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第1話
ある男を捕まえてほしい、と探偵事務所を訪れた依頼人は言った。
事務所のあるじ、シドニー・C・ハイドは注意深く話を聞きながら、部屋の中をせかせか歩きまわる客をそれとなく観察している。正確には、彼は依頼人ではなくその代理だ。男はまだ三十代前半の若者で、眼鏡の奥から覗く目は今度の心労のため、不穏に見開かれていた。痩せて、感受性が強く神経が細そうで、まいっているが、それでも理路整然と探偵に話をして聞かせた。
「兄は息巻いています」
ウィリアム・ブリッジは両手を胸の前にかざしながら、おおげさな身振りをして言った。
「なんとしても捕まえたいと。それはそうです。殺されかけたのですからね。激怒しています。警察に頼めない理由は、おわかりですね?」
ハイドは如才なくうなずいた。
「そうです」代理の男は弾かれたようにうなずく。
「男娼を買ってそうなったのですから。男同士が肉体関係を持つことは法律違反です。しかし、兄はそんなものよりずっとおぞましいことが自分の身の上に起こったのだ、と言って聞きません。なんでも、その男は金の代わりに兄の血を要求したそうです。そして兄は実際に大けがを負いました」
不安そうな眼差しが向けられていることを知っていて、ハイドはなだめるようにうなずいた。椅子の中から依頼人の目を見つめ、落ち着いた低い声で言い聞かせた。
「ご安心ください、ミスター・ブリッジ。秘密は厳守します。警察には介入させません。秘密裏に、あなたのお兄様を害した男を見つけます」
力強く鼓舞されて、ブリッジは表情にやや安堵を見せた。彼は探偵に信頼を込めた視線を返す。ハイドは大柄で逞しい体つきをした男で、四十歳を迎えたばかりなのに黒髪には半ば白髪が混ざっていた。彫りの深い顔立ちは貴族を思わせる。
私立探偵などという仕事に従事しているのに、ハイドが身にまとっている雰囲気は根っからの上流階級のそれだった。彼の顔に浮かんだ穏やかな表情も、ブリッジには寛大さに見えた。密かに貴族に憧れている彼は、ハイドの落ち着いた態度物腰を見てほとんど絶対的な安心感を覚えた。それはたんなる錯覚ではなく、実際にハイドは名家の生まれで、有能な私立探偵としてヨーロッパで成功している。
しかしハイドの名声も、ブリッジ兄弟のそれの前では影が薄かった。兄のロバートは大銀行家の家に生まれて仕事を引き継ぎ、弟のウィリアムは彼の秘書をしている。ロバートは凄腕の実際家で、彼が狙いをつけたものはたちまち落ちる。それも誰かに弓を引かせるのではなく、自ら引いて自分で打ち落とすのだ。
しかし、ロバートには衝動的で軽率なところがある。それが命取りだ。今回の騒ぎにも彼の欠点が如実にあらわれている。それでも、ウィリアムが兄の熱弁を聞くかぎり、ロバートが男を買ったというのはこれが初めてのようだった(弟は今回の件があって初めて、兄が女性にはなんの興味もないことを知ったのだ)。
「では、なにとぞよろしく」
ブリッジが念入りに頼むとハイドはうなずき、椅子から立ちあがって依頼人を階下へ送りだそうとした。扉へ向かいながら、ブリッジが後ろを振り返る。細面の顔は青ざめていた。
「あの、ミスター・ハイド。これは由々しきスキャンダルです。しかし、まさか本当に……吸血鬼ではありませんよね?」
「吸血鬼についてはさまざまな伝説がありますよ」ハイドは扉の脇にたたずみながら、穏やかに言った。
「たいてい、現れた吸血鬼の墓を暴くと中の死体はまだ新鮮で、髪や爪が伸び、血まみれだったり、血の海の中に浮かんでいたりします。埋葬したとき死体は仰向けだったのに、棺を掘り起こしてみるとうつぶせになっているということもある。しかしこれは吸血鬼伝説が広まった十八世紀、不幸な人々が死んだものと誤解され、まだ生きたまま埋葬された証拠と考えられています。あるいは遺体には水分が含まれますから、髪も伸びますし、死後も生きたままに見えるのでしょう。とにかく、科学的に調査しますよ。お兄様にどうぞお大事にとお伝えください」
ウィリアム・ブリッジは礼を言って帰っていった。
三月初旬の午後二時過ぎ、薄明るい光が射しこむ窓際の仕事机の前に腰を下ろして、ハイドは自分だけがわかる書き方で書いたメモを見返した。重いガラス板を天板にし、引出しのたくさんあるマホガニーの机に両肘を乗せ、手に顔を埋めて考える。それから机の上に置いた帽子を見た。
それはウィリアム・ブリッジが持ってきたもので、犯人の男がホテルの一室に残していったものだった。グレーの中折れ帽で、新品ではないが、大事に手入れされていることがわかる。
ハイドは手を伸ばし、シガレット・ボックスから煙草を一本抜いた。口にくわえてマッチで火をつけ、天井に吐き出した紫煙を見上げる。部屋はしんとしており、ときおり窓の向こうから車が走り去る音や、馬のひづめの音が聞こえる。部屋の中では暖炉の火がはぜていた。大きな模造大理石の暖炉の中で火は激しく燃えているが、仕事机のあたりはどことなく空気が湿って、冷えている。ハイドはノートブックを閉じた。
とにかく、彼は今夜行ってみることにした。
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