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第7話
クラスはしんと静まり返っていた。
「あー、めんどくせえ……」
静寂を破いたのはぼくの声だった。だからホームルームなんて嫌いなんだよ。あまりにぼくと関係なさすぎてさ。
踵を返して教室を出て行こうとするぼくに、女が声をかける。
「ちょっと、宮代くん」
話はまだ終わってないわよ、ってなところだ。それに工藤が反応した。
「僕が行くよ、春香」
「勇貴」
なんだ? このやりとり。
不快な違和感を背中に覚えながら、ぼくは教室を出た。早足で三階から降りきって昇降口に出たところで、工藤に追いつかれる。
「待てよ」
無視しようとしたら腕をとられた。長袖シャツの上からなのに、電気ショックを受けたみたいな衝撃が走る。
咄嗟に振りきろうと腕を引いたけれど、思ったよりもその力が強くて、結局、掴まれたままで振り向くことになった。
「なんだよ」
「なあ、どうしてきみは、そう突っ張ってばかりいるんだ」
今度は強く腕を振ったので掴んでいた手が離れた。
「そんなの、どうでもいいだろ。ところでさ、さっきのあれ、なに? 名前なんか呼び捨てあっちゃって、あんたとあの女、付き合ってんの?」
心の中を動揺を覚られまいと、からかうみたいに訊いた。工藤がこれまでにないくらい険しい顔つきになる。その鋭い眼光に射抜かれて、ぼくはせせら笑いを引っこめた。
「ああ。付き合っている。でも今は、そんなことを話したいんじゃない」
――ああ、そうか。ぼくは心で、がっくりとうなだれた。やっぱり、そうか。
そうだろう。あの子、可愛かったもんな。一途そうなところはなんとなく工藤に似ているし。考えてみればお似合いの二人だ。
そりゃ、これだけのイケメンに彼女がいないなんて、ありえない。そんなことも思いつかなかったなんて、ぼくはなんてバカなんだろう。
「もったいないと言っているんだ」
工藤が口を開く。突然の言葉に、失恋で真っ二つに割れた傷心を奮い立たせて、ぼくは工藤を睨みあげた。
「きみは本当は真面目な人間なんだろ。頭もいい。なのに、こんなふうに不良の真似事ばかりしていて、もったいないと思わないのか?」
本当に突拍子もないことをぬかしやがるなと、ぼくは唖然としかけた。
「真似事だと? ナメてんのか? なんなら、ここでタバコ吸ってやろうか?」
けしかけると、工藤の視線がさらに鋭さを増す。
「そんな態度は、きみに似合わないよ」
その、なんでも知っているみたいな断定にカチンと来て、ぼくは唸り返した。
「さっきから聞いてりゃ勝手なことぬかしやがって。なにを根拠にそんなこと言ってんだよ、あんた」
束の間の沈黙が流れて、工藤が意を決したように口を開く。
「ならば言うけどね。きみは宮代佳樹、SD予備校の全国模試で上位百人の中に必ず入っている秀才だ。そうだろ? 僕もときどきあの中に入るんだ。それで、どんな高校のどんな人がここに載るんだろうと興味があって、毎回チェックしている。きみは去年まで神奈川県立光徳高校理数科にいた宮代佳樹だ」
ぼくは言葉を失った。血の気が引いて、フラリと倒れそうになる。
(…な、ん、なんだよ、こいつ――!)
ていうか本当のところ、工藤はどこまで知っているんだろう。
「きみは頭がいいはずだ。でなければ偏差値七十四の高校になど入れるわけがない。それに素行も良かったんだろう。上位県立高校には中学の内申が良くないと入れないことくらい、六年一貫校に通う僕でも知っているよ。つまりきみは本来は優秀で、真面目な性格のはずなんだ。なのに、どうしてそれを隠すんだ」
ちょっと、待って。
これは電気ショックどころの話じゃねえな。バズーカ砲を撃ってきやがんな。
「なにを言ってるのか分からねえな。それって他の同姓同名のヤツじゃね?」
声が震えそうになるのを堪えて、必死にすっとぼけた。
「違う。なぜならこの四月にあった模試では、きみの名前の所属はこの高校のものになっていた。転校したからだ」
…あ。倒れる。
「それに僕は、この中間試験の数学でトップを取れなかった。初めてだよ。きみなんだろ、一位だったのは? そんなに成績がいいのに、なぜ不良の真似なんかするんだ。僕はね、ぜひともきみと一緒に勉強したいと願っているんだよ。なにがあったか知らないが、本来のきみに戻って、将来に向けて僕と一緒に頑張らないか?」
ふらふらふら。なに、くだらないこと、言ってんの。ぼくはもう、困り果てるのを通り越してフリーズ寸前だ。降参だよ、熱血くん。
将来に向けて頑張る? 冗談じゃねーや。将来に向けて結婚を前提にお付き合い、ならしてやってもいいけどサ。
「あんた、バカじゃね?」
もうここまでくると苦笑しか出てこない。でも一応「何があったか知らないが」はしっかりと耳に入れたぞ。そこのところは分かっていないんだなと一安心する。
「一緒に勉強とか、一緒に頑張るとか、お門違いもいいとこ。だって、いま一番、オレがしたくないことなんだものさ。オレなんかもうこの一ヶ月間、まともに文字すら書いていないぜ。脳味噌にはカビが生えかけてるし、成績も落ちぶれる一方だから、安心しろ。すぐにあんたが、そのトップとやらに返り咲けるからさ」
「いや、僕は別になにも、トップがいいとは――」
焦ったように工藤が言い足す。
「いやいや、いやいや。分かっているけど? あんたがそんな低俗な人間じゃないと自分で言いたいのは、分かっているよ。でも、ぼくへの興味はソコだったんだろ? お頭 のマシな勉強仲間が欲しかったわけだ。うすうす感じていたよ、あんたがなにがしかの興味を持ってぼくを見ているってことはね。こういうことかと、いまストンと腑に落ちたわけ。確かに偏差値五十にもいかないような学校でいくら一番とったって、全国じゃ通用しないもんな。だから模試の上位成績者の名前なんか、いちいちチェックしてたんだろ。ご苦労様だよ。悪いけど、ぼくはあんなの一度も見たことない」
工藤がさっと頬を赤らめる。
「学校の価値は、偏差値だけじゃないだろ」
「だろうね、ぼくもそう思うよ。そして人間の価値もしかりだと思っている。ぼくは少なくとも、相手の高校の偏差値とか模試の順位なんかで友達を択ぶ真似は、しねえよ」
カっと、工藤の顔が血色を増した。
「なにか誤解をしていないか? 僕はそんなつもりできみに声をかけていたわけじゃないぞ!」
「そうなのか? なら、なんだっていうんだ? もしぼくが本物のアホだったとしても、あんたはそんな不良に、同じように興味を持ったってわけ?」
いつのまにかぼくはずいぶんムキになっていた。工藤への失望に我を忘れていた。
「違う、そんな話をしているんじゃない! もったいないと、さっきも言ったろう? もともとしっかり持っているものを、天から授かっているものを、きみはまるで溝《どぶ》にでも捨てているような真似をしているじゃないか! そんなのを見ていられないんだよ、僕は! きみはもっと真面目で、賢い人間のはずだろ、どうしてもっと、それを活かさないんだ!」
はあ。もうこりゃダメだ。平行線だ。なにも分かっちゃいない、この若様は。
ぼくは、ぼくたちの間にあるけして行き来のできない大河のような隔たりを感じて、慄然とした。
「あんたはなにも分かっちゃいないんだよ、工藤。あんたがさっき言ったんだぜ。他人の一部を見てすべてを分かったような気になるな、ってさ。その通りだよ。あんたが見たのは、たまたま成績が良かった時のぼくにすぎない。でも、いまは違う。ぼくのすべてが変わったんだ。もう、一緒に勉強、なんて言葉のわずかも聞きたくないくらいにね。あんたよりよっぽどクラスの他の連中の方がぼくのことをよく理解しているよ。あんたと違って自分に正直な分だけ、奴らの方がいくらかマシだな」
綺麗な顔に険しい表情を浮かべたままで、工藤が黙り込む。
そんな彼を残して外へ出た。逆立った神経を宥 めたくて、黙々と体育館のほうへ歩いた。ホームルームの時間だからひとけはない。
…はあ。なんだこれ。えらく痛い失恋だったな。
溜め息をつきつつ、曇り空を見上げた。
昼過ぎには快晴で気持ちのいい風が吹いていたのに、いまはどんよりとした灰色の雲が垂れ込め、大気に重い影を落としている。まるでいまのぼくの沈んだ心みたいに。
(――遠い)
全身の血液がこんこんと冷えていく。
すべてが遠い。
タカハシと少年の恋も。
工藤の情熱も。
すべてがぼくからかけ離れている。
これから工藤はぼくに興味を抱かなくなるだろう。でもしかたがない。彼はぼくの上にぼくではないものを見ていた。
ぼくはひとり堕ちていく。底知れない深い奈落へと堕ちていく。
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