレジのある場所を見て、そこに俺がいるのを確認してから席を立ち歩いて来る。 「今日もうまかったわ、ごっそうさん」 「いーえ。そんじゃお会計っすね」  この頃になると周りのお客さんも異質に慣れてくれていつもと変わらない喫茶カメリアの姿になる。日本人の順応力ってすげえなと俺は毎回思いながら慣れた手つきで会計を終わらせ、帰ろうとするタツさんを見てハッとする。 「あ、タツさんちょっと待って下さい」 「あ?」 「これ、返そうと思って」  レジ下にある引き出しの中からクリアファイルに入ったチケットを取り出すとタツさんは一度瞬きをしてから俺の顔を見た。 「…都合でも悪なった?」 「いや、そういうんじゃなくてですね」 「ん?」  俺相手にはいつも緩く口角を上げているタツさんから表情が消えた。  ただ無表情になっただけなのにゾワ、と底冷えするような感覚が足元から這い上がってきて俺は唾を飲んだ。一度短く息を吸ってから口を開く。 「…やっぱり、お客さんからこういうの貰うのは良くないと思って。仕事中だし」  へらりと下手くそに笑う俺をじっと見下ろしていたタツさんがぽつ、と零す。 「…プライベートならええんか」 「…ぇ?」  小さすぎて聞き取れなくて首を傾げるとタツさんはいつもみたいに笑って首を振った。 「ならこれは下の誰かにあげようかの」  チケットを受け取ってくれたことに内心安堵で胸を撫で下ろしていればタツさんの目がじっと俺を見ていることに気がついて思わず肩を跳ねさせるとタツさんの目がきゅうっと細くなった。 「な、なにか…?」 「んや。…じゃあまたな、ユウキ君」  爬虫類を思わせる鋭い視線に心臓が嫌な跳ね方をして背中に汗が滲む。  けどそんな空気も一瞬でなくなってタツさんはひらりと手を振って店を後にした。  ベルの余韻が消え、有線から流れるジャズの音がやけに大きく聞こえる中誰かの息を大きく吐く音が響いた。 「……店長、今日も乗り切りましたね」 「あれくらい慣れろ、何年やってんだお前。アイオレG1番様です」  カウンターに置かれたアイスのカフェオレと新人ちゃんの元気のいい「はい!」という返事のおかげで店内は日常を取り戻す。俺のシフトは大体8時〜18時までで、今日もそのイレギュラー以外では特に変わったところはなく時間が進んでいく。  明るかった空の色がオレンジになり藍色に変わった頃、俺の仕事は終わる。最後にレジ金の計算だけして残った仕事を夜の人たちに引き継いでバックヤードに戻って息を吐くと先に来ていた店長が煙草を吸いながら、すっかり温くなった珈琲を渡してくれた。 「あざーっす」 「おう、お疲れ」  店長はもう還暦を過ぎているおじさんなのに未だに現役バリバリで店に立ってる。この後もなんやかんや言いつつ20時くらいまで残るのだろうなと思いながら、フロアに立つ従業員だけが着るベストを脱ぎ始めた時だ。 「ユウキ」  低くて渋い声に呼ばれて振り返る。 「なんすか?」 「…まだ親父さんは帰って来ねえのか」 「全然っすね。まあもう戻って来ねえんじゃないですか」  店長は眉間に深く皺を刻んで煙草を持つ手を灰皿の置いてあるカウンターに置いた。親指でフィルターを軽く弾いて灰を落とし、前髪をくしゃっと乱す。 「…警察は」 「捜索願い出しますか? って言われたけどあの親父見つかったところでって感じじゃないですか。俺としてももうバイト代盗まれないで済むんで正直安心してるんすよ」  俺の親父は現在消息不明だ。どんな言い方をしても大袈裟に聞こえるけれど事実としていなくなってしまった。そりゃあ最初の数日は店長に泣きついたりもしたけれど2週間なんの音沙汰もなければ俺も察する。  俺と親父は2人暮らしだ。  俺が小学校の高学年の頃までは母親と妹もいたけれど親父の酒癖の悪さと浪費癖が原因で離婚してしまった。当然親権は母親に移ると思われたのだが、親父は離婚の時に俺か妹を残していけなんてふざけた条件を叩きつけた。  母親はもう疲れ果てていて正常な判断を下すことができなかったのか、それともすぐにでも親父と離れたかったからなのかそれを二つ返事で了承して結果俺を残して家を出た。  正確にいえば俺が自分から残るって言ったんだ。だってその頃まだ妹は小さくて、子供ながらにこんな親父と二人にしちゃいけないって思ったんだ。そしてその思いは正解だったんだと俺は母親がいなくなってすぐに思い知ることになる。  母親がいなくなって親父は荒れた。酒をもっと飲むようになってギャンブルにも手を出すようになった。  それまではなんとか続けていた会社にも行かなくなって、俺が働ける年になると無理矢理俺を外に放り投げた。当然そんな親が学費を出してくれるはずもなくて俺の学歴は中卒止まり。  で、放り出された時幸運にも店長に拾って貰って俺はそこからここ喫茶カメリアでバイトとして働いている。  給料は俺がお願いして現金支給にして貰っていた。そうしろって親父に言われたからだ。  当然その金は親父の酒とギャンブルに消えた。今思わなくても素直に渡してた俺が馬鹿だと思うけれど、過ぎたことを思ってもしょうがないのだ。 「俺案外ハッピーって思ってるから大丈夫っすよ、店長。バイト代貯めて定時制の高校行くって決めたんで。そんで勉強してもっと金貯めて大学も行く。もし出来たらすごくねえっすか?」  最初は親父がいないことが不安でしょうがなかったのに時間が経つ程に冷静になって、今が人生で一番自由なんじゃないかとさえ思う。  それを体現するみたいに体は軽いしやりたいことが無限に湧いてくる。  働くのは好きだけど目標が出来たことで景色も色付いて見える気がした。 「……困ったらなんでも言え。お前一人くらいなら俺の家に住まわせてやるからな」 「嫌っすよ店長の家絶対煙草臭いじゃん」 「お前人の厚意をなんだと思ってんだアホンダラ」  俺たちはバックヤードでゲラゲラと笑って、着替えて、店を出る。  今日は店長も一緒に店を出て飯を奢って貰った。店長は色々な経歴を持っている人でなんか頭も良くてすげえ頼りになる。今日俺が言った高校の話とかも真剣に聞いてくれるし、めちゃくちゃ的確なアドバイスもしてくれる。  こういう人が父親だったら俺の人生変わってたのかなとか思うけど、そんなの思ったってしょうがない。  腹一杯飯を食わせて貰って駅で解散して、俺は電車に乗り込んだ。  揺られること十数分、ドアが開いて一緒に降りる人たちと足並みを揃えて進んでいく。改札にICカードを一瞬置いて軽い音と一緒に駅から出る。  大都会東京なんて言っても少し離れたら普通の家が立ち並ぶ町に変わる。駅前にあるコンビニとか弁当屋とかを無視して真っ直ぐに家への道を歩く。頭の中にあるのは明日の朝飯についてだ。  親父がいなくなったからといって贅沢が出来るわけではない。冷蔵庫にあるものを思い浮かべながらなるべく手軽に出来るものを想像するとどうしてもお茶漬けとかになってしまうがまあ美味いしいっか、とそこで明日の朝食が決定する。  街灯の明かりで照らされた道路を歩き、大きなマンションが見えると左に曲がる。道なりに進むと大きな道路があって、信号が変わるのを待ってから横断歩道を渡る。  渡ってすぐにあるコインランドリーを見て「あ、洗濯物しねえと」と思い出した。  それから更に歩いてもうほとんど人の気配がしなくなり少し離れた場所に俺の家が見え始めた。  当然マンションなんて上等な物のはずが無く、少し錆びた階段があるアパートの一階が俺の家だ。築年数が結構いってて塀には苔が生えているし外装には少しヒビも入っていたりする。  向かい側の少し離れた場所には公園があって、そこで遊ぶ子供たちが「あの家すげえボロい!」なんて大声で言ってしまうような外観だ。  まあそんな家でも俺にとっては城なわけで。  もう少しで着くというところでポケットに入れたままの家の鍵を取り出そうと手を突っ込んで慣れた感触を握り、視線を上げる。 「ユウキ君」  聞き覚えのある声に顔を向けた。  ちょうど向かい風で、嗅いだことのある香水と煙草の混ざった匂いが鼻に届き俺はゆっくりと瞬きをした。 「…タツさん?」  街灯が少ししかない場所のせいで姿は完全には見えないけれどこの声と匂いを俺は知っていた。公園の方からやってきたタツさんの顔が見えるくらい近くに来た時にはもうその人は俺の前に立っていて、高い場所にある顔を見上げる。 「…どうしたんすか、タツさん。この辺りに住んでるとか?」 「んやぁ。……へえユウキ君そういう服着るんじゃ。店におる時より幼う見える」  もう暗いからかタツさんはサングラスをしていなくて、初めて見る素顔はいつもより迫力があって俺は少し尻込みする。 「ところで」  タツさんは少し背を丸めて俺に顔を近付ける。ぎょっとして一歩下がろうとするけれどいつの間にかタツさんの左手が背中に回っていて出来ない。 「お前の名字、ドウジマ?」  低く、蛇が這うような声に無意識に体が強張った。恐る恐る頷くとタツさんは嬉しそうに頬を染めて笑って、今度は右手で俺の頬を触る。 「親父の名前はアキヒコ?」 「なん、で…」  親父の名前、と続けようとしたけれどその言葉は出なかった。 「ん、んんぅ⁉︎」  頬を撫でていた手が顎を掴んだと思ったらそのままタツさんの唇が俺のと重なっていた。甘い匂いと煙草の煙たさが至近距離にあって、何が起きているのか分からなくて目を丸くして抵抗する俺にタツさんの口角が上がる。  唇が離れて息を吸おうとした瞬間親指が歯の間に入り込み口を閉じられなくなる。それに驚く暇もなく再び唇が重なって、今度は熱くて湿ったものが入ってきた。 「っ、ぅ…っ! んふ、ぅ…、ぁ」  それがタツさんの舌だと気がつくのに時間は掛からなくて、男の舌が自分の口に入ってる事実が意味わからな過ぎて俺は必死に顔を振ろうともがいたりタツさんの身体を叩いたりと抵抗した。  けどなんの意味もなかった。  口に入っていた指が抜けた代わりに大きな手が後頭部を掴んでいるせいで逃げられないし、隙間がないくらい抱き締められて腕も動かせない。それに何より、タツさんの舌が別の生き物みたいに俺の口の中をぐちゃぐちゃにするから、次第に力が入らなくなる。  長くて熱い舌が上顎のざらついた場所を擽って俺の口からは変な声が漏れた。  それを聞いたタツさんが上機嫌に唇を離して、俺の顔をうっとりとした表情で見る。 「飲んで、ユウキ君」  聞いたことがないくらい色気のある声で囁かれ、俺は言われた通りに口内に溜まった二人分の唾液を飲み込んだ。こくりと喉仏が上下して、半開きの俺の口にもう一回タツさんの指が突っ込まれる。 「んぇ…っ」 「…確かめようにも暗うとよお見えんのお。まあええわ、これからずっと一緒じゃけ」  指が抜かれて、俺の身体は軽々とタツさんに抱き上げられる。 「ぇ、な、何…っ」 「お前の親父、ウチから金借りとるんだわ」  ガンと頭を殴られたような衝撃が走った。  意味の分からない状況に抵抗しようにももう手遅れで、俺の身体はいかにも高級と思われる車に押し込まれた。  濃い煙草の匂いに思わず咳き込むと次に乗り込んできたタツさんが扉を閉めてから俺の方を見る。 「よおある話じゃ。お前んとこの親父、もう2週間帰って来とらんじゃろ。あれはのぉ、わしらが恐ろしくなって飛んだんじゃ。首が回らんってやつじゃわ」  煙草を咥えたタツさんが火を付けて、深く吸い込んだ煙を俺に向かって吐く。あんまりにも煙たくて咳き込む俺を見てタツさんは心底楽しそうに笑って運転席にいる人に「出せ」と命令した。  それと同時にエンジンが掛かって車が動き出す。  今とんでもないことが起こっている筈なのに俺の脳がついていかなくて呆然としているとタツさんの手が伸びてきて俺の頭を撫でた。 「で、お前の親父は借金の連帯保証人の名前をお前にして失踪。本人がおらんのなら、返済義務は連帯保証人のユウキ君に移る。わかるか?」 「…そ、そんなの、そんなの俺知らない…っ!」 「そりゃあそうじゃろうけどなぁ、そんなん関係ないんだわ。親父がおらんくなったんじゃけ、まあ尻拭いせえよ」  今日喫茶店で撫でてくれた時と同じ優しい手つきなのに、言われている内容があまりにも衝撃的すぎて俺は混乱していた。わかっていることは父親に捨てられたということと、借金を背負わされたということだけ。  勝手に息が上がり、全身から嫌な汗が噴き出す。 「…い、いくらですか…?」  頭を撫でていたタツさんの手が俺の頬に移動する。視線が絡まって、タツさんは見たことのない怖い笑みを浮かべた。 「5000万」 「…は…?」  非現実的な金額に俺の口からは空気みたいな声しか出ない。  5000万…5000万っていくらだ。 「うちから金借りたんは昨日今日の話じゃないんだわ。馬が当たればパチが当たればなんてクソみてぇなことよお言いよったぞ、お前の親父」  タツさんの言葉は聞こえているのに理解が出来ない。  視線を下げ、呆然と自分の強く握り込まれた拳を見て必死に頭を働かせようとする。だけどいくら考えたって解決策なんて浮かぶ筈がなくて、俺の喉からは変な音が鳴った。  だって俺の時給はせいぜい1000円だ。どれだけシフトを増やしても、別の仕事をしても返せるような額じゃない。どんどん心拍数は上がってそれに比例して呼吸も荒くなる。絶対に俺のせいじゃないのにもう逃げられない状況になってしまっている。  俺はこれからどうなるんだろう、どうしたらいいんだろう。何をされるんだろう。  数時間前まで店長と話していた未来の話が急に夢物語のように思えてきた。そんなことだなんて思いたくないくらい俺には大事な夢の筈なのに、俺はもうそれを「そんなこと」としか思えない。  だって俺は、明日生きているんだろうか。 「っ、かひゅ…っ! は、は…っ!」  今まで文字としてしか認識していなかった「死」というものをリアルに感じて俺は急に息が出来なくなった。空気が通る場所に蓋をされたみたいで上手く息が吸えない。あまりの苦しさに目から涙が止まらず顔に血液が集中して真っ赤になる。  首を押さえてなんとか息をしようとするが出来ずパニックになりそうだった俺の身体を何かが軽く抱き上げた。 「はは、泣いちょるわ。かわええのぉ」 「タツさん、趣味悪いですよ」 「今更じゃろ」  大きな手が俺の後頭部を掴んで必死に酸素を取り込もうとする俺の口を塞いだ。意味がわからなくて片手で相手の肩を突っぱねるがびくともしなくて、そのまま俺の口に何かが吹き込まれる。  それが何度か続くとあれだけ苦しかった呼吸が楽になり無意識のうちに強張っていた体から力が抜けて手がだらりと落ちる。徐々にぼやけていた視界がクリアになると目の前にあったのはタツさんの顔で、俺はまたタツさんに唇を塞がれているという事態に目を見開いた。 「ンンン! んっ、ぁ…っ、んぅうっ」  途端にさっきみたいにタツさんの舌が口の中に入って来てまたぐちゃぐちゃにされる。口のいろんな場所を舌先で撫でて、擦って、それで奥に引っ込んでいる俺の舌を無理矢理絡め取って粘膜を擦り合わせる。  外でした時よりも長くてねちっこい行為に俺の体からは完全に力が抜けてタツさんに寄りかかってしまう。ふわっと香る香水の匂いがこんな時でもいい匂いだと思ってしまって、ちょっと自分の神経を疑った。 「…はっ、ふ…」 「なあユウキ君。このまま組でオモチャにされるんとわしのモンになるんとどっちがええ?」  さっきとは違う息苦しさで呼吸を乱している俺にタツさんは楽しそうに問いかけた。 「…え」 「残念じゃけど時間はそんな無いんよなぁ。あと10秒で決めりぃ」  そこからカウントダウンが始まった。  俺に考える時間を与えるつもりが全くないタツさんに何度も待ってと訴えるが聞いて貰えず、無情にも数は減っていく。  いよいよあと3秒となったところで俺の奥歯がガチッと鳴った。  もう何も分からない。分からないけれど、俺が取れる選択肢なんて最初から一つしかなかった。  知らない怖い場所に連れて行かれるくらいなら、少しでも知っている人の方がいい。 「…タツさん…! タツさんが良いっ」  ほとんど叫ぶような声で訴えるとタツさんは嬉しそうに目を細めて笑った。  いつの間にはタツさんの膝の上にいた俺はそのまま抱き締められてまた唇を塞がれた。何度されたって意味がわからなくて、でも抵抗するのも怖くてできなくて、俺は車が止まるまでの間ずっとタツさんにキスされ続けた。  どこかの地下駐車場みたいなところで車が止まってようやく俺の口は解放された。すっかり腰も抜けて立てなくなった俺をタツさんは軽く抱き上げて車から降り、運転席から降りてきたスキンヘッドのいかにもな人がドアを閉める。 「それじゃあまた連絡下さい」 「おー。まあなんもなけりゃ3日は呼ばん」 「うわ、えげつな。死ぬなよ坊主」  酸欠になった頭では自分のすぐ側で交わされている言葉の意味が上手く飲み込めなくて、だけどなんとなく、というか確実に俺にとって良いことではないというのはわかっていて、でも抵抗らしい抵抗もできなくて、俺はそのままタツさんに運ばれる。  乗り込んだエレベーターの中でも俺はタツさんにキスされて、口の中はもう触られてない場所がないってくらい舐め回された。その間俺の唇の隙間からは変な声が漏れて、たまにタツさんが機嫌良さそうに口角を上げるのがわかった。  唇がヒリヒリするくらい舐めて吸われて甘噛みされて、いつの間にかエレベーターは止まっていて、気がついたら俺はふかふかのベッドに押し倒されていた。 「ユウキ君童貞?」  明かりの点いた部屋で俺を見下ろす人はやっぱりタツさんで、俺はこれが夢であったらいいのにと思った。  だってこんなのおかしい。 「ん? ……はは、また泣いとるんか。案外泣き虫じゃのお」  夢だったらいいのにと思うのにキスされ過ぎて痛む唇が、濃いタツさんの匂いが嫌でもこれが現実だと思わせて来るようで俺の目からは涙が止まらなかった。親父が失踪した時だってギリギリ耐えたのに、今はもう壊れたみたいに涙が止まらない。  男のくせにしゃくりあげて泣く俺の頬にタツさんの大きな手が触れて、親指が涙を拭う。 「泣き顔もかわええけど、ご主人様の言うことには答えんといけんよなぁ?」  頬を撫でている方の手がそのままベッドに肘を着けたことで距離が縮まってタツさんの派手な顔が目の前に迫った。またキスされるのかもと反射で顔を反らしたけれど、腹に触れた冷たさに俺は目を丸くした。 「な、なに…っ⁉︎ なんで」 「わしが聞いたことには答えぇよ。お前ヤったことあるんか」  冷たくて大きな手が腹を撫でて、そのまま胸にまで上がってくる。明らかに男が男にする手つきじゃなくて、俺は混乱しながら口を開いた。 「し、したことないっ! ないからっ」 「ほー、そりゃええ。 男ともシたことないよなぁ?」  冷たい指先が乳首に触れて、きゅっと摘まれた。 「ひっ! …っない、ない! 俺男だよタツさん!」 「なんじゃ、このご時世に男同士のセックスに偏見でもあるん?」  無い、と俺には言い切れなかった。  もちろん理解はあるつもりだ。街や店で見る同性カップルを嫌悪の目で見たことや忌避したことなんて一度もない。そういう形の愛情があることだって知っているし、尊重されるべきだと思う。けれどこれは違う。自分が当事者になるなんて思ってない。 「おれ、俺っ、女の子が好きなんだけ…いっ!」  乳首に爪を立てられて痛みが襲い、俺の身体は強張った。ぴたりと止まった動きと張り詰めた空気に俺は震えながらタツさんの方を見て、喉を引き攣らせた。 「…そうじゃろうなあ」  笑顔なのに笑顔じゃないタツさんの顔と声に震えが止まらず顔から血の気が引いていく。  頬に添えられていた手も乳首を摘んでいた手も退かされて、タツさんもベッドから離れた。そのことに安堵して良いはずなのに俺はずっと震えが止まらない。がち、と奥歯が鳴ってベッドのそばに置いてある棚の引き出しから細長いものを取り出したタツさんがまたベッドに乗り上げて、俺の上に馬乗りになる。  感情の読めない顔で見下ろされて、わざと俺に見えるようにその細長いものをスラリと抜いた。 「……ぇ」  部屋の照明を反射して光るそれは銀色で、先端になる程細くなっている。 「これなぁ、アニキがくれたんよ」  あまりに鋭利な切先が腹に向いて俺はそこでようやく首を振った。 「や、やだ…っ! やだ殺さないで! あ、あやまるから、ごめんなさいごめんなさいっ」 「殺しゃあせんよ。まあ死ぬ程セックスはするけど」  上着の下に来ていた首元がよれているTシャツに下から刃物が入れられる。緊張と恐怖で馬鹿みたいに呼吸が乱れて、見たくないのに視線が刃物から逸らせない。ブツ、と生地が裂かれるとタツさんはそのまま俺の服を引き裂いた。  悲鳴なんか出なかった。  ただ怖くて、震えるしか出来ない。 「…ああ、やっぱ綺麗じゃのぉ」  そんな俺とは正反対にタツさんが心底楽しそうに呟いた。  必要なくなった刃物を適当にベッドの外へと放り投げて、俺の身体を浮かせて上着も脱がせる。  そうしてまたベッドに寝かせられた俺の上にタツさんが覆い被さって、未だに震えている俺の顔を至近距離で見つめた。 「あいしとるよ、ユウキ君」  仄暗い、けれどどこまでも恍惚とした顔で言われた言葉が、俺には外国の言葉みたいに聞こえた。  ───  耳を塞ぎたくなるような音がする。水飴を練っている時こんな音したよなと、そんな場違いなことを考えていたら脳を貫くような刺激が襲ってきて俺は魚みたいにベッドの上で跳ねた。 「なん、まだ余裕あるん?」  心底楽しそうな、そして興奮しているような、そんな少し上擦った声が聞こえる。  俺はその言葉に何度も首を振るのにタツさんはわざと見えていない振りをしてまた同じ場所を押し上げてくる。 「んぅうっ! ない、余裕なんてないから…っ、それやだ、ぁうっ」  電流が流れるような刺激に俺の口からは信じられないくらい濡れた声が出て、自分の意思で制御できなくなった身体は逃げるように腰をくねらせる。そしたら俺の尻をタツさんが叩いて、乾いた音が部屋に響く。 「ひうっ」 「あー…今締まった。ユウキ君痛いの好きなんかぁ、最高。ほらわかるか、ユウキ君のここもうわしの指3本も咥え込んどる。才能あるよ、お前」  そう言ってタツさんは俺の尻に入れた指を急に激しく動かした。 「──〜っ! ぁああっ、やだ、やだ、もうこれやだぁっ」  グチュグチュと下半身から信じられないくらい濡れた音が聞こえる。苦しいくらい太くて長いタツさんの指が3本も中に入っていて、最初は気持ち悪くて痛くて苦しかったのに今俺の体を支配するのは絶望的な快感だった。  「あいしてる」そうとても信じられない言葉を囁いたタツさんに俺は今抱かれようとしている。  服を引き裂いて俺に馬乗りになった自分よりもずっと逞しい男は信じられないくらい熱っぽく、それでいて底冷えするような気味悪さを持って俺に触れた。セックスどころか恋愛だって、それこそまともに性欲処理なんかも滅多にしたことがない俺は呆気ないくらい簡単にタツさんから与えられる快感を拾い上げてしまった。  大きな手が肌に触れて、ひんやりとした手とは違う真っ赤な熱い舌にも体中舐められた。恐怖から震えて引きつるようだった俺の声が、いつの間にかA Vの女優さんみたいな声になったのは何回目かの絶頂に導かれた頃だった気がする。  目の前が白く点滅する。真っ白でタツさんの匂いがするシーツをぐしゃぐしゃに掻き乱す。 「…ぁあ…っ! あっ、あっ、…〜っ!」  下から俺の腰を掬い上げるみたいにして支えてるタツさんの手にはほとんど力が入ってない。支えなくても俺が自分から腰を浮かせてしまうからだ。  パン、乾いた音と一緒にまた痛みが襲ってくる。痛いのなんて嫌な筈なのに、俺はその瞬間みっともないくらい腰を跳ねさせながらイってしまった。  自分でも見たことない程勃起したそこからはもう精液なんて出てこない。もう随分前に空になっているのに、それでもタツさんが容赦無く快感を教え込んでくるからもう俺の体はおかしくなってしまっていた。 「…ユウキ君、またイったのぉ。えらいえらい、かわええ」  俺がイく度にタツさんは蕩けそうなくらい甘い声で決まって「可愛い」と言う。男の俺にそんなのおかしいと思うけれど俺にはそれを嫌だなんて訴えられる勇気はない。拒否したら、抵抗したら、何をされるかわからないからだ。  もしかしたらベッドの下に投げた刃物で刺されるかもしれない、大きな手で首を絞められるかも、痛い思いをするかもしれない。それなら、生きていられるなら、この行為を受け入れる方がだった。 「は、ぁ…ん、ぅう…っ」  体が焼けそうなくらいの余韻の中必死で呼吸を整えようとしていれば、俺の腰に添えていた手が顔の横に移動して、タツさんの顔が近付いてくる。反射的に目を閉じると唇が触れ合う間際にタツさんが満足そうに笑う気配がした。  そうして唇がくっついて、タツさんの薄いそこが俺のキスされすぎて腫れぼったい口を楽しそうに啄む。それが済むと真っ赤な舌が舐めてくるから俺は大人しく口を開ける。  舌を絡め取られて、呼吸まで食われそうな深いキスに苦しさが襲う。だけどその苦しさの奥に快感があることをもう俺は教えられてしまっていて、ぎこちなく舌を動かせばタツさんが弱い場所を触ってくれる。  それにくぐもった声を上げるともっと強い刺激がやって来て思わず目を開ける。  獲物を目の前にした肉食獣みたいな目が俺をじっと見ていた。仄暗く淀んだ熱を孕んだ目がきゅう、と細まり指が引き抜かれた後ろに熱が押し付けられる。  理解出来ないまま指とは全く違うものが中に入ってくる。 「ぁ…っ! く、るし…っ、ゃ、抜い…んんっ!」  思わず顎を引いて唇を離して嫌々と首を振るが強い力で顎を掴まれてまた唇が重なった。愉しそうだけれど、少し余裕の無さそうな目が見下ろしてくる。  今、自分が何をされているのか考えたくなかった。  男なのに、どうして、なんで、どうして俺なんだ。  そんなどうしようもない思考も、タツさんが腰を前に突き出した事によってブツっと途切れた。 「──っ! っは、は…っ、?」  ぐぷ、と太いものが中に埋まった。その衝撃に神経が壊れたみたいに俺の目からは涙がぼたぼた流れて、ただ感じる圧迫感と痛みに呼吸を乱すことしか出来ない。  今何が起きているかなんて考えなくてもわかる。今自分の中に入っているものがなんなのかもわかる。  タツさんとセックスしてる。 「ひ…っ、ゃ…抜いて、タツさんこれ抜いてよぉ…っ!」  受け入れた筈なのに同じ男のものが入っていると理解した途端にどうしようもないくらいの気持ち悪さに襲われて引き攣った声で何度も訴える。だけどそんなのでタツさんが引き下がってくれる筈が無くて、俺の腰を両手で掴んで小刻みに揺らす。 「ぁ、ぐ…っ、や、やだ…っ、ぅう」  僅かに入っては抜かれて、また奥へと入ってくる。  そうしながら時々先端が俺がおかしくなる場所を押し上げるから、俺はタツさんとのセックスにも気持ち良さを見つけてしまった。 「〜〜っ! そこ、そこやだ、そこぐりってしないで」 「…無理な相談じゃわ。ユウキ君はそういうのが男を煽るって覚えた方が…まあ覚えんでも良いけ、ど」  ごりゅ、と音がしそうな程の衝撃でしこりを押し上げられて、声も上げられないくらいの快感に魚みたいに口を開閉させる。目の前が点滅するみたいな刺激に首を振ってもタツさんの動きは止まらなくて、俺はまた快楽の坩堝に叩き落とされる。  弱い場所を徹底的に突かれて、撫でられて、擦られる。そうしていれば苦しさなんていつの間にか飛んでしまっていて、口から出るのは啜り泣きみたいな喘ぎ声だった。 「…ひっ、ぁあう…っ! ん、ん、もうやだ、やだぁっ」 「うんうん、気持ち良すぎるんじゃもんな。かわええ、かわええよユウキ君。なんも変じゃないけ、そのまま気持ち良くなって」  両手の指を絡めるように握られてベッドシーツに縫い付けられる。腰は密着していて、俺はもう何回イったのかわからなくなっていた。  ただ泣いている俺の涙を舐めて、慰めるみたいに甘い言葉をタツさんは吐き続ける。  可愛い、好き、愛してる。今まで誰からも言われたことのない言葉を刷り込むみたいに何度も伝えてくる。到底受け入れることなんて出来ない筈の言葉なのに、いつしか俺はそれを言われる度に感じてしまうようになった。 「ユウキ君、かわええ」  そう囁いてタツさんが首筋に顔を埋めると小さな痛みが走る。 「ずっと好きじゃった。いつか全部わしのもんにしたいとおもっとった。叶って嬉しい、愛しとるよ」  心底嬉しそうに、蕩けそうな笑顔で、心からそう思ってるみたいに言う。 「…も、それ、言わないで…っ」 「無理じゃな、止まらん。愛しとる、これからはずっと、一緒じゃけえな」  嫌だ嫌だと駄々を捏ねる子供みたいに泣く俺をタツさんはずっと穏やかな顔で見下ろしている。気味が悪い筈なのに、こんなの気持ちが悪いだけの筈なのに、俺の両手はいつの間にかタツさんの手を握り返していた。  大きくて骨張ったゴツゴツとした手だ。俺の手より一回り大きくて、煙草を持つのが様になる手が、汗ばんでいるのがわかった。 「ユウキ君」  名前を呼ぶ声があんまりにも優しくて。 「好きじゃ、本当に。本当にお前だけ愛しとる」  砂糖を煮詰めたような甘い声が嫌ってくらいに俺を好きだと繰り返してくるから。  そんなの、俺は一度だって言われたことが無いから。 「…も、いやだ…っ」  それが嬉しいと思ってしまった。 「──〜っ! っは、? ぁう…」 「はは、奥でも感じられるんか。…堪らんのぉ、ほんまにわしの為のカラダみたいじゃわ。ユウキ君、もうちょっと頑張ろうな。ここでもイけるようにさせちゃるけえ」 「ひ、ぁあ…っ! やだ、そこやだ」 「やだやだばっかりじゃのぉ。けどそこもかわええ、もっとぐずぐずになって」  今まで浅いところばかり突いていた熱が一気に奥まで届いて目の前に星が散る。何が起きたのか理解する前に当たった場所を慣らすみたいにぐりぐりされるから、訳がわからない程気持ち良くて俺は何度も首を横に振る。  それをタツさんは子供を宥めるみたいに囁いて、それでも動きは止めてくれなくて、いつしか俺はそこでもまたイってしまっていた。  ベッドが軋む音と肌のぶつかる音、そこに俺の声とタツさんの呼吸が混ざり合う。  点けっぱなしの明かりに自然光が混ざり始めた頃、何度目かのタツさんの精液を腹の中に出されて俺はそのことだけで堪らない快感に犯されるようになった。だけどもう指先だって動かせなくて、心臓が壊れそうなくらいドコドコ言ってて、おまけにもう声だって枯れて出なくなっている。  ずるりと中からタツさんの熱が抜けて、そこがくっぽりと空洞になって精液が垂れてきた。うつ伏せになっている俺の尻を遠慮なく開いて、垂れる白が勿体無いとでも言うようにタツさんが指で中に押し込んできても、もう俺の口からは呼吸に少し混ざった掠れ声しか出せない。 「……ちぃと寝るか。無理させた」  中から指を抜いて、その手とは反対の手で俺の頭を撫でる。  大きくて、こんなに怖い人なのに、その感触だけはどうしたって好きだった。 「…おやすみ、ユウキ君」  耳元で囁かれた言葉を最後に、俺の意識は眠りの中へと落ちていった。  ───  ベランダに続くガラス戸を開け、素足でコンクリートの上に立つ。  冬の朝は空が白く、息を吸うと鼻の奥がツンとなる程に冷たい。パンツのポケットから取り出した紙煙草を一本咥えて左手で風除けをしながら安物のライターで火をつけ、深く深く吸い込んだ。  今まで吸ってきたどの煙草よりも味気なく感じることに思わず口角を上げつつ、ガラス戸をぴたりと閉める。煙草をポケットにねじ込み、次はスマホを取り出した。少し濡れている、氷のように冷たい手すりに肘を乗せながら慣れた手つきで画面をタップし、耳に当てる。 「あれ、アニキどうしたんです? ハゲから三日は連絡来ないって伺ってましたけど」  電話口から聞こえる軽薄な声に深く吸った煙草の煙を吐き出した。 「おー、人探ししてくれや」 「人っすか? 生きてますかそいつ」 「死んだやつなんぞどうでもええわ。 あの子の親父探せ」 「マジですかアニキ。俺アニキに心底惚れてますけどホモな上に二十歳にもなってないガキに手を出してしかもマジなのはちょっとだいぶ面白くて逆に推せる」 「次会った時覚悟しとけよ」 「さーせん」  何が楽しいのか電話口の男はゲラゲラと笑っていたがそれが落ち着いたのか息を吸う音が聞こえた。 「で、なんでいきなり? もうちょい泳がせて太らせるって言ってたじゃないですか」 「気が変わった」  人差し指と中指で挟んだ煙草のフィルターを親指で弾くと灰が散って空気の中に溶けていく。それを見て今ベッドで気絶するように眠っている可愛い存在を思い出して口角が上がる。  灰皿を用意しないといけない。きっとあの子はこういう行為が好きじゃないだろうから。 「…気が変わった理由当ててもいいですか?」  少しだけ真面目になったと思った声が再び楽しげな色を乗せたのに眉間に皺が寄るが、今は気分が良いからと無言でいればその男は鳥みたいに話し出す。 「ちなみに二択あるんですよ。一個目は一回抱いたら飽きたから親父はバラしてその子は変態親父コース。もう一個はマジのマジの大真面目にアニキがそいつに惚れちゃって、余計な事吹き込みそうな要素を潰すため捕まえて口封じ。どっちです?」 「二個目」 「バカウケるんですけどヤッバ」  耳が痛くなる程の声で馬鹿笑いする男に普段であれば腹が立つが、今は自身でも驚く程に心が凪いでいる。今ならきっと脇腹を刺されても拳一発くらいで済ませてやれる自信があった。  再び煙草を咥えて灰に煙を行き渡らせ、それを細く吐き出す。 「いやあでも意外です。たかがぽっちでもう捕まえちゃうんですね」  思い浮かべたのは車内で絶望に顔を染めた、抱き潰したあの子の顔。  職業柄数え切れない程の人間の表情が抜け落ちる瞬間というのを見てきたが、彼の表情はとても良かった。普段見ていた人好きのする笑顔とはかけ離れた、心の底から絶望した人間の顔。 「あの子のスマホにはまだ親父の番号が生きとるけえなぁ。目を離した隙に教えられたら困るんだわ」  煙草の火をベランダの壁に押し当てて消し、躊躇無くそのまま捨てる。  白いフィルターが落ちて行くのを目で追う。それが自らの手に絡め取られてしまったユウキの姿と重なって口角が吊り上がった。 「500は返すには現実的な数字じゃが、桁が一つ増えるだけで全然違うけえのぉ。なんの疑問も持たず信じたんかわええじゃろ」 「趣味悪いっすよアニキ。まあらしいですけど」  彼の父親が作った借金は5000万ではない。たった500万だ。真面目に働くかさっさと内臓の一つでも売り飛ばせば返せる額なのに、彼の父親はもうダメだと行方をくらませた。  逃げたなんてことは分かりきっていたし、あの父親のことだから性懲りも無くまた金を借りに来ることなんて容易に想像が出来る。本来ならば借金が膨らむまで待つつもりだったが、それもやめた。  今まで妄想でしか抱いてこなかった彼に直接触れたその瞬間から、もう思考にはどうすればこの存在を一生確実に自分に縛り付けることが出来るのか、それしか考えていなかった。そして考え付いた答えは真実を知る存在を消すこと、これだった。 「捕まえたら連絡せえ。それまでは電話もしてくるな」 「メッセージくらいは良いでしょ。どうせその子が寝てる間は暇してんだから、そん時くらい見てくださいよ。…え、まさかアニキ睡眠か」  またうるさくなりそうな気配がして男が言葉を言い切る前に通話を切る。そこからは当然折り返しが来ることも、茶化すようなメッセージが来ることもない。あんな軽薄なやつだが、男が仕事はちゃんとこなすヤツだということはよく知っている。  さて、と冬の寒空の下素足で外に出る用事も済んだとベランダから室内に戻る。  だだっ広い、生活感のまるで無い部屋の中を歩き向かったのは寝室。普段は特に何も思わない場所だが、今日は違う。無駄に大きなキングサイズのベッドに沈む存在が目に入った途端口元が緩み、そう簡単に起きる筈もないのに足音を忍ばせて近付いた。  最後に達した際のうつ伏せの状態のまま眠っている様子に目を細め、ゆっくりとベッドに腰掛ける。  顔に掛かった少し長めの前髪を払えばそこにあるのは年齢よりも幼く見える寝顔と泣き過ぎて腫れた目元。表情には疲労が色濃く残り、とても安心して寝ているという様子ではないのだが、そんなものは些細なことだった。 「かわいそうにのぉ」  切欠は本当に小さなことだった。丁度腹が減ったと思って立ち寄った店にこの子が居て、明らかにカタギじゃない空気の男に怯えているのに一生懸命接客しようと引き攣った笑みを浮かべていた。その笑顔が、そして瞳の奥にある怯えと仄暗さに惹かれたのだ。  通い続ければ彼は案外簡単に懐いてくれた。「タツさん」と名前を呼ばれた時はらしくもなく心臓が高鳴ったなと笑えば彼の目元が少し動く。 「まだ起きるには早いわ。寝とき、ユウキ君」  そう言って頭を撫でると険しかった顔が穏やかになる。  それに喉で笑い、隣に寝転ぶ。  抱き締めた体はシャワーを浴びた自分とは違い汗や体液でベタついているがそれすらも愛おしく感じるのだから、全く愛とは困ったものだと笑いながら彼の髪に鼻を埋めた。  安いシャンプーの香りと汗の匂いが混ざっていて、それを嗅いだだけでまた欲が湧く。だがここは我慢だと自分に言い聞かせて目を閉じると腕の中の存在が猫のように身体を寄せて来た。  あまりに無防備だが、こうなることは必然だと男は薄く目を開けた。  彼は愛に飢えている。  瞳の奥の仄暗さは愛情を受けていない人間がするものだと初めから分かっていた。だから明らかに関わってはいけない人間からのプレゼントも一度は受け取ってしまうし、恐怖で脅したからといって到底受け入れ難いだろう行為も従順に受け入れた。  愛を伝えれば伝える程彼は戸惑うが、それと同時に喜びも感じているというのは手に取るように分かった。だからきっと数時間後に目を覚ましても驚きはするだろうが拒絶はしないことも予想が出来ている。  愚かだと思うが、同時にどうしようもなく愛おしいとも思う。 「…おやすみ、ユウキ君」  囁くように口にする。  こんなことを言うのはいつぶりだろうか、もしかしたら初めてかもしれない。  否、寧ろ誰かを抱えて眠るなんてことも初めてだ。  そう気がつくと面白くて笑ってしまうが睡魔の波がすぐそこにまでやって来ている。こんなにも穏やかな睡眠ももしかしたら初めてのような気がして口角が上がるのだが、腕の中の体温にいよいよ意識が落ちていく。  嗚呼、しあわせだ。  そう確かに感じながら目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!