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第7話
あなたの血が気に入りました、とウィルクスは照れたように言った。
「おいしかったです」
ありがとう、とハイドも答え、屈託なく「あっちのほうはどうだった?」と尋ねた。ウィルクスは顔を赤らめ、怒った顔でうつむく。
「……よかったです」
ぽつりとつぶやいた青年に、ハイドは胸が苦しくなる感覚を覚えた。しかしあまりにもかすかで一瞬だったため、彼はそれをなかったことにした。
ウィルクスはハイドに借りたシャツとズボンを身に着け、裸足のまま寝室のベッドに腰を下ろしていた。水の入ったグラスを両手で包んで膝のあいだに置き、上等の酒を飲むようにときおり口に運んだ。沈黙のあと、ウィルクスは視線を上げた。
「おれが愉しませないといけないのに……あなたはどうでしたか?」
まっすぐな瞳で尋ねられ、ハイドはにっこり笑った。
「愉しませてもらったよ。今まで考えもしなかった未知の扉が開きそうだ。全力で閉めにかかるか、扉を開けるか、あるいはぶち壊すか、考えている」
ウィルクスは首をかしげた。
「きみはこれからどうするんだ?」
火が焚かれたマントルピースのそばでハイドが尋ねた。彼もシャツとズボンを身につけ、その上にガウンを羽織っている。二人でひと眠りしたあとで、時計は午前一時四十分過ぎを指していた。ウィルクスは礼儀正しく答える。
「朝になるまえに失礼します。太陽光はあまり得意ではありませんから」
「明日の夜は? また誰か、客をつかまえるのか?」
「いいえ。明日は大丈夫だと思います。まだ若いからか、血に飢える間隔が長いんです。五日はもちますよ。……そうだ、おれに血を吸われても、あなたは吸血鬼になったりしません。それは人間たちの思いこみです。だから、心配しないでください」
ハイドはうなずき、水を飲んだ。沈黙が落ちる。ウィルクスは水を飲みほすとグラスを持って立ちあがった。ハイドに手渡したあと、吸血鬼はハイドの薄青い瞳をじっと見つめた。
「あなたは優しい人だ」ウィルクスはつぶやいた。「おれを見下したりしない」
「だが、憐れんではいるよ」
「憐れみは高等な感情ですよ」ウィルクスは目を細めて寂しそうに微笑んだ。
ハイドはグラスをマントルピースの上に置くと、部屋の隅にある大きなクローゼットまで歩いていった。ウィルクスはその背中を遠い目で見ている。ハイドはクローゼットの扉を開けると上部の棚から丸い紙の箱をとりだした。それを床に置き、中から出したものを持って振り返る。
グレーの中折れ帽を見て、ウィルクスは沈黙した。
「きみのか?」
ハイドが尋ねると、ウィルクスは険しい目でハイドを見た。その夜の性悦にとろけた表情とは違い、引き締まって冷淡に見える。
しかし、それは彼が胸を引き裂かれるほど悲しんでいたからだった。
「あなたは、あの男に雇われたんですか?」
ウィルクスのつぶやきにハイドは帽子を差しだした。
「ぼくは私立探偵なんだ。きみが牙を立て損なった男に依頼されて、きみのことを探していた。でも、それは返すよ」
ウィルクスは帽子を受けとり、口元を引きつらせる。帽子を胸に抱いてもの問いたげにハイドを見つめた。探偵は穏やかに言った。
「きみを依頼人に渡したら、人間だろうと吸血鬼だろうと結局リンチにされる。それを許すわけにはいかない。ぼくが適当にごまかしておくよ。人を丸めこむのは不得手じゃない。どのみち彼も、きみを買ったことを世間にばらすわけにはいかないんだ」
「ありがとう、ハイドさん。恩に着ます」
ウィルクスはつぶやくと、顔を上げて微笑んだ。
「親切の見返りにおれを強請っても、なにもあげられないけれど……」
「そんなことはしないよ。ぼくの好意だと思ってくれ」
「誰かから好意をもらったことなんて、ありませんでしたよ」
ハイドは青年の手の甲をそっと叩きたい衝動に駆られた。そうすることで、孤独な魂を慰めてやりたかった。探偵が躊躇しているうちに、吸血鬼はふたたびベッドに腰を下ろしていた。帽子を自分の体の脇に置き、ふいに目を輝かせる。
「探偵と寝たのは初めてです。エドガー・アラン・ポーやシャーロック・ホームズのファンだから、なんだかどきどきしますね。おれもこんなふうじゃなかったら、私服刑事になりたかったな。警官はよくおれを見逃してくれるし、感謝してるんです」
「……じゃあ、刑事になったつもりでぼくの助手をするか?」
ウィルクスは目を丸くした。ハイドは慌てて言った。
「きみはしっかりしているし、役に立ってくれるんじゃないかと思ってね。助手がいてくれれば、仕事がはかどっていい。客用寝室で寝起きすればいいよ。きみは寒いなか、あんな場所に立っていなくてもよくなるし、ぼくの血でよければいくらでも……」
「それは、この家にいないかって言ってくれてるんですか?」
ウィルクスがささやくとハイドの胸には緊張が走り、鼓動が炸裂していた。しかし彼はそれをおもてには出さず、微笑んだ。
「もしきみがそうしたいと思うなら、ぼくは喜んで受け入れるよ」
「人間じゃないのに?」
「ぼくも似たようなものだから。確かに人間ではあるよ。だが、この世にふさわしい生き物じゃない。きっと、きみよりも」
「あなたは浮世離れしてるから」ベッドから腰を上げ、ウィルクスはハイドをまっすぐ見つめた。「だから、血は半分天国みたいな味がしましたよ」
ハイドは微笑んで手を伸ばした。獲物の血を天国に例えたウィルクスの無垢を叩き壊したくなり、それを上回る強さで彼には変わらないでいてほしいと思った。
「きみのファースト・ネームは?」ハイドが尋ねる。
「エドワードです。あなたは?」
「シドニー。よろしく、エドワード君」
「こちらこそ、シドニーさん」
そう言って、ウィルクスは差し伸ばされた手を握った。ハイドの手はあたたかく、大きく、ウィルクスの心を包んだ。
こうして吸血鬼は探偵事務所に居つくことになった。
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