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第6話

 タカハシと別れたあとの六時間目は、授業に出ることにした。  数学のレベル別少人数制で他クラスの生徒とごちゃ混ぜのクラス編成だから、ぼくの浮いた存在感も多少薄れるのがいい。それにぼくは理系科目のほうが得意で、数学もわりと好きだ。逆に古典だの漢文だのはジンマシンが出ちゃうくらいに苦手。 「やっぱり、この授業には来ると思った」  授業開始前にぼくが席に着いたのに気付くと、笑顔を浮かべた工藤がやってきて声をかける。これが本当に、はじけちゃいそうな素敵な笑い方でサ。それだけでぼくはもうドッキンとしちゃう。これは正真正銘本物の笑顔だなって分かる。  だからこの笑顔は胸がくすぐったくなるくらいめちゃくちゃに嬉しいんだけど、そのくせぼくは、宝玉のようなそんな工藤の笑いを一瞥しただけで、わざと不機嫌に顔をしかめてノートを開くのだ。  本来ならばそれに加えて「鬱陶しいからそばに寄るな」くらいの不良らしい台詞のひとつも吐いてみせたいのだけれど、これ以上表情筋をわずかでも動かそうものならニヘラといっちゃいそうで、舌先を噛んで必死で堪えている。 「はい。ではこの方程式を f(x) と置くとぉ、与式は…」  数学の授業中、教師の使うこの「よしき」という単語にぼくの名前を知っている数人が馬鹿みたいに反応する。しかもこの単元では「与式」は毎度のように登場するから、いちいちウケられると非常にうざったい。  席の塊っている二、三人が「よしき」「よしき」…と、笑いながら呟きを繰り返す。  ほんとにアホくせえ、ガキかテメエらはと、そもそも授業中でもあることだし、ぼくはそんな奴らのことは放っておいた。相手にするのも馬鹿らしいやと思って。  ところが先日気付いたことには、驚いたことにそんなとき工藤が、そいつらをぎらりと睨んで(たしな)めていたのだった。それにはもう、びっくらこいたよ。  わざわざ斜め後ろを振り向いて「静かにしろ」と言わんばかりに目尻をあげて、悪ふざけを制しているんだもの。たいがい温和そうなツラをしている工藤が、あんな顔をするのは珍しい。そしてその鋭い眼光が妙に凛々しくて端然としていて、北町奉行の遠山金四郎ふうなので、それに初めて気付いたときには正直、工藤を惚れ直しちまった。まったく罪深い若様だよ。  それで相手のやつらはというと、さすがに他の追随を許さないイケメン優等生のすることだから、「宮代なんか庇ってモーホーなのか」とか「教師の前でなにいい子ぶってんだよ」みたいな冷やかしを言ってくる気配はない。そしてまさしくそれこそが工藤の工藤たる人望の篤さというか、常に変わらぬ正義感からくる武名に違いないと、ぼくは思うのだ。  数学の授業が終わり、ホームルームへと向かう。教室に向かうあいだ、義理堅い工藤はぼくに並んで歩く。せっかく授業に出た宮代を一人なんかにしたらよくないとでも律儀に思っているみたいに。 「なあ、宮代。こんど僕んちで一緒に勉強しないか?」  と、突然くる。あまりに想定外なお誘いに、ぼくは思わず足を躓かせるところだった。 「な、なぁんで、オレなんだよ」  必死に顔をしかめて、ったくオレが不良だってこと分かんねーかな、みたいに精一杯グレた感じを装った。ほんとなら、うわあ、行きたい行きたいボクぅ、てなところなんだけど。 「一緒に勉強したいんだよ。だってきみ、頭がいいだろ」  と、こうこられて、また腰を抜かしそうになった。  なるほど。そうか、この言い方か。タカハシが言っていた妙に「確信ありげ」な響きというのは。 「んなわけねえだろ。アホか、あんた」 「いいや。そんなわけは、あるよ。だって僕、知っているんだもの、きみのこと」  なにかがありそうな響きに、たまらない胸騒ぎを覚えて、ぼくは返す言葉がすぐに出てこなかった。 「し…知ってるって、オレの、なにをだよ」  もっと不良っぽく言いたかったのに、狙ったよりも声が擦れた。 「隠さなくてもいいことなのに」  さらりと軽やかに言う。 (なんだと。どういうつもりだ、そりゃ)  焦ったぼくの頭の中で、困惑した思考がぐるぐると回転した。  でもこの言い方からすると、少なくともぼくのお父さんとお母さんのことではないふうには聞こえた。それでちょっぴりほっとする。  そうなのだ。  いまぼくが心配し、おびえているのは、このことだった。「あれ」だけは、「あのこと」だけは、誰にも知られたくない。そのために転校もした。なぜなら前の学校で言われてしまったのだ、「知ってるんだぜ、俺たち」って…。  ああ。この先ぼくは、いったいいつまでこれに畏れおののきながら生きていかねばならないのだろう。  殺人事件の加害者と被害者の子供。  その十字架を、いつまで、どこまで、ぼくは背負って生きていかなくちゃならないんだ?  工藤と揃って教室に入ると、机に向かうまもなく一人の女子生徒がぼくの前に仁王立ちで立ちはだかった。 「ちょっと、宮代くん! あなた、どういうつもりなのっ?」  おっと。ずいぶん威勢のいいネーちゃんだ。ぼくが驚いて立ち止まると、工藤も横に並ぶ。 「もう、黙ってられないんだけどっ」  目を剥いて叫ぶ女に、ぼくはきつい視線を置いた。 「るせーな。なんなんだよ」  十センチ下の顔に向けて唸った。不良に単身で声をかけるたぁいい度胸だ。それにぼくはいま機嫌も悪い。  しかしこのネーちゃんの顔には見覚えがあった。なにかの代表にでもなっていたような。ほとんどのクラスメートの顔は憶えていないんだけど、なにかの拍子で記憶に残ることはあった。髪が長くて美人な顔をしてるし、AKBとかにいそうな感じだ。 「朝練には一度も出てこないし、さっきの音楽の授業にだって出てこないで! 全然、歌えないんでしょう、あなた? どうするの? 本番は、もうすぐなのよ!」  目くじらを立てて怒っておる。なんなのだ、この女は。  クラス中の視線がぼくらに集まっている。周りからは、「ほっとけよ、ンなやつ」とか「キレたらこええぞ」の声が聞こえる。それが癪に触って、彼らの方を向いて怒鳴った。 「るせェ! 見せモンじゃねぇぞ!」  おーコワ。ヤクザか。いったい何様? みたいな声が広がる。 「怒鳴らないでよ! 本番はもうすぐよ? どうするの? 明日っからは、きちんと練習に出るのよ!」  元気だな。 「あのさ。なんのことだか、さっぱり分からないんだけど」  ぼくの言葉に女が瞠目する。  だいたい本番ってなんだ? AVにでも出演すんの、ぼくたち? なんて訊いたらこの場がもっとひくだろうな。 「合唱コンのことよ」  憤然とした口調で言う。ぼくはきょとんとして首を傾げた。 「覚えてないの? もうすぐ全校での合唱コンクールがあるでしょう、クラス対抗の。もうほとんど仕上がっているのよ。心配なのは、あなただけなの。みんな、とても頑張っているのよ」 「彼女は指揮者だよ。クラスの責任者だ」  工藤が耳打ちした。なるほど、合唱コンクールか。合点。そりゃ、ご迷惑様でした。 「分かった」  その目を見つめ返した。 「当日は学校休むから、心配すんな」  ぼくの返答に、その丸い目がさらに大きく見開かれる。 「——ちょっと…そおゆう問題じゃないでしょう?」  震える声に力がこもる。 「そうだよ。そういう問題じゃない」  なぜか工藤が繰り返す。なんだよ、女の肩持ちやがって。どっちの味方だ。 「もう。ほっとけよ、そんなヤツ」  大きな声で横槍が入る。 「どうせいつでも浮いてる不良なんだからさ」 「そいつがいないほうが、クラスがまとまっていいだろ」  それを皮切りに、クラスメートが口々にぼくを罵り始めた。いや、罵り始めた、という言いかたには語弊がある。むしろ、その通り。クラスの和を乱すぼくなんて放っておいた方がいい。だから彼らの言うことは正しい。 「単位落として留年確定だしな」 「そのまえにタバコで退学だろ」 「アホにつける薬なし」 「バカはいなくなれ」 「学校の恥」  ほどよい罵詈雑言。いや、だから、その通りなんだってば。分かってんだよ、自分でも。 「やめろ!」  急にクラッカーが弾けるような怒声がして、ぼくは体ごとびくりと跳ね上がった。  工藤だった。長身の体からが焔立つみたいに、声と顔に怒気を滲ませている。 「いい加減にしろ。よってたかって一人を攻撃するな。宮代だって同じクラスメートだ。そんな悪口を浴びせていたって、クラスがまとまらないだけだろ。いま大事なのは、合唱コンにクラスのみんなで参加することだ。これからの一年間に向けてクラスで一致団結することが、合唱コンの目的なんだから。あとな、言っておくが宮代はバカでもアホでもない。学校の恥でもない。本当は優秀な頭のいい奴なんだ。他人のほんの一部だけを見て、まるで全部を分かったみたいに悪口を言うのは、よせよ」  いや……ちょっと、待って。こっちが恥ずかしくなっちゃうっての。  こんなたいそうな演説ぶっこかれたらへたりこんじゃう。 でもって相変わらず、ぼくへのヘンな思い込みも混じっているしな。

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